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毎週土曜日が近づくと憂鬱になる。あの人が押しかけてくるから。今は夏休みだけど、盆も正月も関係ない。毎週あの人にしごかれてクタクタになる。おれは土曜日が大嫌いだ。
おれの名前は田代歩人。〈歩人〉と書いて〈あゆと〉と読む。父の名前が海人で、母は歌歩。両親の名前を一文字ずつ取ったのかとずっと思っていたが、昭和建設という会社に勤める父が直属の部下として仕える社長の名前が佐野歩夢。名前の漢字の読み方を見れば、父が心酔する社長の名前から一文字もらったというのが一目瞭然だ。ちなみに弟の名前は海夢。こちらはもっと分かりやすい。
ただし同じ兄弟なのに扱いが全然違う。弟は自由に育てられている。ほしいと言えばいくらでも小遣いももらえる。おれには何も与えられない。いや、望まないのに勝手に厄介な家庭教師をつけられた。
同じ兄弟なのに、なぜこんなに扱いが違うのだろうとずっと思ってきた。それを口に出したことは一度しかない。一度口にしたら母が泣き出したから、その話題を蒸し返すのはもうやめた。泣き出すくらいだから、悪気があっておれに冷たくしてるわけではないようだ。
父がずっと前から社長の右腕的存在であったからか、田代家と佐野家は家族ぐるみのつきあいをしている。弟の海夢は今日も社長宅で令嬢たちと勉強会&会食。楽しい時間を過ごしている。社長には二人の娘さんがいて、姉の美和も妹の心美もどちらも上品で気立てのいい女の子。
海夢も美和も心美も中学生。おれだけ高校生。そのせいではあるまいが、おれだけ社長宅を訪問することを固く禁じられている。弟の海夢は入り浸りの状態なのに。それどころか、海夢と姉妹のどちらかを結婚させようという話まで出ているそうだ。なぜおれではダメなんだろう? おれだって彼女たちと会って話したいのに。決して下心あってそう言ってるわけじゃない。純粋に彼女たちと友達として仲良くなりたいだけだ。
両親も海夢もおれのことが嫌いなら嫌いだとはっきり言えばいいのに。でも母にそれを聞いても、
「私は死も覚悟してあなたを産んだ。嫌いなわけないじゃない!」
と逆ギレされる。
海夢も、
〈おれが社長令嬢と結婚して昭和建設の社長になったら、ぼんくらの兄貴にも小遣いくらいくれてやるよ〉
などと言い出すような嫌なやつなら憎むこともできたのに、
「おればっかいい目見てるみたいで、兄さんごめんな」
といちいち謝ってくるようないいやつだから、気にするなと逆にフォローしなければならないのが腹立たしい。
去年、社長のお父さんが亡くなった。それを聞いたとき、過去に長く社長を務めた現会長が亡くなったのかと驚いたけど、そうではなく現会長は社長にとって養父で、養父とは別に実父がいたと聞いて、もっと驚いた。
でも、それを聞いてもやもやした霧が晴れたような気もした。おれが家族から差別されるのはおれが訳ありの子どもだったからじゃないのか? おれにもおれの知らない本当の家族がどこかにいるんじゃないのか?
そう思って戸籍謄本を取り寄せて調べてみたけど、認知されたなどのそれらしい記載は一切なく、おれは海夢と同じく海人と歌歩を両親とする嫡出子。それ以上でもそれ以下でもなかった。
そうそう、社長の実父といえば、おれにとっては会ったこともない赤の他人でしかないのに、両親に葬儀に連れて行かれて長々と退屈なお経を聞かされた。
ちなみに海夢は葬儀参列を免除された。社長令嬢たちとしょっちゅう会って楽しい時間を過ごしていながら、面倒な葬儀には出なくてもいい? いいとこ取りじゃん!
一方おれは嫌なことばかり押しつけられる。本当に理不尽。神様、そろそろキレてもいいですか?
ということで、おれは逃げ出すことにした。せっかくの夏休みなのに、なんであんな性格悪いじいさんの相手で一日つぶさなければならないのか? わけが分からない!
と思ってじいさんがうちに来る一時間前に玄関に出たところで、今日に限って一時間早くうちに来たじいさんとばったり出くわした。
「歩人。わざわざお出迎えか。殊勝な心がけだな。けっこう、けっこう」
じいさんの名は佐野守、八十五歳。建設業国内最大手の昭和建設前社長で、今は代表権のない会長として社長に助言する立場。現社長の佐野歩夢さんの養父であり、去年亡くなった現社長実父の実兄でもある。
老後の暇つぶしなのか何なのか、去年からおれの家庭教師をやると言い出して、毎週土曜日におれを迎えに来て、車であちこちに連れ回す。ありがた迷惑でしかないが、両親からは一切逆らうな、何でも言われたとおりにしろと釘を刺されている。拒否権はないのかとごねたら、ないと即答された。
家庭教師といっても勉強を教わったことは一度もない。真夏に柔道の道場に連れて行かれて、エアコンもない道場で有段者たちにひたすら投げ続けられたこともある。冬の寒い日に海に連れて行かれて何時間も寒中水泳させられたことも。
正直悪魔だと思う。だいたいなんでおれだけなんだ? 社長令嬢であるかわいらしい孫娘たちをしごけばいいだろう? とは言わないが、いつも社長令嬢たちと楽しい時間をすごしてる海夢は? 守さんの家庭教師が始まってから悪い夢ばかり見る。
守さんはいつも屈強な運転手兼ボディーガードを連れてくる。八十五歳の守さんを撒くのは簡単だが、黒服サングラスでおれより二十センチほど背の高いこの男から逃げ切れないのは試してみなくても分かる。
おれは言われた通り黒塗りの車の後部座席に乗り込む。隣には守さん。どこに向かっているのかも教えてくれない。景色が飛ぶように後ろに流れていき、車はどんどんおれの自宅から離れていく。
「歩人、おまえ、自分の家族をどう思ってる?」
突然、守さんがそんなことを言い出して戸惑った。
「どうって、仲のいい家族だとは思いますよ。友達で親が離婚したやつが何人もいるけど、うちは両親ともいまだにラブラブで、うちの両親に限っては不倫や離婚する可能性はゼロですね。ただ――」
「ただ?」
「ずっと前からだけど両親どちらもおれに厳しすぎる。思い込みじゃないですよ。弟の海夢は自由にやらせてるのに、いつもおれだけガミガミ怒られてたんですから」
「それは両親に罪はない。責めるなら私を責めろ」
「守さんを? なんでですか」
家庭教師といっても、先生と呼ぶなと言うから守さんと呼んでいる。
「おまえの両親は私が歩人をそう育てろと言ったのをずっと守っているだけだ」
おれが守さんと会ったのは去年が初めてだ。両親をかばうにしてもかばい方が下手すぎるし、初期の認知症から来る妄想だろうか? しっかりしてそうに見えてももう八十五歳だしね……
「それが本当だとして、守さんはおれになんの恨みがあっておれを厳しく育てろって両親に言ったんですか?」
「恨みなどない。そもそも厳しく育てろと歌歩と海人に命じたのは歩人が生まれる前だ」
「じゃあ守さんはずっと前からおれのことを知ってたんですか?」
「天下の昭和建設で三十年社長を務めた私が何も知らない子どもの家庭教師などわざわざやると思うか?」
「じゃあ、なんでおれみたいなただの平凡な高校生を教えようなんて思ったんです?」
「おまえはただの平凡な高校生などではないからだ。私は二十歳の歩夢を養子にしてそのときから今おまえにしてるような教育を施してきたが、今の十七歳のおまえは二十歳だった歩夢よりもよほど見込みがあるように見える」
「見込みって何の見込みですか?」
守さんはその問いに答えなかった。
「着いたぞ」
守さんがそう言うと同時に、車はビル地下の駐車場に吸い込まれていった。
「ここはどこですか?」
「ブティック」
「ブティック? お孫さんたちの服を買うんですか?」
「おまえの言う孫とは美和と心美のことか? 違う。今夜のサロンで着るためのおまえのスーツを仕立てる。ブティックとは女性服の店という意味ではないぞ。ここは紳士服の専門店だ。といっても一着仕上げるのに五十万以上かかる客を選ぶ店だがな」
「ごじゅ……!」
嘘だと思いながらつい叫んでしまった。さすが巨大企業の前社長。冗談もスケールがでかい。
店に入るとほかに客はいなかった。いかにも仕事のできそうな女性店員が四人もおれにつきっきりになり、採寸やらスーツの生地の説明やらを丁寧にしてくれた。この店の服の生地のほとんどはイタリア製。ただの生地から一着のスーツを仕上げる完全なオーダーメイド。
不安になって守さんに耳打ちした。
「すごくお金かかりそうだけど大丈夫なんですか?」
「ああ。夜にもう着たいから夕方までに仕上げてくれと頼んだら一着百万だと吹っかけられた。仕方ないから三着で三百万すでに払ってある」
「そんな高い服着れないですよ」
「着て早く慣れろ。おまえにはその服を着るだけの価値があるから仕立てるんだ」
金持ちというのは冗談を口で言うだけではなく、行動でも表すものらしい。
「こんな高い服を持って帰ったら親がなんて言うか……」
「喜ぶんじゃないか。私がおまえを認めたということはつまり、おまえの両親の子育てが成功だったと私が認めたということでもあるからな」
社長の右腕的存在である父が社長の歩夢さんに逆らえないのは仕方ない気がする。でも、社長に逆らえないと、社長の養父である守さんにも逆らえないものだろうか? それはなんだか違う気がする。自分たちの子育てを赤の他人の守さんに良いだの悪いだの言われて、両親は悔しくならないのだろうか?
おれは一度だけ社長の佐野歩夢さんと対面したことがある。
「今度社長のお屋敷に行くとき、兄さんもいっしょに行こうよ」
と弟の海夢が言ってくれたのに便乗して、去年の初夏、勝手に押しかけたのだ。結果、おれだけ玄関から先に入れてもらえなかった。出迎えた社長夫妻を見て驚いた。海夢がよく言っていた通り、奥さんの顔がおれの母の顔と瓜二つだったからだ。
いくら社長に心酔して忠誠を誓ってるからといって、社長の奥さんと顔が似てるというだけで自分の結婚相手を選んだのかとおれは父を情けなく思ったものだ。
でも、結婚したのは父の方が先で、歩夢社長が奥さんと見合いしたのは母がおれを産んだあとだったと後日知って、ただの他人の空似だったんだなと自分の早とちりを責めた。
結局、勝手に押しかけたおれは連絡を受けた父が迎えに来て帰らされた。社長令嬢の美和と心美の姉妹を見かけたのもそのとき。気の毒そうな彼女たちの表情をまだ覚えている。おれは心だけ社長宅に置き去りにして、抜け殻のようになって父の車で帰宅した――
スーツを仕立てて終わりかと思ったら、夜に仕立てたスーツを来てサロンに行くと守さんに伝えられた。
「サロン?」
「昭和財閥グループ各社の取締役クラスの幹部が家族ぐるみで参加する食事会だ」
「それにおれが出るの? 海夢は?」
「海夢? なぜ無関係な者の名前を出すんだ?」
なぜと言われても……。急に特別扱いされだしたことにおれはひたすら戸惑っていた。
「サロンには社長も来るんですか?」
「社長? 歩夢のことか? 参加者は一社一組と決まっているから、今日はあいつは来ない。私とおまえが今夜の昭和建設の代表だ」
なんだかとんでもないことになってきた。つまり守さんはおれを自分の家族としてサロンに連れて行くということ? おれは守さんの家族でもなんでもなくて、ただの出来の悪い教え子にすぎないのに。
そのときおれは真っ青な顔をしていたに違いない。守さんはそれに気づいていたはずなのに、おれに仕立てたばかりのスーツに着替えるように命じ、それから三十分後にはおれたちはもう車中の人になっていた。
スーツは三着作った。色はそれぞれ黒と紺とグレー。迷っていると紺にしろと守さんが言うからその通りにした。
今夜の食事会は立食式でメニューはフレンチ。テーブルマナーがああっ! と一瞬あせったが、よく考えたらテーブルマナーは今まで守さんにさんざん叩き込まれていたのだった。
夕方、会場に入るとそこはお伽話の世界のような別世界。天井から大きなシャンデリアが垂れ下がり、古い映画で見た舞踏会でも開けそうな洋風の広間のあちこちで、いかにもセレブな人たちが優雅に挨拶し合っている。
「とにかく顔と名前を覚えろ。あそこにいるのが昭和銀行の頭取とその娘。その手前にいるのが昭和食品の――」
どうやらパニクってる場合ではないらしい。言われた通り出席者の顔と名前を必死に覚える。
そのうち、さっき顔を覚えたばかりの昭和自動車の社長が守さんに話しかけてきた。
「佐野会長、お久しぶりです。今日のお連れはいつもの孫娘さんたちではないのですね?」
「田中社長、ご無沙汰です。今この子を家庭教師していてね。今日は社会勉強というところです」
「佐野会長が家庭教師!?」
「ええ、歩夢を教えた以来ですよ」
「失礼!」
田中社長はどこかへ取って返し、すぐに誰かを連れて引き返してきた。
「佐野会長、私の孫娘の麗香です。まだまだ未熟な娘ですが、ぜひその青年に紹介するご無礼を許していただきたい」
〈まだまだ未熟な娘〉というが、おれから見れば美しさという点で彼女はすでに完成されていた。その人は青みがかったグレーのパーティードレスを着て、控えめに笑みをこぼしていた。顔は写真で見た母の若い頃にどことなく似ている。髪型は若い頃の母がポニーテール、目の前の麗香がさらさらのストレートヘアと全然違うが。
天使だ! 天使がおれの目の前に舞い降りた!
かわいらしさで言えば美和と心美の姉妹の方が上だが、麗香には中学生の姉妹たちにはない清楚な華があった。
おれの心はしゃぼん玉のように空に舞い上がったが、それをしゃぼん玉のように破裂させるわけにはいかなかった。おれがみっともない姿をさらせば守さんが恥をかく。守さんが恥をかけば、おれの両親の立場も悪くなる。おれは最大限の冷静さと自制心を粘り強く維持した。
守さんはそんなおれを見てなぜか満足そうにうなずいた。田中社長によれば麗香はおれと同じ学年の十七歳。有名お嬢様学校の高等部二年生。カナダとオーストラリアに短期留学経験あり。趣味はお菓子作り。
一目惚れって作り話の中にしかないものだと思ってた。おれが特別惚れっぽい性格のわけでもない。だって、麗香のあとも三人のお嬢様を紹介されたけど、悪いけど彼女たちには胸がドキドキしなかったから。
初めて守さんが家庭教師になってよかったと思えた。今まで嫌で嫌でたまらなかった。正直守さんに感謝する日が来るとは思わなかった。
夜、興奮冷めやらぬまま帰宅したが、いつもと違って守さんがおれの部屋までついて来た。なぜか金属製の大きなケースを携えて。
「まだ何かあるの?」
「ああ。ここからが本番だ」
守さんはそう言ってケースを開いて見せた。札束らしきものがぎっしり詰まっている。また金持ちにしか分からない新たな冗談だろうか?
「百万円の札束が百束。ちょうど一億円入っている。これをおまえにやろう」
今度のはずいぶん手の込んだ冗談だ。ただ、笑いどころが分からないから黙っているしかない。
「一ヶ月でこれを使い切れ。ただし条件が三つある。一つ、このミッションを誰かに教えてはいけない。二つ、報酬の対価としてこの金を支払うのはいいが、無償で誰かにあげてはいけない。もちろん、なくしたり盗まれたり物理的に毀損して金として使えないようにするのもダメだ。三つ、一ヶ月後に一円でも残っていてはいけない。すべての条件をクリアできなければ、おまえは不合格だ」
「不合格ならどうなるの?」
「私の家庭教師はその時点で打ち切りだ」
「それ、おれにとっては願ったり叶ったりなんですけど!」
俄然不合格になる気が満々になったけど――
「今日会った田中社長の孫娘の麗香お嬢様が、おまえを気に入ってぜひまた会いたいと言っているそうだ。残念だな。不合格なら当然その話もなくなるわけだ」
「いや、願ったり叶ったりというのは、守さんの希望も麗香さんの希望も一度に両方叶えられてラッキーという意味で……」
さすがに苦しいか。でも守さんはおれの言い訳なんてどうでもよかったようだ。
「では、挑戦するということでいいのだな?」
「はい!」
おれは今までで一番気持ちいい返事を返してみせた。
守さんが帰って部屋におれ一人。とりあえずジュラルミンケースは押し入れに隠した。
一億円。おれはそんな大金の使い方は知らない。知らないなら知ってる者に使ってもらえばいい。
たとえば父。彼は社長の側近にして、総務部長の地位にある。祖父の一樹も生前同じ地位にあったそうだが、父は四十代の若さでそのポストを手に入れた(上には上がいて現社長は父より五歳も若い!)。
天下の昭和建設の総務部長の父なら一億円を有効利用してくれるに違いない。どうやって父に一億円を渡すか? 簡単だ。今までおれを育ててくれたことに対する報酬として一億円を渡せばいい。確かにそれで守さんの定めた条件はすべてクリアできているはずだ。ただ――
どうせミッションをクリアするにしても、守さんの度肝を抜くような方法はないだろうか?
翌日は日曜日、朝からおれはジュラルミンケースを持って社長宅を一人で訪問した。困惑顔の社長夫妻に出迎えられた。令嬢たちは外出中なのか出てこない。
「どういうわけか、おれがあなたたちに歓迎されてないことは知ってます。今日は交渉というかお願いに参りました」
「交渉?」
ジュラルミンケースを開き札束を見せた。
「一億円あります。このお金で社長の時間を買わせて下さい。おれは社長に嫌われてるみたいですけど、それでも社長はおれの憧れであり目標なんです。社長、今日一日おれといっしょに過ごしてもらうわけにはいきませんか。おれは今守さんからいろいろ教わってますが、社長から教わりたいこともたくさんあるんです」
ここでなぜか夫妻のあいだで口論が発生した。
「ちょっと、歩人君! そんな大金どうしたの?」
「彼はある事情でそれを僕らに打ち明けることはできないはずだよ」
「どういうことですか!」
「僕も入社前に同じように大金を託されて一ヶ月で使い切ってこいと命じられた」
「まさかお義父さまが……」
「この試験を受けているということは、父にとって次の社長候補は彼ということなんだろうね」
「そんな……。美和や心美は女だから候補にならないということですか?」
「女だからじゃない。それだけの器じゃなかったから候補から外れたんだ。仕方ない。あの子たちには違う幸せを求めてもらうさ」
呆然と立ちすくむ、おれの母とよく似た顔の社長夫人。
おれの勘が当たった。守さんは家庭教師を務めるのが現社長の歩夢さんのとき以来だと言っていた。それはつまり守さんが昭和建設次期社長の座をおれに与えることを考えているからこその行動。おれは守さんの血を引いてないが、それを言うなら歩夢さんも守さんの実子ではないそうだから、そこは気にならないのだろう。昭和自動車の田中社長も守さんの思惑を嗅ぎとったから、大切な孫娘をおれと引き合わせてくれたわけだ。
「歩人君、残念ながら僕の一日に一億円の価値はないよ」
「そんな……」
「ミッションの期限までの僕のすべての時間をそのお金と引き換えに君に売りたい。それでどうだい?」
「願ったり叶ったりです。おれに文句があるわけないじゃないですか!」
「交渉成立だね。さっそく家の中に入りなさい。母がずっと前から君に会いたがってたんだ」
社長は実母の夏海さんとも長く同居している。なぜ社長の母上がおれを知ってるんだろう?
そんな疑問が頭をもたげたが、次の瞬間それも含めておれの頭にあったすべてが吹っ飛んだ。
「社長、どうしたんですか!」
歩夢社長がぼろぼろと涙を流している。今までの会話の中に社長を泣かせるような要素があったか? おれは知らず知らずのうちに、何かとんでもない失敗をやらかしたんじゃないのか?
「今まで君をこの家に入れなかったのは、誰かとそういう取り決めをしたからじゃない。君と会ってはいけないと勝手に僕の心の中で決めていただけだった。君は何も悪くない。ただ、いつかこんな日が来るなんてあの頃は夢にも思わなかった……」
社長は涙をぬぐおうとする奥さんの手を振り払った。すべてを見破った気になっていたが、世の中にはおれの知らないことがまだまだたくさんあるようだ。
ミッション期限当日は九月だったから、もう学校も始まっている。その日の夕方、歩夢社長自筆の一億円の領収書を守さんに手渡した。領収書の但し書きには〈30日分のデート代として〉と書かれている。どのデートも楽しくて有意義だった。もう報酬は出せないけどまたデートしてもらえますかと頼んだら、喜んでと言ってもらえた。
「合格だ」
「ありがとうございます」
「私の顔など見たくもないだろう。合格祝いは麗香お嬢様との会食がいいか?」
「いや、守さんの顔を見たくないわけじゃないですよ。おれにはまだ守さんの指導が必要です」
絶対喜んでくれると思ったのに、守さんはなぜか寂しそうな表情になった。
「今九月だから私と会えるのはあと三ヶ月だと思ってくれ」
「三ヶ月後に何かあるんですか」
「クリスマスがある」
守さんは敬虔なクリスチャンだったのだろうか? そんな話、今まで聞いたことなかったけど……
「去年のクリスマスに弟の清二が死んだ。三十年近く前のクリスマスには清二が狂う原因を作った男が死んだ。クリスマスは狂人の最期にふさわしい日のようだから、今年のクリスマスに私も死ぬつもりだ。心配するな。おまえの教育は歩夢に引き継ぐ」
「何を言ってるのか分からない。そもそも守さんは狂ってなんていないじゃないですか」
「私もずっとそう思ってきた。清二の嫁の夏海、宮田大夢、歩夢の兄妹、そして清二、みんな狂ったから私は全員を罰した。今名前をあげなかった者も含めて五人も殺した。その後、私は自分の後継者として歩夢を会社に入社させたが、歩夢を傷つけた者たちを再び徹底的に粛清した。その結果、おまえの祖父の田代一樹と部下の宮路修は自殺した。おまえの母の歌歩は死を恐れていなかった。死を恐れてない者に死を命じることほど無意味で馬鹿馬鹿しいことはない。だから私は歌歩が妊娠するまで待った。歌歩の妊娠が判明してすぐにお腹の子どもを堕ろせと命じた。歌歩は、自分は出産直後に自殺するから、子どもだけは生きることを許してほしいと泣きながら土下座した。だから歌歩を恨んでいる田代海人との結婚を命じた。海人以上に歌歩を憎んでいる海人の母親と同居した上で。離婚は許さない、逃げたければ死ねばいい、子どもだけこっちで引き取ってやると突き放した。歌歩が死ぬより苦しい生き地獄に落ちることを期待して。それがまさかこんな絵に描いたような円満な家庭を築きあげるとは思わなかった。歌歩と海人の夫婦がうまくいくくらいなら、歩夢と歌歩がいっしょになっても案外うまくやったかもしれんな。今となってはすべてが今さらだが」
祖父は在職中に死んだと聞いているが、それ以外何も知らない。祖母も何も語らずにおれが中学生のとき亡くなった。祖父が死んだのは自殺で、自殺したのはそうするように守さんが追いつめたから?
いや、それも大きな問題だけど、父や祖母が母を憎んでいたというのはどういうこと? おれが見ている限り、三人の関係は良好だった。でも両親が円満な家庭を築きあげるとは思わなかったと守さんも言った。何があったか知らないが、父も母も祖母もつらい過去を乗り越えて幸せな家庭を築き守ってきたということか。
それにしても守さんが母に堕胎しろと言った? 堕胎してたらおれは生まれてないじゃん! 産んだら自殺するからこの子を産ませてほしいと母も頼んだ? 命がけでおれを産んだと母が言っていたのは、お産が大変だという一般論的な話じゃなくて、本当に死ぬつもりでおれを産んだということ?
信じられない話がてんこ盛り。キャパオーバーでおれの脳がショートした。
「歩人、生まれる前におまえを殺せと歌歩に命じた私が憎いか?」
「分からないよ。今の守さんの話が本当かどうかも分からないし、本当だったとしても守さんがそう言うくらいだから、生まれる前のおれには生きていてはいけない何かしらの事情があったんだろうし」
「歩人、狂った私と同じようなことを言うな! 生きていてはいけない命など一つもなかったんだ。それなのに金も地位も権力もあった私は、思い上がって自分が神にでもなったつもりで、気に入らない者たちを次々に断罪した。ときには罪人の身内というだけで何の罪もない者たちを死に追いやることもあった。十年前に死んだ妻があの世で寂しがっているかもしれない。そろそろ会いに行ってやろうと思ったが、三途の川を渡った途端、私に殺された者たちが待ち構えていて復讐されそうだから、よく考えたらあの世に行ったところで妻に会えるか分からんな」
「まだ来るなって奥さんに追い返されるんじゃないですか」
「一番狂っていた私が一番長生きした。もう十分だ」
守さんがクリスマスまで自死を思いとどまるかどうか分からない。ただ、おれの家庭教師は今日が最後だろう。何の根拠もないけど、そんな気がした。