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それは、ちょうど誠が47歳になった年の春だった。
30年という歳月は、かつての“ひま部”の窓辺の色も変えていた。
校舎は新しくなり、図書室の横の窓は防音ガラスに替わり、足元には昔なかった立ち入り禁止のテープが貼られている。
けれど、あの時の“風”だけは、変わらずそこに吹いていた。
春の空気に混じって、ほんの少しだけ杏美の気配がするような気がした。
誠は今、都内で小さな出版社を営んでいる。
作家を目指していたわけではないが、大学時代にふと書いた随筆が雑誌に掲載され、それが小さな転機となった。
文章を書くということは、自分の中の“誰か”と対話することだ。
誠にとっては、それが杏美だった。
会えないまま、消えてしまった杏美への想いは、やがて彼の言葉になり、物語になった。
だが、あの約束――
「10年後、またこの窓辺で会おうね」
それは、20年経っても、30年経っても果たされることはなかった。
そんなある日、一通の封書が誠のもとへ届いた。
差出人の名前はなかった。
だが、見覚えのある、細くて繊細な文字――それが、胸を締め付けた。
封を切ると、便箋が一枚、ゆっくりと舞い落ちた。
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「森崎くんへ
これをあなたが読んでいるということは、私はもうこの世界にはいないかもしれません。
ごめんなさい、何も言わずにいなくなってしまって。
あの頃、私の家は限界でした。
父は借金を抱えていて、母は心の病で入退院を繰り返していました。
私は保護されるように、突然遠くの親戚のもとへ引き取られることになったの。
転校の手続きも、連絡先を教えることも、全部大人たちが決めてしまって、私はただ、運ばれるだけだった。
でも――私は、森崎くんとの“ひま部”が、本当に、本当に救いだった。
何もしない時間、何も言わない沈黙、あれは全部、私の中で一番大事な宝物になったの。
だから、10年経っても、20年経っても、あの窓辺を忘れたことはありません。
会いに行きたくても、怖かった。
私がもし、森崎くんの記憶の中で“きれいなまま”残っているなら、それを壊してしまうのが怖かった。
でも、ようやく今になって伝えたいと思ったの。
私は、あの時ちゃんと、生きたよ。
“ひま部”という居場所をくれたあなたのおかげで、私は最後まで“自分”でいられました。
ありがとう。
秋元杏美」
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手紙を読み終えた誠は、しばらく何も言えなかった。
便箋の文字は途中で少しかすれていて、涙でにじんだような跡があった。
彼は手紙を胸にそっと抱き、あの日の窓辺へと歩き出した。
立ち入り禁止のテープを跨ぎ、かつてふたりで空を見上げた場所へ立つ。
風が吹いた。
その瞬間、不思議な既視感が体を包んだ。
まるで――隣に、彼女が立っているようだった。
「……ただいま。」
小さく、誠が呟いた。
時間は過ぎても、約束は消えなかった。
記憶の中の杏美は、ずっとこの場所で待っていたのかもしれない。
彼女のいない未来を、彼は歩いてきた。
だが、彼女が残してくれた言葉が、その全てをつないでくれていた。
“ひま部”は、ふたりの心の中に、まだちゃんとあった。