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「そろそろ起きないと、遅刻しちゃいますよ?」


「……だるい」


重たい瞼を押し上げると、目の前に瀬名の顔。


差し込む光で満ちた部屋を視線だけで見渡すと、ぼんやりしていた思考がゆっくりと現実へ引き戻されていく。


「フロアのみんなが見たら驚くでしょうね。完璧人間の鬼塚部長が、こんなにだらだらしてるなんて」


「……うるせぇな。誰のせいだと思ってんだ」


身体のあちこちが軋むように痛い。


特に下腹部がひどい。思わず眉が寄る。


「すみません、僕のせいですよね」


苦笑しながら額に落とされるキスに、理人は不機嫌そうに眉根を寄せた。


昨夜は散々振り回されたせいで倦怠感が抜けない。


だが、この疲労感も——瀬名との関係がきちんと戻った証だと思えば、悪くはない。


「……着替え、手伝いましょうか?」


「っ、いらん! そのくらい自分でできる!」


「もう……照れ屋なんだから。かわいい」


「くだらねぇこと言ってんじゃねぇぞ。いっぺん眼科行ってこい」


瀬名が柔らかく笑う。その表情を目にした瞬間、理人は呆れた声を漏らし、小さく舌打ちした。


普段は飄々としてるくせに、こういう時だけ妙に真っ直ぐで、愛情を惜しげもなく向けてくる。


素面での甘い空気には、どうしても慣れない。


気怠げに身を起こして視線から逃れるように、理人は足早に風呂場へと逃げ込んだ。


自分が可愛いわけない。


どう考えても、瀬名の方こそ頭と目の両方を検査すべきだろう——と内心で毒づきながら鏡を見る。


映り込んだ自分の上半身には、赤い花のような跡がいくつも散っていた。


瀬名の独占欲が、そのまま皮膚に刻まれている。


「……くそっ」


顔をしかめると、鏡の中の自分も同じように表情を歪めた。


苛立ちと喜びが入り混じった、なんとも情けない顔。


こんな醜態、絶対に他人に見せられない。


もし誰かに見られたら、羞恥で死んでしまう。


「……アイツは加減を知らねぇのか……」


ぼそりと漏れた声は、なぜか甘く響いた。


呆れているはずなのに、不思議と憎めない。


熱めのシャワーを浴びながら思い返すのは、昨夜のこと。


理人自身が今まで経験したことのない快楽と切なさに溺れ、


それでも必死に理性を繋ぎ止めようとしていた、あの時間。


(……ったく。調子に乗んなって言いてぇけどな)


湯気越しにぼやける自分の顔を見つめ、理人は小さくため息をつく。


気付けば、昨夜のすべてを許してしまっている自分の甘さが恨めしい。


だが同時に——


“求められている”という確かな実感が胸をくすぐり、理人は再び小さく舌打ちした。


考えまいとしても、考えてしまう。


昨夜のあれこれを追い払うように頭を軽く振り、タオルで水滴を拭って服に袖を通す。


そしてリビングへ続く扉を開いた瞬間——。


「理人さん! ……これ、っ」


「んだよ、どうし……うわっ」


勢いよく抱きついてきた瀬名の身体を、反射的に受け止めた。


「これ、僕へのプレゼントですよね?」


何のことか理解できず眉を寄せたが、瀬名が握りしめている紺色の小さな紙袋を見て、心臓が跳ねた。


「っ……違う。それは、捨てようと思ってたモンだ」


ところどころに血痕が付いたその袋は、確かに瀬名のために用意していたものだ。


ただ——あれ以来、縁起が悪すぎて渡す気にはなれなかった。


そっと処分するつもりだったのに、まさかこんな形で見つかるとは。


「どうして? 血痕なんて僕は気にしませんよ」


「そうじゃねぇ。……あんな事があっただろ? だから、縁起が悪いと思ったんだ」


あの日の瀬名は、血の気が引き、手は冷たく、脈さえ弱かった。


失ってしまうかもしれない恐怖は、今思い出しても胃が締めつけられる。


結果として大事に至らなかったとはいえ、あれは“もしも”を覚悟するには十分すぎる出来事だった。


忌まわしい記憶の残る物を渡すくらいなら、いっそ処分した方がいい——理人はそう思っていた。


「プレゼントなら別のを買ってやる。だから、それは捨てろ」


「嫌です」


「なっ……!?」


思いのほか強い口調に、理人は一瞬言葉を失った。


瀬名はさらに胸元へ顔を埋め、ぎゅっと腕を絡めてくる。


「僕はこれがいいです。理人さんが僕のために選んでくれたんでしょう?代わりなんていりません。これじゃなきゃ意味がないんです」


「瀬名……」


「開けてもいいですか?」


甘えるような声音に、理人の心臓が跳ねる。返答に詰まり、しばらく瀬名の頭頂を見つめ——

結局、短く嘆息して許可を出した。


「……好きにしろ」


軽く髪をくしゃりと撫でる。その仕草だけで瀬名はぱぁっと花が咲くように笑顔を見せた。


手を離し、丁寧に袋の中からマフラーを取り出す。紺色の布地を首にふわりと巻き付けた瀬名は、心から幸せそうに目を細めた。


「ありがとうございます。ずっと……大切にしますね」


「……ん」


気恥ずかしさに視線を逸らしつつも、理人の表情には否応なく安堵の色が浮かんでいた。


「――って、事があったんですよ」


「へ、へぇ~……」


瀬名が恍惚とした顔でのろけを語り続けるのを、東雲は引き攣った表情で聞いていた。


朝からやたら機嫌が良いとは思っていたが、まさか開口一番、


「理人さんとの夜が凄すぎて、クセになっちゃいそうで――」


などと言われるとは思っていなかった。


「いや、あの理人さんがですよ? 途中から声も甘くなっちゃって……もう、可愛くて……。結局そのまま連続で三回ですよ? 三回!」


「あー……それ、聞きたくなかったっす……」


東雲はぼそっと呟き、耳を塞ぎたくなったが、瀬名は全く気にせず喋り続ける。


(……そろそろ自分の部署帰りたい……)


心の中で盛大にため息をついた。


「理人さんって、普段はSぶってるじゃないですか? でも実は……ちょっとM気がある感じで……そのギャップが最高で――」


「ハハッ! 仲直りできたみたいで良かったっすね! 俺、仕事あるんで戻ります!」


「あ、もう行っちゃうんですか? なんなら……動画もあるんですけど。見たくないです?」


「……は? ど、動画!? そりゃ……気には……」


瀬名がスマホを構え、ニヤリと笑う。


東雲の目が好奇心で輝いたその時――


「瀬名。てめぇ……いつの間に動画なんか撮った……」


ゴゴゴゴゴ……。


という擬音が似合いそうな圧で、理人が近づいてきた。


「あ、理人さん。復帰の挨拶もう済んだんですか? ずいぶん早かったですね」


「はぐらかすんじゃねぇ!! 朝っぱらからでけぇ声で何話してやがる!! 東雲、お前もどさくさに紛れて見ようとすんなバカ!!」


拳骨で二人まとめて締め上げる理人。


瀬名は「痛い痛い」と言いながらも、どこか幸せそうに笑っていた。


「ちょっ! 俺は関係ないっすって~!」





「……課長、アレ止めなくていいんです? 鬼塚部長、怒りゲージMAXですけど……ほら、血管浮き出てますよ」


「あぁ、大丈夫大丈夫。アレはじゃれてるだけだから」


「そう、なんですか……?」


心配そうな萩原に、片桐は余裕の笑みを浮かべた。


確かに、外から見ると理人が怒っているようにしか見えない。


だが片桐には分かる。


理人は“本気で怒ってはいない”。


むしろ――


“瀬名に構ってほしくて怒ってる”に近い。


「まぁ、あの二人はあれが普通だよ。本気で喧嘩しそうなら止めるけど、今日は大丈夫」


「……課長、絶対面白がってますよね?」


「ふふ、分かっちゃう? 鬼塚君って可愛いよねぇ」


「……まぁ、分からなくもないです」


萩原は呆れつつも否定はしなかった。


「というか、みんな薄々気付いてましたよね? 二人の関係」


「だよねぇ。鬼塚君、瀬名君が来てからどんどん柔らかくなったし。 普段はあんなに完璧なのに、瀬名の前だと途端に人間臭くなる」


「……あぁ、それ、わかります」


片桐はふっと目を細めた。


「今日も平和だねぇ、うちの課は」


二人は苦笑を交わし、楽しそうに騒ぐ三人を眺めていた。


――完。

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