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|壱都《いちと》さんが社長の椅子を追われて三日経った。
あれ以来、向こうの弁護士さんからの連絡はなかった。
そして、なぜか|壱都《いちと》さんから旅行に行こうと言われて、一泊の温泉旅行に来ていた。
なぜ、こんな時に温泉なんだろうか。
もしかして、傷心旅行のような旅行なのかと思い、壱都さんの様子をうかがったけれど、まったく慌てていない。
無職になってしまった壱都さん。
そして、私は就職の内定は取り消されたまま。
これから、どうなるのだろうと旅館の窓から見える風景をぼんやり眺めた。
「海の近くで正解だったな」
「そうですね」
眺めのいい部屋からは冬の海が見えた。
青灰色の海は風が強いのに鳥がサッと飛んできて、海の波間を滑っていく。
とろりとした波を見ていると眠くなり、やることがなかった私は大浴場へと向かった。
壱都さんは仕事がないはずなのにパソコンを持ち込んで忙しくしていた。
私の心配なんて、必要ないのかもしれない。
一人慌てているような気がする。
樫村さんなんて『温泉旅行たのしんできてください!』なんて、すごくいい笑顔で言っていた。
壱都さんを全面的に信頼しているという様子だった。
「もっと壱都さんを信頼しよう」
きっと深い考えがあるはず―――たぶん。
今は温泉を楽しもう。
大浴場の広い浴場にうっとりとした。
旅行にあまりきたことがない私は温泉旅行に憧れていた。
お湯がわき出ているところに『飲めます』と書いてあり、飲んでみると塩辛くてしょっぱかった。
海の近くの温泉だからだろうか。
「海の味がする」
ふふっと笑いながら、お湯の中に浸かった。
平日だからか、お客さんはほとんどいなくて、貸し切り状態。
温かいお湯が心地よく、窓からは海が見えた。
その窓には湯気によって水滴が張り付き、天井からも水滴が雨みたいにぽつぽつと降ってくる。
すべてが目新しくて、私は大満足だったけど、壱都さんはきっと仕事中。
大浴場から出ると、お土産売り場を少し眺めてから部屋に戻った。
「やっぱり仕事してる……」
私だけ、のんびりして申し訳ない気持ちだったけれど、壱都さんのほうは気にしてない。
戻った私に気づくと、にこりとほほ笑んだ。
「どう?すこしは気分が晴れた?」
「え?」
「憂鬱そうだったからね」
「そうですか?」
「うん」
これはもしかして、私のため?
壱都さんはすごく優しい。
でも、井垣の財産もない私が一緒にいてもいいのだろうか―――ずっとそんな思いを消すことが出来ずにいた。
少しだけ暗い顔をしたのがわかったのか、壱都さんがまるで私の心を読んだかのように言った。
「まさか、俺を捨てるつもり?」
「す、捨てるなんて」
「何もかも失った俺の前から消えようとするなんてひどいことはしないよね?」
「そんなことしません!でも、今まで壱都さんが積み上げてきたものを私が奪ってしまったのに……」
「大したことじゃないよ」
壱都さんは私に手を伸ばし、頬に触れた。
「君を手に入れることができるならね」
そう言って壱都さんは微笑んだ。
なぜ、こんな時に笑えるの?
そう私が聞く前に壱都さんは体を抱きしめて、唇を重ねた。
「……っ」
浴衣の襟もとに差し込まれた手のひらが熱い。
お互いの体温がいつもより熱くて、触れるだけでその熱さが伝わってくる。
「壱都さ………」
「駄目?」
「いいえ……でも」
「なに?」
「私、壱都さんのこと好きです」
思いを伝えておきたかった。
壱都さんは唇を奪い、我を忘れたかのように激しく何度も口づけた。
「っ…くるしっ……」
息ができないと思っているのにわずかな隙すら埋められて、逃げようとした唇を追われて、また塞がれる。
「はっ……あっ……」
「全部、俺にくれるなら死ぬまで守ってみせるよ」
「それは死ぬまで一緒にいてくれるってことですか?」
「不満?」
「死んでも一緒にいてほしい」
「いいよ。その代わり、朱加里も俺に誓って」
そう言われて私は自分から壱都さんにキスをした。
たどたどしいキスだったけど、壱都さんは嬉しそうに笑う。
手に入れた、と壱都さんが言うと私の体をすべて奪った。
「白河の血は強欲なんだ。なにもかも手にないと気が済まない。ごめんね?」
少しも悪いとは思っていないくせにと言いたかったけれど、それは叶わなかった。