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例えば、こんなことを考えたことがないだろうか。
好きな人の全てが手に入ればいいのに、と。
だが、その「全て」というのは実に曖昧なものである。
心であるとするならば、感情も全て自らのものにしてしまいたいのであろうか。おそらく異なる。恋情や愛情、好きな気持ちや愛する気持ちを手に入れたい人間は多いが、好きな人間の嫌悪や劣等の気を欲しがることはまずないだろう。
では体であるとするならばどうだろうか。この後に続く彼女の恋物語でみてみよう。
淡い色をした恋であった。薄曇りの日に水面が見せる表情のような、穏やかな色である。
ある朝の路地で、彼女の落とした小さなイヤリングを拾った者がいた。彼は落とし主にすぐさま声をかけ、そして大きな手で、小さなそのアクセサリーを手渡した。彼女が謝礼を伝え、彼がその場を去る。遠ざかる後ろ姿を眺めていると、彼の左手の薬指に銀のエンゲージリングが光っていた。その時、彼女はそれをはたと自覚した。
これは望んではいけないものだから、忘れなくては。
安価でチープな作りをした、なんら特別ではなかったその小さなイヤリングが、どうしようもなく輝いてみえた。彼の指輪のように。
初恋だったからだろうか。彼女は大切になってしまったイヤリングの片割れを小袋に入れて持ち歩くようになっていた。
あわよくばもう一度会いたいと思っていたのかもしれない。それは彼女にも分からない。
まるで御守りのように、ことある事に握りしめるようになった小袋は、夕暮れ時の西日が強い日に、彼の元へと彼女を導いてくれた。
西日に目が眩みそうになる中で、彼女は忘れもしない彼の影を見つけた。その隣にはスタイルの良い大人の女性の影。その影が髪をかきあげる仕草をすると、いつかの彼の手のように、きらりと輝いた。
この人が、あの人の好きな人なんだ。
婚約しているのか、既に結婚しているのかまでは分からない。しかし確かに彼は他人にその心を捧げていた。
どうしようもなく、その現実が彼女に刺さって、小袋の中でイヤリングの細かな部品が弾ける音がした。
透明水彩の如き淡い色彩の恋心は、いつの間にか、濁り滲んでしまっていた。
自覚したとき、胸中に留めるだけの、別れを告げることすらない恋だと分かっていたはずだったのに、どうしてか欲は膨らんでいたようだ。
あの指輪、あの女性と同じ指輪がなければ、私はどうしたんだろう。
指輪がなければ、私は彼を呼び止めた。あの薬指さえ手に入れば、そこに私とお揃いの指輪を入れた。
そう考えて、どうしようもなく涙が溢れた。それは叶わないと知っていたから。
ぼんやりとテレビが垂れ流すニュースを見ていた。
流行の商品、値上がりする食品、天気予報、そして事件や事故。
工場で働く男性が、裁断機に指を巻き込まれ大怪我をした―――。
あの街路に雨が強く打ち付けていた。彼女は微笑みを浮かべながら、淡いピンク色の雨傘をさして立っている。
その手には剪定バサミ。
彼女は待っている。彼を。彼の薬指を。
そして時は来る。彼はどこか見覚えのあるイヤリングをまた拾い、傘で塞がった手とは反対の左手で、路地でひとり、雨傘を持って立っている彼女に声をかけ、差し出す。
その薬指には、やはり綺麗に磨かれたシルバーの指輪。
彼女は微笑んで、イヤリングなど目もくれず、彼の手を思い切り掴むと、
「心は、いらないから、この指だけで、ほんとうに、よかったの。」