気づいていた。わかっていた。知っていた。本当は。
その上で、知らない振りをしていた。
自分たちと彼は相容れない。交わらない。
だから、彼は“同じ”にはなれないからと、きっと大丈夫だと言い聞かせて。
『…たとえうたかたの幸せであっても、それでも…切ないほどに、そうしたいと思う』
あの夜会の日、モランに抱えられる形で戻ってきた兄になにがあったのか心配だった。
だから深夜、兄が起きていないかと思って足を運んだ部屋の前で、兄のその言葉を聞いたときに知ったのだ。
胸が張り裂けそうな痛みで、鏡が縦にひび割れたように、世の中の関節が外れたような、そんな世界の終わりに似た衝撃で。
気づいていなかったわけじゃない。
あの男が兄に向ける執着に。
兄が彼を気に入っていることに。
けれど所詮、彼は部外者だと思っていた。
自分たちとは相容れない、蚊帳の外にいる存在。
そのはずなのに、いつの間にか彼は兄にとってなにより特別な存在になっていた。
二人が会った回数など、片手の指で足りるだろう。
なのに抗いようもなく惹かれて、心を奪われたというのならば。
(それを運命と、人は呼ぶのではないか)
外で、かすかな雨の音が聞こえる。
出口のない迷路に迷い込んだような、途方に暮れた心地で廊下に立ち尽くした。
自分にとって、兄は全てだった。
世界の全てだった。
出口なんてなかった。
この想いに、出口などなかった。
翌朝、普段通りの顔をして起きて来たウィリアムを見て、ルイスはわずかに迷っていつものように「おはようございます」と声をかけた。
「ああ、おはよう」
「紅茶を淹れますね。
ダージリンでいいですか?」
「うん、ありがとう」
ソファに座った兄が少し眠そうにあくびをする。
無防備なその表情に、まるでなにも変わらないいつもの朝のような錯覚に陥る。
けれどいつも外出の時以外はボタンをいくつか外しているシャツが、きちんと一番上まで留められていた。
その首筋を隠すように。
一緒に夜会に行ったアルバートやモランからは、詳しい事情はなにも聞けなかった。
けれどモランが兄を自室に運ぶ途中、兄はどうしたのかと駆け寄った時にわずかに感じた匂い。
あの安物の刺激の強い煙草の香りは、シャーロックの愛用している煙草のものだ。
少なくともこの屋敷にあの煙草を吸う人間はいないし、貴族が吸うような煙草ではない。
昨夜の夜会で痴情のもつれが原因の事件があったと聞いた。
その事件の捜査のために、シャーロックが会場に来ていても不思議はない。
まだ、リビングには自分と兄しかいない。
聞くなら今しかないと思った。
「兄さん、どうぞ」
「ありがとう」
「あの、」
湯気の上る紅茶の入ったカップを兄の前のテーブルに置いて、ルイスはそばに佇んだまま口を開く。
開く。
「昨夜は、なにかあったのですか?」
その問いかけに、カップに手を伸ばしたウィリアムの手がわずかに震えたのを見逃さなかった。
ウィリアムはすぐ冷静さを装ってカップを手に取り、落ち着かせるように一口飲んで息を吐く。
「事件があったとは聞いたはずだよね?」
「貴族同士のくだらない事件ごときで、兄さんが頭を使いすぎるなんてことにはならないはずです。
アルバート兄様もモランさんも、なにも教えてくれませんでした。
…なにがあったんですか?」
あえてシャーロック・ホームズの名を出さなかったのは、兄を試していたのかもしれない。
また以前のように、自分を蚊帳の外に置くのか。それともありのままを教えてくれるのか。
「いつも一緒」だと言った。その約束を、守ってくれるのか。
ウィリアムはルイスの横顔を見上げ、困ったように──とても優しく微笑んでカップをソーサーの上に置く。かちり、と磁器の触れ合う音が鳴った。
「…いつも一緒だと、約束したよね」
「…はい」
「その言葉を違える気はない。
きみに嘘を吐きたくはない。
…きみを傷つけるとしても」
「…はい」
構わなかった。
兄の手で傷つくならば、それでよかった。
その荊の棘でかきむしって、傷つけて欲しかった。
傷跡でも、兄がくれるものならば愛おしかった。
「…ホームズに会ったよ」
「……それで?」
「笑うかい?
ルイス」
形の良い唇をつり上げてみせた兄の表情は、自嘲のように切なげだ。
「僕が、彼を愛していると言ったら」
窓の外で、さあさあと雨の音がする。窓枠に当たった雫がピアノの音色のように物悲しく響く。
「…ウィリアム兄さん」
しばらくの沈黙の後、ルイスは微笑んで兄に呼びかけた。
「僕は、兄さんの弟ですよ?
ずっと一緒にいた、あなたの弟です」
「…うん」
「…その僕が、…あなたの気持ちに気づいていないと思いましたか?」
ルイスの顔に浮かんだのは泣き出しそうな、歪な微笑だ。
それを見上げて、ウィリアムはその緋色の瞳を揺らした。
「…それでも、兄さんと一緒なら僕はそれでよかったんです。
いつも一緒なら、それでよかった」
本当はあの男を許せないと、殺してやりたいという憎悪が胸の中にある。
それでも、なによりも大事なのは兄の願い。
あの男が兄の願いに必要だというならば、業火のような憎悪も殺意も全て呑み込もう。
たとえ喉が焼けただれ、ひどい痛みに苛まれようとも、それでも口を塞いで全てを呑み込んで笑ってみせるから。
それで兄の願いが叶うならば。
そっと身を屈めて、雨音がかすかに響く室内で世界から隠れるようにその唇にキスをした。
「好きです」
吐息の触れる距離でささやいて、わずかに濡れた唇から離れ、姿勢を直してルイスは続ける。
「…兄さんが。
兄さんがいない世界には、僕にはなんの価値もない」
「…知ってるよ」
「好きです。
好きなんです。
…兄さん」
「…きみが欲しいものなら、なんでもあげる。
僕にあげられるものなら」
叶わないとわかっていて繰り返した愛の言葉は、幼子の駄々のようだったかもしれない。
それでも兄は微笑んで聞いてくれた。
いつもずっと傍らにあった、あの優しい笑顔で。
「…そうですね。
でも、心は僕のものにはならないでしょう?」
だからこそ、それがなにより悲しい。
ずっと一緒にいる。永遠に。地獄の底までも。
ただひとつ、その心だけが手に入らないことが。
自分の問いかけに兄はただ、寂しそうに笑うだけだった。
その日の昼過ぎ、用事があって出かけるウィリアムに付き添って、ルイスも共に街に出た。
用事自体は大したことはなくすぐに済んだが、途中で雨足が強くなり、雨宿りにあるカフェテリアに入ったときだ。
窓際の席についてすぐ、ウィリアムが外を見て目を見開いた。
ルイスが視線を向けた先、雨宿りに店の軒下に入ったばかりの男と目が合う。
シャーロック・ホームズ。
彼はルイスがなにか行動を起こすより早く動くと、店の中に入ってこちらに大股で近寄ってきた。
あの列車の中で偶然会った時のように、自分のことなど目もくれず、兄だけをその瞳に映して。
「リアム」
「…………ホームズさん」
わずかに迷って兄の名を呼んだ彼に、兄は少しその緋色の瞳を揺らして彼を呼んだ。
シャーロックの手には傘がある。彼の身体はあまり濡れてはいなかった。
「…雨が強くなっちまったから雨宿りしようと思ってな。
…そうしたら、おまえがいたから」
「…奇遇ですね。
昨日の今日で」
「……ああ」
ウィリアムは伏し目がちに、あまりシャーロックのほうを見ないようにして言葉を返す。
シャーロックもそのことに気づいているだろう。
けれどそれを問い詰めないのは、心当たりがあるからだ。
おそらく昨夜の夜会で、彼はなにかを兄にしたのだ。
そのことを、兄は話してくれなかったけれど。
その場に沈黙が落ちて、シャーロックは少し迷った後空いていた席に腰を下ろす。
元々四人席だったから、シャーロックがそこに座っても問題はない。
ルイスの感情を除けば。
ルイスの本心から言えば、彼にここにいて欲しくはない。
だって昨夜、夜会から帰ってきた兄の目元は赤く腫れていた。
「…あなたは、不躾にもほどがあります」
耐えきれずにそう口火を切ったルイスに、わずかに兄が目を瞠る。
「無神経だと言えばいいですか?
昨夜、なにがあったか知りませんけれど、でも」
「ルイス」
「兄さんを泣かせたのは、あなたでしょう?」
控えめな声でそれでも制止しようとした兄を遮って言い放つと、シャーロックは目を見開いてそれから後悔したように顔を歪めた。
「どうして、兄さんを泣かせたんですか?
あなたが兄さんを傷つけていたなら、僕はあなたを許せない」
「ルイス」
「だって、」
言い募りかけた声が喉元で途絶える。
やめてくれと訴える兄のせいではなかった。
わかっていたからだ。本当は、ずっと。
なにより愛しい、世界の全てだった兄の──運命。
死ぬほど恋い焦がれ、欲したそれを得たのが、どうしておまえなんだ。
ずっとそばにいた自分でも、自分たちをすくい上げたあの一番上の兄でもなく。
いずれ分かたれる、敵になる、結ばれようもな
い、幸せなどあり得ない相手が、どうして。
「…あなたは、兄さんと出会うべきじゃなかった。
──どうして、兄さんの前に現れたんだ」
やっとの思いで発露した声も、雨音のようなか細い響きになった。
雨はまだ止まない。
客の少ないカフェテリアには、ささやかな音しかない。
カップとソーサーが触れ合う音、誰かの新聞を繰る音、窓の外の人々の足音と、雨の音と。
「…出会うべきじゃなかった、か」
しばらくの沈黙の後、シャーロックはため息交じりにそうこぼした。
「少なくとも、俺はそう思わないぜ」
その口の端に浮かべた笑みはどこか不敵で、そして切なげでもある。
「あの船でこいつに会えた」
椅子に座ってポケットに手を突っ込んだまま、シャーロックは真っ直ぐにウィリアムの瞳を見つめて告げた。
「俺は、それが運命ならいいと、…切ないくらいに思うぜ」
本当に嫌いだ。
どうして、兄と同じようなことを言う。
本当に、運命みたいに。
ぶつけたい言葉もなにもかも喉元で息絶えた。
ずっと黙ったままの兄の横顔が、消え入りそうに儚くて胸を軋ませた。
結局あれから一時間ほどカフェテリアで時間を潰したが、雨は止まない。
辻馬車を呼んで帰ろうとルイスがウィリアムに言って、ウィリアムも頷いて一緒に店を出た。
「兄さん。
辻馬車を呼んできますから」
「ルイス。
でも」
「大丈夫です。
傘はありますから」
ルイスはそう言ってウィリアムを店の軒下に留めると雨の下へと歩き出す。
雨に閉じ込められたような静謐な空間。
隣に佇むシャーロックの横顔を見ることも出来ず、ウィリアムは黙り込んだ。
「…兄思いの弟だな」
「…ええ」
「本心じゃ、俺とおまえを二人きりになんかしたくないだろうに」
「……」
ややあってシャーロックのほうが話しかけてきた。
いつも饒舌な彼らしくなく、言葉を選んだような、ぎこちない口調で。
「こうして俺と話す時間を作ったのは、結局おまえのためなんだろ」
「……………」
「言ってくれよ。
なにか。
…責めてもいいから。
おまえの言葉で…………」
空から落ちる雫が、涙のように見えた。
隣で響くシャーロックの声が、震えているように聞こえる。
少し動けば触れ合うだろう場所にある彼の肩が、ウィリアムの心をかき乱した。
不意に襲ってきた寒気にぶるりと身体を震わせたウィリアムに気づいて、シャーロックが着ていた自分のコートを脱いでかぶせる。
頭まで覆うように、隠すようにして。
「貸すから、後で返してくれ」
「…え」
「そんな口実でもなきゃ、会えないだろ。
…俺たちは」
そうささやいて、シャーロックは顔を寄せると彼から目をそらせずにいたウィリアムの唇をそっと奪った。
一瞬、かすめるだけの口づけは胸に棘を刺してきつく痛ませる。
夢のようなその感触に、ウィリアムは笑おうとして失敗し、歪な笑みを浮かべて声を絞り出した。
「…あなたは、残酷です」
どうしてそんなに、意図もたやすくその線を踏み越えられるのか。
細心の注意を払って踏み外さないように、踏み越えないようにしているその線を、どうしてそんな簡単に。
(あなたは超えてしまうんだ)
どうして、そんな風に手を伸ばしてしまう。
「…お願いだから、あなたはこちらには来ないで。
私の手なんか、取らないでください。
…私になんて、囚われないで」
笑おうとするのに、きっと泣きそうな顔になっただろう。
シャーロックが辛そうに眉根を寄せたから。
「…そうしたらきっと、私はあなたを許さない」
ありったけの思いで突き放したのに、彼は迷わず答えるのだ。
「じゃあ、俺は一生許されないな」
おまえの願いなんて、聞いてやらないと。
なにより残酷で、優しい言葉を。
「…酷い人ですね。
…本当に、…あなたは」
空から降る雨のように、泣いてしまえるなら楽だった。
自分の代わりに泣いて泣いて、枯れるまで泣いて欲しかった。
風で煽られた雨の雫がウィリアムの金色の髪に落ちて、そのまま頬へと伝う。
「…泣くなよ」
それが雨だとわかった上で、なにもかも読んだようにシャーロックが言って、もう一度顔を寄せた。
触れた唇を避けられるなら、どんなに楽だっただろう。
(あなたから逃げられたなら、どんなに)
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