「――大丈夫? 疲れてない?」彼女の髪を撫でる広坂。「本当、週末ごとにどこかに出かけっぱなしで疲れただろう。しかも、きみに任せてばかりで……申し訳ない」
「いいのよ」広坂の腕のなかで首を振る彼女。二人は、九月の末に結婚パーティを予定している。恋愛結婚が決まった段階ですぐに、平日は定時で帰ることの出来る彼女が中心となって、準備を進めていた。先ず、レストランウェディングをする場所の選定。これはふたりの食の価値観が合うこともあり、一度でぴたりと決まった。続いて、プランナーは、レストランと提携しているところがあり、共働きである彼らに比較的負担のかからないようにと、打ち合わせは五回で終了。席次表などのペーパーアイテムの作成も完了しており、あとは親族の衣装絡みを除けば、ヘアセットリハーサルを残すのみ。
「明日は、……ゆっくりしよう。久しぶりの、なにもない、休日だ……。どこか、行きたいところとかあるかい?」
「ああ……」広坂の胸に顔を埋める彼女は、「そう、ね……ブラジャーが欲しい」
「……ブラジャー?」
「ほらわたし、おっきくなっちゃったから……」やさしく揉む彼の手つきを感じながらうっとりと彼女は、「毎日、毎日、あなたに愛されて。何枚か買ったんだけどまたね、サイズアウトしちゃって……本当、どこまで大きくなっていくのかしら……」
「いま、サイズいくつだっけ?」
「……E」
「そんなに……あんの?」からだを起こし、まじまじと彼女の胸を見つめる広坂。そんな彼の反応にくすくす彼女は笑い、「元々、……Cだったはずなのに。自分でもびっくりよ。セックスでこんなにも変わるなんて、わたし……知らなかった」
「ご褒美をあげないとね」と広坂。「いろいろ……生活のこととか、自分なりに努力しているつもりなんだけど、やっぱりね。平日はきみに負荷がかかりがちだから……んで帰宅すればそっこーご主人様のフェラと来たもんだ。きみほど従順な女の子はいないよ」
「んもう」広坂のジョークに笑って小突くことで応じる。広坂はいつもするように彼女の頬を両手で挟み込むと、
「いいよ……明日は、きみの見たいものを見て、したいことをしよう……女の子がショッピングしてるの見るのぼく、好きなんだ。ぼくのことは空気とでも思って?」
かくして、彼女と広坂は、商業施設にやってきた。場所は武蔵小杉。昔は工場ばかりでショッピング施設など皆無だったらしいが、いまは見違えるような都会。ところ狭しと、ばんばんタワマンが建つエリアを縫うように、ショッピングセンターの数々が屹立する。
彼女はウィングのブラジャーを愛用している。よって四階の奥にあるウィングの専門店に直行する。どうやらこちらの商業施設は完全に親子連れをターゲットにしているらしい。隣には子どもたちの衣類、それにおもちゃを売っているエリアがあり、なかなかの賑わいだ。なかなかどころがものすごくというほうが正確であるが。
広坂とラブラブ手を繋ぎ、ときに商品に手を取り眺めていたはずの彼女が、気づいたことがある。
(どうやってこんなに可愛らしいブラを着るのかしら? 真夏に?)
素朴に疑問だった。夏といえば白。明るいいろのトップスを好んで着用する彼女のブラジャーは常にベージュ。白のトップスを買う場合は必ず試着して下着の透け具合を入念に確認するほどだ。薄手のトップスはアウト。なので割りと厚手のトップスを愛用している。いまだと特に、流行りのワッフル素材。今年はワッフルで袖なしや半袖のタイプも出ており、袖の短めのものを愛用する彼女だ。
ところが、下着売り場で飾られているのはピンクや、白地に紫の花柄やイエローなど、実にカラフルである。まさに女は花……女という花を密かに彩るために下着たちが努力している、そんなふうに彼女は思った。
「これなんかいいんじゃない?」と広坂が淡いピンクのものを手に取る。「するぅーっ、としてて軽くって、なんか夏にぴったりなんじゃない? しかもワイヤーなしでしょう? これ……」
「……でも、透けるわよね? どうやって着るのかしら……」
下着売り場に男性が居合わせることに気まずさを感じる女性もいるであろうと、朝一番に彼らはここにやってきた。よって客は彼らのみ。気が付いた店員が、彼らに見て回らせる余裕を与えたうえで、接客に入る。「一枚、インナーを重ねれば違いますよ。真夏は皆さん、そうしておられます」
「えっそうなんですか」盲点だった。確かに、ユニクロがブラトップを出した辺りから、エアリズムやその手の薄手の肌着が大流行しているように思えるが、まさかブラジャーの透け対策だと思わなかった。驚きを示す彼女に店員は柔和に笑い、
「こちらをご覧いただけますか」
キャミソールが何枚もかけられたところへと誘導する。夏妃からブラジャーを受け取ると、その白地に鮮やかなピンクや紺色の花が咲くうえに、キャミソールを重ねる、と……
「消えた!?」彼女は本気で驚いた。「えーっ。ほんとですか? だっからあんなにカラフルなブラジャーが多いんですね。いったい皆さんどうやって着ているのか、常々疑問だったんですよ」
「白だと透けます。つまり、ブラジャーのお色味がそのまま出ます。ですがベージュや、このような色味のグレーでしたら、重ねることで『消え』ますよ……」
「はーすっごい。あたし三十二年間なにしてたのかしら。社会人になった頃から、ずっと夏はベージュ! で通してきました……。てか今年のSUHADA軽いですね。いま使ってるの分厚くて……夏は蒸れる感じで結構きついんです。毎日洗わなきゃならないのに、乾くのに時間もかかるし……」
「こちらの商品、触って頂ければ分かるように、カップが薄いです。通気性を重視しておりますので、夏にはお勧めです」
「あーそうなんですね。夏には夏のブラ。季節ごとにふさわしい商品が、ちゃんと売られているんですね……いろいろと勉強になりました。ある程度、季節ごとにチェックしないと駄目なんですね。お洋服と同じで」
「なんにせよ選択肢が豊富になったようでよかったね」夏妃の肩を抱きまとめに入る広坂。「……さ。存分に迷おう。要はインナー重ねればなんでもアリってことでしょう? いいね……オプションのひとつとして是非、真っ赤っ赤なものを検討願いたい。赤を見るとぼく、燃えるんだ……闘牛士みたいにね」
「やはり、F70がお客様にぴったりにございますね」言って店員は彼女の胸を指し、「……若干の。ここのところに浮きがございますが、左のお胸のほうが大きいですので、そちらに合わせるとベストサイズがこちらに思います。腕を動かしてみて、なにか、窮屈ですとか、違和感などございませんか?」
「あいえ全然」
「浮きが気にならないようでしたらこちらかと。E70ですと、左のお胸が窮屈そうにございます。かたちがやや潰れていたように思いますので……」
「分かりました。こちらに決めます」
「お客様、他にご試着はなさいますか?」
「えーっと彼に相談してから……」
「かしこまりました。ごゆっくりご覧ください。こちらはお預かり致しますね」
「……ありがとうございます」
試着室の外で待っていた広坂に声をかける。「……お待たせ。広坂さん、あたしまた……おっきくなっちゃった。今度はF70よ。どうしよ……ひとまず、三枚くらい買おうと思います……」
「SUHADAだっけ。ワイヤーなしのがいいんだよね」
「あでも。一枚くらい、マゾヒスト闘牛士の欲求を満たすような色合いのものがあっても……」
彼女の頭を撫でると、小さな彼女のジョークに小さく広坂は笑った。
――気づいているのだろうか。あなたはいつしか自分を――『あたし』と言うようになったということに。
昔、『アクマで純愛』という漫画があった。おとなしく自分の意志を表明出来ない明子という女の子が、実は二重人格で、暴れん坊のほうの裏人格アキコが、ばったばったとライバルたちや不条理な現実に刃向かって行く。最終的にはアキコのほうが主人格として残り、眼鏡を外すとイケメンの山田という男の子と結ばれるに至る……実は人間は誰しも複数の人格を有するというのが広坂の人間観だ。――いま、愛されているほうの彼女は誰なのかと思う。鮮血色のブラジャー一枚を身にまとい、懸命に愛しこまれているほうの彼女は。
「あ、たしもう……」『あたし』と言われるたびにぞくりとする。あの女王様のプレイを想起させられるからだ。「ああ……涙が止まらない、よぅ……ああ……っ」
くっきりと刻まれた胸の谷間を舌で這われ、透明な筋が彼女の頬を伝う。「感じ……ちゃう、よぉ……」
「可愛い夏妃」音を立てて胸元に口づける。赤に包まれた乳房を揉みながら、「おれに――どうして欲しい? もっと舐められたい? それともおれのペニスが――欲しい?」
うわごとのように彼女は言った。「広坂さんが――欲しい」
いま、官能にうちふるえる彼女は誰なのだろう、と広坂は思う。深く深いところに辿り着き、未開の森を切り開く。男は、野蛮でそして――野性的だ。女を開くという宿命を与えられた性別。ぴったりと、一枚の布の所在も許されぬほどに一体となったふたりは、深く口づける。愛おしさを表現する魂のふれあい。それこそが、見たこともない境地へと、彼らを誘ってくれる。
彼女の内側を堪能したのちに、やがて、広坂はセックスへと移行する。目に鮮やかな赤に包まれた彼女の乳房。なるほど確かに、興奮する……赤は情欲を駆り立てるいろだ。やや汗ばんだ胸の谷間を吸いながら、広坂は懸命に自身の愛を、伝えた。赤よりも深い赤に染め抜かれた自分の情欲を。
落ち着いた頃に、彼はホックを外し、それに口づけた。今宵の愛を彩ってくれたこの下着に感謝を伝えたかった。夏妃の白い肌にこの赤が映える。まるで愛情が口を開いて待ち構えているかに見えた。
くんくん、と広坂が鼻で嗅ぐと夏妃が笑った。「そんなに……気に入った?」
「下着の効果を舐めてたよ」べろりと夏妃の唇を舐めあげる広坂は、「ぼくが腰を振る都度、この赤がぼくの網膜を刺激してくれててね……たまらない気持ちになった。音や色や質感てのは大事だね。ストッキング同様……何故に女の子たちが自分を着飾ることにあんなにご執着なのか。遅ればせながらその理由がよく分かったよ」
「広坂さん……わたしのストッキング大好きですもんね」
「うんそう」喜ばしげに広坂は、「『あのこと』が露見したらぼく、……降格かもね? 首にまでならないにしても、イメージダウンは必至だ」
「……わたし的には広坂さんファンが落ち着いてくれたほうが安穏と過ごせるのですが」
ここで、広坂は法則に気づいていた。会社絡みのネタを話すときは『わたし』になることを。やはり……彼女は、会社では仮面を被っている。猫を被るとはまた別の意味合いの。
「きみのほうだって人気がすごいのさ。夏妃ちゃんサポ。きみが知らないだけであって。お陰で、山崎は永遠に除け者さ。あいつ十月に挙式予定でまだ招待状来てないけど、どうすんのかな。今度聞いてみるかな」
彼女の顔色を見ていまのは失言だと悟った。されど、もう八月だ。ふたりで呼ばれるならばそろそろ気持ちの準備をしなければならないが、肝心の招待状が届かないことには……。
「――仮に。いま山崎が不幸せな状況に置かれているとしても、そのことについて、きみは責任を負う必要がないということは……分かっているよね。夏妃。
きみは、やさしい女の子だから……あいつに泣きつかれでもしたらと思うと心配だ……」
「広坂さんわたし」勢いこむ彼女に、分かっている、と広坂は応じる。「きみがいったい誰を最大に愛しているのか、分からないほど鈍感な男ではないよぼくは。……だからね夏妃。約束して欲しい。もし――山崎になにか異変が起きていたとしても、『そっち』には、引っ張られないで欲しい……。
困ったときにはぼくを思いだして? お願いだ……」
「分かりました」このとき、彼らはどんな事態に直面するのか、分かっていない。追いつめられた人間がどんな行動に出るのか。知らないほど、彼らの吸う空気は、平和と安全に、満ちていた。
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