テラーノベル
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翌日から、江島さんは少し変わった。
朝礼前や仕事終わりのちょっとした隙間時間に、俺にロープレを頼むようになったのだ。
正直、最初は承諾すべきか悩んだ。
たしかに同行したあの日、俺から付き合いますと言った。
……でも今になって思えば、あれもだいぶ無礼な発言だった。
営業経験もスキルも自分の方が上。
そう受け取られても仕方のない言い方だったのに、江島さんはよく俺を叱らなかったものだ。
そのうえロープレは社内で行う。
他の社員の目もあるなかで、三つも年下の後輩にロープレ相手になってもらっている——なんて思われれば、江島さんのプライドだって傷つくかもしれない。
だからあの日以降、俺から話を持ち出すことはなかったし、江島さんも何も言わなかった。
……なのに。
今日、出社して開口一番に言われたのがそれだった。
『藤沢!今日、仕事終わり時間あったりする?』
いつもの飯の誘いかと思い返事を逡巡していると、そんな俺に気づいたらしい江島さんが「ちがうちがう!」と手を振って言葉を足した。
『ロープレ……もしよければ付き合ってくれないかな…』
目をぱちくりさせて固まっていると、まるでタイミングを見計らっていたかのように三浦さんがスッと会話に入ってきた。
『えっ、それ俺も混ぜてもらっていい!?』
並んだふたつのキラキラした眼差しに見つめられてしまえば、後輩の返事はひとつしかない。
……こくり。
それからだ。
俺と江島さんと三浦さん——
この不思議な組み合わせによるロープレ風景が、社内の日常に溶け込むようになったのは。
ただ先輩方の顔を潰すわけにはいかないので、初めは細かい改善点には目を瞑っていた。
けれど気づけば俺も熱が入ってしまい、話し方や立ち振る舞い、書類を指すときの指先にまで細かく指摘してしまっていた。
「鬼!」
「悪魔!!」
そんな悪態をつきながらも、ふたりはちゃんと俺の言葉を受け止めようとしてくれる。
その姿が、なんだか胸にきた。
最初はあからさまに冷ややかな視線を向けていた社員たち——
とくに、あの日喫煙所で愚痴を言っていたA御一行なんかは、「後輩に教わって恥ずかしくないのか」と嘲笑っていたが、今ではもう誰も見向きもしなくなった。
慣れたのか、興味をなくしたのか。
どちらでもいいが、視線を感じなくなったのは楽だった。
そして、社内の変化は他のところでも。
ある日を境に、壁に張り出されていた営業成績表が突然姿を消したのだ。
「部長、成績表どうしたんですか?」
誰かの問いかけに、部長は不敵に微笑んだ。
「社員からのアイディアでね。数字を視覚化しないことで、社員のモチベーション向上を目指してみようって話になったんだ」
——その言葉を聞いた瞬間、俺はハッとして三浦さんの方を振り返った。
視線の先では、優男が静かに片目をパチンと瞑っていた。
そんなふうに、少しずつ何かが変わりはじめて。
そんな今月も残すところあと一日。
恒例の月末朝礼が始まろうとしていた。
まずは部長の話。
次に、部署全体の営業結果とその反省点が読み上げられる。
そして最後に、最優秀者と最下位者の名前が発表されるのがいつもの流れだった。
その瞬間になると社員たちの表情は一斉に引き締まり、ぴりりとした空気がフロアに張りつめる。
「まず、今月の最優秀者は——」
部長の声に、全員が息を飲んだ。
「藤沢一也!」
ざわっ、と空気が波打つ。
「藤沢さーん!!」
跳ねるような女性社員の声と、「っまた藤沢か…ッ!」という悔しそうな声。
ふと三浦さんと目が合った。
彼は両手を小さく上げ、肩をすくめた。
そんな余韻も束の間、部長は小さく咳払いをした。
再び静まる空気。
社員の顔がさっきよりも緊張に染まっていく。
——無理もない。
このあと発表されるのは、今月の営業成績“最下位”なのだから。
ちらりとA御一行の方を見やると、やつらだけは余裕の笑みを浮かべていた。
『どうせ最下位は江島』
そう思い込んでいるのだろう。
だがその余裕は、次の瞬間に打ち砕かれることになる。
「そして今月の最下位者は——」
一瞬の沈黙。
その名前が口にされた瞬間、全員の視線が一斉にそちらを向いた。
そこにいたのは江島さん——
ではなくて。
俺はニッと笑う。
驚愕に目を見開いた顔。
言葉を失ったようにわななく口元。
震える手。
「…………っ!?」
——あの日、喫煙所で散々俺を罵ってくれた先輩だった。
瞬間、張り詰めていた空気がざわりと揺らぐ。
何人かの視線がそっと江島さんへ流れた。
だけど江島さんはピンッと背筋を伸ばして、微動だにしない。
自分の名前が呼ばれなかったことに、安堵した様子は一切見せない。
それどころか、初めからこうなることをわかっていたような落ち着いた佇まいだった。
一方、名前を呼ばれた本人はというと。
顔を真っ赤にして、何か言いたげに口をぱくぱくと動かしている。
でも声にならない。
周りからの視線が刺さりすぎて、うまく言葉が出ないのだろう。
しばらくの沈黙ののち、部長は淡々と次の話題へ移った。
朝礼は何事もなかったように続いてく。
だけど、もう。
誰の耳にも入っていないことは明らかだった。
朝礼が終わるや否や、社内の空気は妙に静かだ。
誰もが内心騒いでいるくせに、表では平然を装っているのがわかる。
そんな中で、江島さんはいつものようにデスクに向かい黙々とキーボードを打っていた。
その横顔はどこか清々しいほど澄んでいて。
思わず目を奪われていると、背後からふわふわした声が飛んできた。
「いやぁ〜愉快爽快だね〜〜」
ふいに三浦さんが肩越しから顔を覗かせてきた。
そのタイミングで、江島さんがコピーを取りに席を立った。
「朝礼終わった途端どっか行っちゃったね、あの人たち。ついにやる気出したのかな?」
口元は笑ってるけど、目は笑っていない。
まるで計算通りとでも言いたげに、いたずらっぽくウィンクを飛ばしてくる。
その白々しさに俺は思わず笑ってしまいそうになった。
「三浦さん、もしかして営業成績表の件、ほんとは——」
「さあ?俺は何もしてないよ?」
そう言って、口元へ人差し指。
だがそのあと三浦さんはふっと表情を緩めた。
「でもね、藤沢。努力してる人がちゃんと報われる組織であってほしいじゃん?」
低く、静かな声だった。
普段の軽快さが嘘みたいに、本気のトーンで。
「江島、頑張ったよ。あんな必死な姿はじめて見た」
「……はい」
「でもね、あいつがあんな必死になれたのも……たぶんお前のおかげだね」
ふいに喉の奥が詰まる。
だけど言葉にはしなかった。
代わりに、俺はただ静かに頷いた。
すると三浦さんは満足そうにうなずいて、最後にぽつりと。
「……来月は勝つよ」
目にはたくさんの光がきらきら反射していた。
そう言って、彼はいつも通り片目を瞑った。
なるほど。
あの人はきっと、こういうところに救われているのだろう。
これはたしかに三浦さん派と言った気持ちも頷ける。
悔しいが、今は認めざるを得ない。
敵うどころかまだまだ遠い存在だ。
それでも。
俺は静かに、けれど強く心の中で誓った。
そして去っていく背中に向かって、小さく返事をした。
「俺も、負けません」
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