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「腹が減ってるなら決まりだ! あとはこの証文に判を押すだけだ」
「証文? ちょっ、待……痛ッ」
柔らかな物腰が一転、強めの圧をかけられる。
男が尖った爪先で、千歳の親指の腹をつま弾くと、小さな傷口からジワリと血がにじんだ。
そのまま親指を握られ、ギュッと証文に押し付ける。
「よしよし、これで契約成立だ。今日はツイてるぜ!!」
つい先程まで人好きのする笑顔を浮かべていた男は、商品を値踏みするように無遠慮な視線を千歳へ向ける。
前世は箱入り、そして今世も一応、箱入り令嬢。
このような破落戸《ごろつき》にはとんと縁がなかったのだが――。
「励めば贅沢も出来るし、運が良ければ大店への身請けも可能。あとはお前次第だ」
「身請け?」
「……ああ、自己紹介がまだだったな」
年頃の娘があてもなく、夕刻に一人浜辺で佇んでいたら、悪い男に声をかけられるに決まっている。
だというのに、何が何やら分からないまま証文に血判を捺してしまった。
「俺は松五郎。花街に女を斡旋するのが俺の仕事だ」
つまりは女衒――。
辻斬りに遭うよりはマシだろ? と、とんでもないことを悪びれもせずに言っているが、こんな|辺鄙《へんぴ》な島の浜辺に辻斬りがいるとは思えない。
「昔は花街など無かったのに」
「いつの話だ? 島流しで送られた者にも職は必要だからな。涅家様様だ!」
「女衒なら売ったお金を受け取るはず。そのお金は一体どこへ?」
「安心しろ、お前を売った金は俺が預かっておいてやる! なんなら増やして……うおッ!?」
突如バチッと音がして、目元で小さな火花が散ったことに驚き、松五郎は体をのけぞらせた。
口数の多い松五郎を黙らせるつもりが思ったよりも威力がなく、千歳は自分の手のひらを覗きこむ。
なるほど三ツ島だけでなく、この身体もだいぶ様変わりしているようだ。
前世の記憶が戻ったものの、これまでロクな教育を受けていないからか、霊力がまったく身体に馴染まない。
――慣れるまで、少し時間がかかるかもしれない。
「そんなことより松五郎、三ツ島を治めている涅家の屋敷へ案内してもらいたい」
「涅家!? 無理だ、花街の先へは許可を得た者しか入れない」
「ではどうやって許可を得れば?」
「知らな」
「……まぁいい。花街の先にあるならば、行ってみたほうが早そうだ」
どうせ売るつもりなのだから、早く連れていけと命じる……粗末な着物に身を包む、薄汚れた小さな娘。
何故か抗えない松五郎は、ブツブツ文句を言いながら歩きだした。
「主導権を握られると途端に連れて行く気が失せる」
「その前にお腹が減ったのだが」
「クソッ、少しは人の話を聞いたらどうなんだ……!? ホラ、黙って喰え!!」
腰元に結んであった握り飯は、少し塩気を帯びて疲れた身体に染みわたる。
モグモグと頬張るたび、からっぽの胃が満たされていく。
「松五郎、水をください」
「なんて図々しい奴なんだ!! しかも呼び捨てだと!?」
「……松五郎様、千歳は喉が渇きました」
「ぐっ、腹立つなお前」
俺の分も残しておけよと騒ぎ立てる松五郎を無視して、千歳はゴクゴクと竹筒の水を飲み干した。
ふぅ、と一息ついて見上げた空は、|あ《・》|の《・》|頃《・》と変わらず淀み、重い雲に覆われている。
「本土とは全然違うだろ? こんな湿っぽい空を見上げても何の価値もないぜ」
チクショウ全部飲みやがったと、松五郎は腹立たしげに竹筒を振っている。
前世とまったく同じ、決して晴れることのない、|三ツ島《みつじま》の空。
それでも千歳は、星の瞬きすら見えないこの空を、ひとり見上げる夜が嫌いではなかった。
「しかし、よもやの二回目とは」
――遥か昔。
|三ツ島《みつじま》で涅家の当主を務めていた千歳――当時は日奈子という名だったが――は、花嫁となったその朝に、抑えきれなくなった瘴気を祓うための『鎮め石』として水底へ沈んだ。
それが千年もの時を経て、またしても|生《・》|贄《・》|花《・》|嫁《・》とは。
早く歩けと騒ぎ立てる松五郎を一瞥し、千歳はその口元を綻ばせた。
***
|神避諸島《かむさりしょとう》で最も面積の大きい『|三ツ島《みつじま》』の外周は、大人の足で丸二日あまり。
島流しにあった罪人が流れ着く、海に面した街は、貧民街。
そこから島の中央に向かって円を狭めるように区画が分かれ、一般街、花街と続き、最奥の中心部に涅家の屋敷があるらしい。
「……まだ着かないなんて」
「お前、体力が無さすぎやしないか?」
いくらなんでも遠すぎる。
前世も今世も、由緒正しい家門の生まれ。
平民育ちの健脚な成人男子と比べられ、同様に歩けと言われましても、それは無理な相談である。
「安心しろ、あと半刻ほどだ」
「そんなに!?」
涅家の当主をしていた前世は、病弱ゆえの引きこもり。
そして今世は屋敷の外へ出ることを許されないがゆえの、引きこもり。
しかも漂流明けで、充分に体力が回復していない。
今現在、都合のいい『島流しにされた罪人』の設定に甘んじおり、身分を隠しているので反論すらもままならない。
「歩くのが遅すぎて、このままだと夜が明けちまう。買取先の置屋が閉まったらお前のせいだからな!?」
「……ハァハァ、誰に向かってモノを……」
「まったく……ほら、手を引いてやるからとっとと歩け」
証文に血判を捺すところまでは問題だらけだったが、粗野な見た目に似合わず、意外と面倒見がいいこの男。
それではお言葉に甘えて、と少しでも楽をしたくてズルズルと引っ張ってもらう姿が、『貧民街の娘をムリヤリ連行する女衒』の絵面になるようで、道行く人々に気遣わしげな視線を送られてしまう。
「……その恰好じゃいくらなんでも汚ねぇよな」
少し寄り道するぞと言い捨てるなり、連れていかれたのは、傾いた木造の棟割り長屋だった。
「ほら、これをやる」
「……ありがとうございます」
とっぷりと日が沈みきった暗がりに、火を入れた提灯がぼんやりと浮かび上がる。
差し出された浴衣は丁寧に畳まれ、金魚が描かれた柔らかな生地の上に、広幅の三尺帯が乗っていた。
鮮やかな朱の帯に指先が触れる。
礼を述べて受け取ると、金魚の目がキョロリと動いた気がした。
「……ん?」
気のせいだろうか。
じ――っと見ていると、今度は口がパクッと動く。
「松五郎、コレ……金魚!?」
「何言ってんだお前は、どっからどうみても金魚だろうが」
早く着替えろと促すなり松五郎は後ろを向き、相手にもしてもらえない。
だが確かに、金魚が動いた気がするのだが。
「んん――?」
金魚の絵が動く不思議な浴衣は、小柄な千歳をもってしても短い身丈。
着替えを終えた千歳を見て、松五郎が一瞬息を呑んだ。
そのままじっと見つめ、ふぅ、と小さく息を吐く。
「ほら、行くぞ」
ん、と手を差し出すので、促されるまま千歳は握る。
一転して言葉少なになった松五郎に手を引かれ、いつのまにか夜明けを迎える時間帯へと差し掛かかった。
しばらく歩くと、視界を遮るほどの建築物が見えてくる。
「外れの離島に、よくもこんな花街を……」
「すげえだろ? これが四方を囲んでるんだぜ」
当主はきっと、とんでもなく女好きの享楽主義者だったに違いない。
見上げる先には、天まで届きそうに高い壁。
花街をグルリと囲むその高壁一色に視界が覆われ、千歳はゴクリと喉を鳴らした。