「
彼との出会いは、まだ肌寒い春の頃。
毎日見ていた風景の中に、彼は忽然と現れました。
硝子越しに初めて見つめた彼の顔は、寒さで赤みをおびていて、 その中の輝く瞳の碧に吸い込まれるような思いをしたのを今でも覚えています。
その時から彼は私の特別でした。
彼は私を大切そうに抱えて、 淡々としていたあの日々から救ってくれました。
それからというもの、この部屋で彼と一緒に過ごしています。
今宵も貴方の光が覗く素敵な場所です。
彼はとても優しく笑う人です。
白妙の肌に碧色に透き通った瞳をしていて、綿毛がはじけたような柔らかい声で私を呼んでくれます。
きれいで優しげな彼の瞳や声色は、時々寂しげな表情をみせます。
私はその表情を心配に思うけれど、彼に何もしてあげることができません。
その理由が、彼はニンゲンで私はサカナだからです。
だから今宵、私は貴方に願います。
彼が辛そうに涙を流している時、私は慰めることができませんでした。
彼が苦しそうに息を詰まらせている時、私は背中をさすることは愚か、声をかけることもできませんでした。
彼の苦しむ理由すら知らないのです。
知っているのは彼の苦悶の姿ばかり。
どうして泣いているの?
どうして苦しそうなの?
私はただこの水の中、硝子越しに彼を見つめることしかできない。
このままでは、今後もずっとそうなのでしょう。
それでも彼は、私がうまく鰭を動かすことができなくとも、ちゃんと話を聞いてあげることができなくとも、いつも優しい目で見守って、あの暖かい顔で笑ってくれるのです。
彼は無力な私を責めたりしません。
でも、私は彼のためになりたい。
私と一緒に過ごしてくれた恩返しがしたい。
日に日に霞んでいくあの瞳をただ見つめていることができないのです。
無力な私にも何か、できることがあるなら、彼のためになれるのなら尽くしたいのです。
あぁ、お月様。
どうか私の願いを叶えてください。
彼に、味方がいるのだと伝えられるだけでいい。
どうか願いを叶えてください。
」
愚かな小さき魚はお月様に願いました。
お月様は毎晩、彼女達を見ていました。
そして、優しい光で彼女達を照らしていたのです。
しかし、現下のお月様は少し光を曇らせて、悩んだ顔をしています。
お月様は少し考え込んでから言いました。
「
願いを叶えることは可能であるが、それほどの代償を必要とする。生命の掟に背くのだ。死ほどの代償を捧げる強い意思はあるか。
」
彼女はとても喜んで言いました。
「
彼のためになれるのならば、それ以上望むことなど何もありません。
」
その迷いなき答弁に、お月様はまだ暗い表情をしています。
「
物事が必ずしも望む形に成るとは限らない。願いは叶えども、その先予想外なことが起こり得ることもある。それでも君は未だ願い続けるか。
」
「
それが私の1番なのです。それが叶えば私はそれで良いのです。お月様、どうか私の願いを叶えてください。
」
お月様は彼女の折れない心に免じて 願いを承諾しました。
そして彼女は、まだ少し霞んでいる月明かりに照らされながらゆっくり眠りに落ちました。
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