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通常コースとして運ばれてきた懐石料理は、ひと言でまとめるなら「最高」だった。
けれど、それ以外に気の利いた言葉が出てこない自分の語彙力が、今ほど憎く思えたことはない。
最初の前菜から、ひとつひとつが丁寧に手をかけられているのが分かる。
出汁の香り、ほのかに鼻をくすぐる柚子の匂い、噛んだ瞬間にほどける白身魚の柔らかさ。
「美味しい」とはこういうことを言うのだろう、と頭ではわかっているのに、私の口から出る感想は結局「美味しい」の一言に収束してしまう。
美味しさを表現するボキャブラリーが貧弱すぎて、料理人に申し訳なくなるレベルだ。
それでも、三人が楽しそうに「これ美味しい」「こっちも好き」と騒いでいるのを見ているうちに、まぁそれでいいか、という気分になった。
この時間を買ったと思えば、いくらかかったって惜しくはない。
「トイレに行ってくる」
そう言って部屋を抜け出し、ついでに会計も済ませてしまうことにした。
実は家を出る前にこっそり財布からカードを引き抜いておいたので、支払いの準備は万全だ。こういうところだけは計画的である。
会計を済ませて、ついでに用も足し、軽く身だしなみを整えてから部屋に戻ると、三人が輪になって談笑していた。
声のトーンからして、かなり盛り上がっている。
何の話をしているのか気にならないと言えば嘘になるけれど、わざわざ「今何の話してたの?」と割って入るほど、私は無粋ではない――つもりだ。
自分の座布団に腰を下ろし、湯呑を手に取る。
湯気の向こうで、三人が笑い合っている光景がぼやけて見えた。
ほろ苦い緑茶と、添えられた和菓子の甘さ。
舌の上でほどけていく砂糖の優しい甘みと、後から追いかけてくるお茶の渋みが互いの良さを引き立て合っていて、思わず「ふぅ」と息が漏れた。
こういうのを“良い塩梅”っていうんだろうな、と心の中で語彙力を誤魔化しておく。
「そうだ、小森さんも私の家来る?」
ふと、沙耶が何でもないことのように言った。
小森ちゃんは「えっ」と目を丸くして、次の瞬間、肩をびくっと震わせる。
「いっ、いいんですか……?」
声が一段高くなった。期待と緊張が混ざった、くすぐったいようなトーンだ。
「お姉ちゃん、いいよね?」
当然のようにこちらに話を振ってくる沙耶。
まぁ、ここまで来て「ダメ」とは言えない。言う理由も特にない。
「いいんじゃない?」
正直にそう答えると、沙耶の顔がぱぁっと明るくなった。
晴れて沙耶の“友だち”となった小森ちゃんを家に呼ぶことに、私としても抵抗はない。
七海が「ウチもいいっすか!? あざす!」と勢いよく付け加えているが、七海に関してはひと言も許可していない。もう来る前提なのが怖いところだ。
でも、さっきみたいに四人でワイワイ話しながらご飯を食べるのが、思っていた以上に楽しかったのも事実だ。
大勢と食事をするのは仕事の接待くらいで、プライベートではいつも一人だったから、こういうのが“悪くない”どころか、案外癖になりそうな気もしている。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか。会計は済んでるからさ」
全員の返事を確認して立ち上がる。
廊下に出ると、先ほど歩いた日本庭園の奥行きのある緑が目に入ってくる。
石畳を静かに進み、靴を履いて車へ向かう。道中、誰も「高くなかった?」とか「本当に払ってもらっていいの?」といった遠慮を口にしなかったのは、三人なりの気遣いかもしれない。
車での帰り道も、行きとは違って多少は会話が弾み、程よい疲れと満腹感が混ざった空気の中で、私たちは自宅の駐車場に辿り着いた。
階段を上っていくと、私の部屋の玄関ドアの前に、黒いスーツを着た体格の良い男が三人、壁のように立っていた。
――何、この圧。
スーツを着ている、という事実よりも、その体格に目がいく。
筋肉でスーツが微妙に引きつっていて、ボタンが一つ弾け飛んでもおかしくない。
普通なら「営業」とか「勧誘」とかを疑うところだが、この雰囲気はどう見てもそっち系ではない。
そのまま近づいて、彼らの横に立った。
「何か用?」
「……ほう」
一人が、片方の眉を上げて私を見る。
年齢は、ざっと見て六十は越えている。
けれど、背筋は真っ直ぐで、頬には大きな古傷が走っており、その佇まいからは「現役を退いてなお最前線に立てそうな猛者」の雰囲気が漂っていた。
歴戦の兵士、という表現がやたらしっくりくる。
その隣に立つ一番背の高い男は、明らかに嫌悪と不信を混ぜた目で私を値踏みしている。
もう一人は特に特徴のない真面目そうな顔つきだが……どこかで見たことがあるような気がして、思わず凝視してしまった。
私の視線に気づいたのか、その“特徴のない男”は、突然腰を九十度に折って直角に礼をした。
「あの節は!! ありがとうございました!!!」
「……あ、あの時の自衛官か」
声を聞いて、記憶が繋がる。
渋谷駅のゲート前で立っていて、最後に私に敬礼していた自衛官だ。
となると、猛者みたいな人はその上司か、もっと偉い立場の人だろう。
階段の方を見ると、沙耶たちが少し離れた場所から様子を伺っている。
変な空気を感じ取ったのか、誰も近づいてこない。私は手招きして、「先に中に入ってて」と身振りで伝えた。
「お姉ちゃん、大丈夫そう?」
「うん、大丈夫だよ。皆で中で遊んでな」
「エロ本探すっすよ! 成人してるなら誰しも1冊は持ってるっす!」
「えっ……そうなの? 私持ってないよ……?」
七海が物々しい空気をぶち壊すようなことを言い、そのまま部屋へ入っていく。
残念ながら、というべきか当然というべきか、うちにエロ本は無い。
ドアが閉まる音を背中で聞いてから、そのままドアに寄り掛かり、改めて男三人に向き直る。
家の中に入れないのは、「長話をするつもりはない」という意思表示だ。
「……本当に間違いないんだな?」
「はい、佐藤2佐。間違いないです。私はこの方に助けてもらいました」
「こんな見るからに非力そうな女に助けてもらうとはな……我が隊も落ちぶれたものだ」
背の高い男――佐藤と呼ばれたらしい――が、鼻で笑うように言った。
口の端にはあからさまな嘲笑が浮かんでいて、こちらをまともに“戦力”として見ていないことが丸わかりだ。
「そこのノッポ。何のアポもなく人の家に来て侮辱しに来たの?」
睨みつけると、彼は露骨に顔を歪める。
鞄の口をそっと開け、中に手を入れてアイテム袋に触れる。
――いつでも剣を抜けるように。
実際に斬りかかるつもりはないが、「やろうと思えば出来る」という状態にしておくだけで、気持ちに余裕が生まれる。
私の空気が変わったのを敏感に察知したのか、猛者みたいな人がふっと笑った。
「ほっほっほっ……佐藤。謝罪せい。この嬢ちゃんを悪し様に言ったことを」
「相田陸将まで信じておられるのですか? 情報部の間違いではないで――――」
……呆れた。
回帰前、あの地獄のダンジョン内にこんなのが隊員としていたら、私は問答無用で追放している。
脅して黙らせてお帰り願おう。
そう思ってアイテム袋から剣を取り出そうとした瞬間――。
猛者みたいな人の拳が、長身の男の腹部にドゴッと突き刺さった。
重たい肉のぶつかる音が狭い踊り場に響き、長身の男は腹を押さえて前屈みになる。
そこを逃さず、猛者は男のネクタイをぐいっと掴んで下に引き、そのまま顔面に一撃を叩き込んだ。
骨が軋む音と、肉が潰れるような鈍い音が続けざまに鳴る。
長身の男の鼻は明後日の方向に曲がり、鼻血が滝のように流れ落ちていた。
間違いなく骨が折れている。容赦がない。
「すまなかった、嬢ちゃん。うちの若いのが無礼を働いた。これで嬢ちゃんの気が済むか分からんが赦してはくれないだろうか」
「別に、そこまでしてくれるなら私は気にしないでおくよ」
ここまで徹底的にやられたら、逆にこちらが気まずくなるレベルだ。
それに、すでに“やる気”は霧散していた。
「助かった。流石の儂も部下の首が物理的に飛ぶのは見たくなかったのでなぁ」
「はははっ、首は飛ばすつもりはなかったよ」
服を掠める程度に斬るだけのつもりだった。
もしかして、この人――相田と呼ばれた人は、私から滲んだ殺気のようなものを察知して、部下を守るために今の行動に出たのだろうか。
もしそうだとしたら、“猛者みたいな人”ではなく、本物の歴戦の猛者だ。
「この場で大人しく話をすることは出来そうにないのう……今度はちゃんとした場所を設けても良いかの?」
「いいけど……名前とか教えてもらえる?」
「儂としたことが失念しておったわ……儂は異次元亀裂対策本部の長をしておる相田じゃ。無礼を働いた奴は佐藤。嬢ちゃんに助けてもらったのは北島じゃ」
そう言って、相田さんは胸ポケットから名刺を取り出し、私に手渡してきた。
硬質な紙にびっしりと肩書きが並んでいて、一目で「かなり偉い人」であることが分かる。
鼻をへし折られた佐藤さんは、北島さんに肩を貸されながら階段を降りていった。
おそらく、下に停めてある車でそのまま病院か、自衛隊の医務室にでも行くのだろう。
「今日は本当に申し訳なかった。明日に話し合いの場を別の場所で設けさせてくれまいか?」
「特に予定はないから大丈夫だけど、さっきの人は外してほしいかな」
「もちろん、配慮しよう。では、明日の午前10時に迎えを出すからそれで来てくれんか」
「分かったよ。10時ね」
相田さんたちを見送り、玄関の扉を開ける。
それにしても、見つからないと思っていたのだけれど、一体どうやって私を特定したのだろう。
テレビの映像、魔力の反応、監視カメラ……考えればいくらでも方法は浮かぶが、どれも決定打になりそうだ。
疑問は尽きないが、聞く機会はいくらでもある。明日の話し合いの場で聞けばいい。
靴を脱いで、リビングに向かう。
ドアを開けるなり、三人が勢いよく駆け寄ってきた。
「すごい音したけど大丈夫だった?」
「おじいちゃんが暴れてたぐらいだから大丈夫だよ」
「どういうこと……?」
沙耶が首を傾げて訊いてくるので、雑に答える。
間違ってはいない。実際、暴れていたのはあのおじいちゃんだ。
洗面所に行って手を洗い、うがいを済ませてから冷蔵庫の中身を物色する。
適当な飲み物を取り出して一口飲んでいると、七海がテテテッとこちらに寄ってきて、私の目の前で仁王立ちになった。
「どういうことっすか!? エロ本もAVもないじゃないっすか!!」
「人の家で何探してるの……私はそういう類のものは持ってないよ」
「嘘っすよ! 発散しないでどうやって生きてるんすか!?」
七海が頭を抱えて、その場でぐるぐる回りそうな勢いで発狂している。
まるで「発散しない人生なんてありえない」と言わんばかりの反応だ。
記憶をさらってみても、私はそういうことをした覚えがない。
考えようによっては「よく今まで生きてこれたな」と言われても仕方ないのかもしれないが、本人としては特に不自由を感じたこともない。
そういうものなのか? と小森ちゃんのほうを見ると、首をこてん、と傾けていた。
「七海さん、お姉ちゃんと小森さんは大丈夫な人種なんだよ……」
「七海ちゃん……よく分からないけど落ち込まないで……?」
沙耶と小森ちゃんが、崩れ落ちた七海の肩にそっと手を置く。
奇妙な連帯感がそこで生まれている気がするが、深入りしない方が身のためだろう。
そういえば、とふと小森ちゃんに視線を向ける。
「小森ちゃん、今日はコンビニ大丈夫なの?」
「あっ、はい! 食料品が無くなっちゃいまして……発注しても届かないみたいで、本部に連絡したら夜は休みでいいって……」
「そうなんだ」
ダンジョン出現の影響で、食料を買い込む人が増えているのだろう。
物流が止まり始めているのかもしれない。
小森ちゃんは、仕事が休みになったのが純粋に嬉しいのか、表情が柔らかくなっていた。
「あ、お姉ちゃん。今日みんな泊めてもいい?」
「……布団ないの知ってるよね?」
「皆で寝ればいいんじゃないかな……」
「狭くない……?」
広いところで寝るのが好きだから、ベッドはキングサイズを選んだ。
でも、いくら広いとはいえ、四人で寝るとなると、さすがに狭いのではないだろうか。
上目遣いの視線が三方向から突き刺さる。
沙耶の「泊めたい」と言い出したのは初めてだし、そんな顔をされて断れるほど私は強くない。
「分かったよ。寝苦しくても知らないからね?」
「やったぁ!」
沙耶が勢いよく飛び跳ねる。
七海は小さくガッツポーズをし、小森ちゃんは両手を高く挙げて喜びを表現していた。
それぞれが、それぞれのやり方で感情を素直に出していて、見ているだけで微笑ましい。
皆、感情豊かだなぁ。
そんなことを心の中でぽつりと呟きながら、私は冷蔵庫からもう一本飲み物を取り出した。今夜はきっと、いつもより賑やかな夜になる。