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こけこっこ
第一話 「帰りたいと願える場所」
二〇◯◯年——冬季オリンピック。
吹雪の中、一本の赤い旗門へ向かって、一人の日本人選手が飛び込んでいく。
白鷺冬夜。
日本アルペンスキー界のエースだった。
実況の声が響く。
「白鷺、かなりいいタイムです!このままいけば——」
次の瞬間だった。
ガッ——!!
スキー板が氷を噛む。
一瞬、体勢が崩れた。
「っ!」
観客の息が止まる。
冬夜の体は急斜面で大きく跳ね、そのままコース外のネットへ吹き飛んだ。
実況も止まった。
雪煙だけが舞っていた。
それから、日本へ戻った冬夜は長い治療とリハビリを続けた。
複雑骨折。
左手の握力も、ほとんど戻らない。
何度も病院へ通った。
何度も雪山へ立とうとした。
だが。
ポールに入ることだけは、もうできなかった。
三十五歳。
白鷺冬夜は、現役引退を発表した。
ニュースには、
『若き日本代表、涙の引退』
という文字が並んだ。
それでも。
冬夜はスキーを嫌いになれなかった。
七年間、ずっと隣で支えてくれた妻・愛花と共に、群馬で小さなアルペンスキーのスポーツ少年団を立ち上げた。
愛花は昔から冬夜の一番の理解者だった。
辛い時も、怪我で荒れていた時も、ずっと隣にいてくれた。
そしてもう一つ。
愛花には、生まれつきの持病があり、子供を産むことができなかった。
病院の帰り道。
何も言えなくなる冬夜に、愛花は笑って言った。
「私はね、冬夜さんと一緒に笑って暮らせれば幸せだよ」
その言葉に、冬夜は何度救われたか分からない。
愛花は保育士として働きながら、趣味でマジックをしていた。
手先がとても器用で、子供たちや老人ホーム、お祭りでもよく披露していた。
そして冬夜が落ち込んでいる時は、決まって愛花の小さなマジックショーが始まる。
「はい、冬夜さん注目〜」
トランプがふわりと宙を舞う。
何もなかった手の中から花が出たり、コインが消えたり。
そのたびに、冬夜は呆れたように笑った。
「……お前ほんと器用だな」
「えへへ〜。元気出た?」
そんな時間が、冬夜は好きだった。
だからこそ。
二人で作った少年団は、ただ強くなるだけの場所じゃなかった。
「楽しいって思える場所にしたいね」
愛花が笑う。
冬夜も小さく頷いた。
ある日。
冬夜は知り合いが院長をしている孤児院へ向かっていた。
「久しぶりに顔出すだけだ」
運転しながら冬夜が言う。
助手席の愛花は笑った。
「ふふ、子供たち喜ぶんじゃない?」
もちろん。
その時の冬夜に、“後継者”を探すつもりなんて一ミリもなかった。
ただ、顔を出すだけ。
それだけのはずだった。
——でも。
見つけてしまった。
自分の人生を変える、小さな少女を。
「っ……ご、ごめんなさい……」
小さな声が、冷たい部屋の隅に落ちた。
「また泣いてる〜!」
「うたげの顔、ほんと変!」
硬いおもちゃが飛んでくる。
ごつん、と肩に当たった。
白鷺宴——まだ五歳の少女は、小さく体を丸めた。
痛い。
でも、泣いたらもっと怒られる。
宴は唇をぎゅっと噛んだ。
薄く汚れた服。
ぼさぼさの長い髪。
腕や頬には、小さな痣がいくつも残っている。
周りの子供たちは笑っていた。
「また捨てられるんじゃない?」
「だって泣き虫だし勉強も運動も出来ないし当たり前だろ」
宴はうつむく。
——ここにいちゃ、ダメなんだ。
まだ五歳なのに、そんなことばかり考えていた。
「おーい、お前ら。今日はお客さんだぞ」
院長の声で、子供たちが一斉に振り返った。
入口には、一組の夫婦が立っていた。
背の高い男の人と、ふわっと優しそうな女の人。
「こんにちは〜」
愛花が柔らかく笑う。
その瞬間、子供たちは一気に駆け寄った。
「ぼく足速いよ!」
「私、勉強できる!」
「見て見て!」
みんな必死だった。
選ばれたいから。
でも宴は庭の隅に座ったまま、砂を見つめていた。
どうせまた、選ばれない。
風が少し冷たい。
その時。
「……あの子は?」
低い声が聞こえた。
宴はびくっと顔を上げる。
冬夜が、自分を見ていた。
院長は少し笑いながら言う。
「あぁ、うたげっていう子ですよ」
宴の肩が小さく揺れる。
「あの子はいいですよ〜。最近じゃ珍しい静かな子で」
院長は宴を見ながら笑った。
「まあ、泣き虫すぎますけどね」
周りの子供がくすくす笑う。
「これまで五件くらい家族に捨てられてますし」
その言葉に、宴はさらに小さく縮こまった。
すると。
「……そうですか」
冬夜の声が低くなる。
静かだった。
でも、怒っているみたいに静かだった。
冬夜は宴から目を離さない。
痣。
怯えた目。
縮こまった肩。
——昔の自分みたいだ。
誰にも届かない場所に、一人でいる感じがした。
次の瞬間。
「俺は、この子にします」
宴は目を見開いた。
冬夜は真っ直ぐ宴のところまで歩いてくる。
大きな靴が土を踏む音。
宴の前でしゃがみ込む。
「……うたげ」
優しい声だった。
その時。
ぐっ、と肩に痛みが走る。
「よかったなぁ!」
院長が笑いながら、宴の痣を押していた。
「また家族になれそうな人がいて!」
痛い。
怖い。
宴の体が震える。
逃げたい。
でも——
目の前の人は違った。
冬夜は何も言わず、ただ手を差し伸べていた。
大きくて、ごつごつした手。
宴はその手を見つめる。
怖かった。
また捨てられるかもしれない。
でも。
今まで感じたことのない安心感があった。
宴はゆっくり手を伸ばす。
小さな指が、冬夜の手をぎゅっと握った。
「……ふふ」
優しい声。
振り返ると、愛花が立っていた。
愛花は宴の前にしゃがみ込む。
「軽い……」
少し悲しそうに呟いて、そのまま宴をそっと背負った。
温かかった。
宴はびくっとしながらも、抵抗できなかった。
「冬夜さん」
愛花は真面目な顔で言う。
「私も、この子がいいわ」
院長はタバコをくわえながら笑った。
「そりゃよかった。そいつはタダでいいですよ」
冬夜は小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
でも、その声は少し冷えていた。
車の中。
愛花が後ろを振り返る。
「ねぇ、うたげちゃんって漢字どう書くのかな?」
冬夜は少し考え、付箋を取り出した。
さらさらと文字を書く。
『宴』
愛花の顔がぱっと明るくなる。
「かわいい〜!!」
付箋を大事そうに持ちながら笑った。
「戸籍の漢字、これにしましょ!」
宴はじっとその文字を見る。
“宴”。
温かそうな字だった。
家に着くと、愛花はすぐ宴をお風呂へ連れていった。
「今日はいっぱい頑張ったもんね〜」
温かいお湯。
宴は緊張しながら小さく座る。
その時。
「あっ……!」
愛花の声が止まった。
腕。背中。足。
服の下には、消えかけた痣や傷がいくつも残っていた。
愛花の顔色が変わる。
「冬夜さん!!」
冬夜がすぐ飛んできた。
「……っ」
表情が固まる。
「なんだよ……これ」
低い声だった。
冬夜はすぐ孤児院へ電話をかける。
だが。
『現在、この電話番号は——』
繋がらない。
冬夜は小さく舌打ちした。
愛花は宴を安心させるように頭を撫でる。
「大丈夫だからね」
二人は傷がしみないよう、ゆっくり綺麗にしていった。
髪も長い間洗われていなかったのか、泡が何度も黒くなった。
愛花は器用な手つきで伸びた前髪を整える。
綺麗な服を着せる。
そして。
「きゃーー!!」
愛花が飛び跳ねた。
「かわいい!!かわいい!!」
宴はびくっと肩を揺らす。
冬夜も思わず笑った。
「……確かにな」
宴はぽかんとしていた。
でも。
怖くなかった。
今まで行ったどの家よりも、安心できた。
夜。
テーブルには湯気の立つご飯。
愛花が優しく笑う。
「いっぱい食べてね」
宴はそっとスプーンを持った。
手が少し震えていた。
一口、食べる。
その瞬間。
ぽろっ。
涙が落ちた。
「えっ!?う、うたちゃん!?」
愛花が慌てる。
宴は涙をぽろぽろ落としながら、ご飯を食べ続けた。
温かい。
柔らかい。
美味しい。
孤児院では、カビたパンや果物の皮ばかりだった。
でも、ここは違う。
宴は夢中でご飯を口に運ぶ。
「おいしい……」
ぽろぽろ涙が落ちる。
「あったかい……」
声が震える。
「あり……がと……」
愛花の目がうるうるする。
「うたちゃん……!」
冬夜も優しく笑った。
そして宴の頭を撫でる。
大きくて、温かい手。
「今日から君は、俺たちの家族だ」
宴は顔を上げる。
冬夜は少し照れくさそうに続けた。
「たくさん甘えていいんだ」
その瞬間。
宴は泣きながら二人に抱きついた。
小さな手で、ぎゅっと服を掴む。
震えていた。
でも、その震えはもう怖さだけじゃなかった。
それから月日が流れた。
冬夜は宴と一緒に運動をした。
「よし、もう一回!」
「う、うんっ!」
文字も教えた。
「“あ”だ」
「……あ!」
「お、できたじゃねぇか」
宴は真剣だった。
愛花はそんな宴のために、小さな部屋を作った。
手作りのバッグも縫った。
少しずつ。
宴は笑うようになった。
目に光が戻っていった。
冬。
白い雪が降る日。
宴は初めてスキー場へ来ていた。
「わぁ……!」
真っ白な世界。
キラキラ光る雪。
宴の目が輝く。
そして冬夜と一緒にリフトへ乗る。
人生初のスキー。
最初は冬夜が背負ってくれた。
「しっかり掴まってろ」
「う、うん……!」
次の瞬間。
風のように斜面を滑り降りた。
速い。
冷たい。
でも。
楽しい。
心が震えるくらい、楽しかった。
滑り終えたあと、冬夜が笑う。
「どうだった?怖くなかったか?」
宴は息を切らしながら笑った。
「すごく……楽しかった!」
少し考えて、
「びっくりしたけど、楽しかった!」
その笑顔を見て、冬夜も笑った。
リフトに乗りながら、冬夜が静かに言う。
「俺は昔、アルペンスキーの選手をしてた」
宴は真剣に聞く。
「でも怪我しちまってな。もうポールには入れねぇんだ」
少しの沈黙。
風の音。
そして冬夜は宴を見る。
「うたちゃん」
「……なに?」
「アルペン、してみないか?」
宴の目が丸くなる。
「もちろん強制じゃない」
冬夜は優しく続けた。
「やりたくなきゃ、それでいい」
「これは、君の人生だからな」
宴はぎゅっと手を握った。
ずっと前から決まっていた。
愛花から、冬夜の話はたくさん聞いていた。
父がどれだけすごい人かも知っている。
それに。
自分にも、何か特技が欲しかった。
拾ってくれた二人に、恩返しがしたかった。
宴は顔を上げる。
その目は、希望で輝いていた。
「私、アルペンやりたい!」
冬夜が少し驚く。
宴は笑った。
「お父さんみたいに、かっこよくて優しい選手になりたい!」
白い雪が、静かに舞っていた。
月日が経ち、宴は十二歳になった。
身長はぐんと伸び、昔の小さな面影は少しずつ消えていた。
これまで宴は、本当にたくさんのことに挑戦してきた。
サッカー。
ダンス。
ピアノ。
絵。
地区のマラソン大会。
興味を持ったものには、とにかく全力だった。
しかも、どれも意外と上手かった。
「うたちゃん運動神経いいよな〜」
冬夜が驚けば、
「えへへ〜!」
宴は得意げに笑った。
学校でも友達が増えた。
最初は怖くて話せなかった宴だったが、今ではクラスの中心で笑っていることも多い。
もちろん、スキーも。
大会では少しずつ結果を残し始めていた。
そして、この夏。
宴は群馬スキー連盟の測定会へ向かっていた。
助手席には冬夜。
今日はコーチ兼役員として参加している。
「緊張してるか?」
冬夜が聞く。
宴は窓の外を見ながら笑った。
「ちょっとだけ!」
でもその目は、どこかワクワクしていた。
この日。
宴の心を大きく動かす出来事が起こることを、まだ誰も知らない。
次回
「新しい友と言う名のライバル」
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