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#お仕事
#秘密
「あいぃっ!!」
喉の奥を刃物で削り取るような奇声。手足を激しく、不規則にばたつかせ、畳の目を蹴り上げる。腕をあり得ない角度で振り、背骨をよじり、床の上を高速で這い回る……。
それは、死の淵で悶絶する巨大なゴキブリの精密な模写だった。
光景としては滑稽極まりない。
だが、仏壇の蝋燭の火は針のように細くなり、見えない負のエネルギーが引き潮のように部屋から去っていく。美月の視界の端で、黒く粘り気のある影が一度だけ揺れ、霧散した。
やがて祖母はぴたりと動きを止め、衣服を整えて起き上がった。
「終わったよ」
「……今のが、おまじない?」
「そうさ。本質はね、相手が最も嫌悪する形に成り代わることにあるのさ」
額には、真珠のような汗の粒が浮かんでいる。
「今のは『ゴキブリのポーズ』。経験上、魔物でさえもあの黒光りする不潔なぬめりには耐えられない。想像してみなさい、あの足の速さを。ぞわっとするだろう?」
美月の背筋に、不快な冷たさが張り付く。
「ゴキブリと化すことで、私は魔物と同じ地平に立つのだよ。恐怖を、防御の力にするんだ」
祖母は仏壇の暗がりを見つめながら続ける。
「昔は、清らかな念仏や祝詞で戦おうとしたものよ。けれど本当に強い闇には通じない。魔物が一番見たくない鏡を突きつけるのさ。……きっかけは、お前の母親の由紀子だよ」
「お母さんが……?」
「あの子はゴキブリを一匹見ただけで、魂が抜けたように腰を抜かす。あの純粋で一点の曇りもない恐怖。それこそが魔物に対抗するための本物の力さ。由紀子は逃げたけれど、私は逆を選んだ。その恐怖を利用することにしたのさ」
美月の胸に、小さな疑問が浮かび上がる。
母はただ逃げただけなのか。それとも、あまりにも脆い「日常」を、その怯える両手で守ろうとしていただけなのか。
「おばあちゃん、一つだけ教えて」
「なんだい」
「この姿を人に見せないのは……やはり秘伝の技だからなの?」
祖母は少しの間沈黙し、やがて小さな子供が秘密を打ち明けるような声で言った。
「いや、恥ずかしいからに決まっているだろ」
その一言で、張り詰めた空気が弾けた。
魔物さえ退散させる呪い師も、恥ずかしさには勝てないようだ。
数日後、前田さんは深い眠りを取り戻したという。あの重苦しい澱みは、祖母の滑稽な躍動によって、きれいに拭い去られたのだ。
庭の隅で、美月は独り、自分の掌を見つめる。
(私のまじないは、どんな形をしているのだろう)
ゴキブリにはなりたくない。けれど、あの時確かに感じた「何かが去った後の静寂」を、美月は思い出していた。
その時、枯葉の下で黒い影が動く。
「きゃあっ!」
本物のゴキブリだった。
思わず飛び上がる美月を見て、縁側で茶を啜っていた祖母は、楽しそうに目を細める。
「ほら、美月。修行相手のお出ましだよ」
「……お断りします!」
祖母の笑い声が、雨上がりの夕暮れに溶けていく。
美月は震える足で、小さな黒い生き物を見つめる。
逃げる代わりに、ほんの少しだけ、重心を前へ。
こうして、美月の少し風変わりなまじない修行は始まった。
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