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次の日。
午後を知らせるチャイムが鳴り終わり、薺(なずな)と鍵屋(かぎや)が窓側の1番奥の席、洟名(はなめ)へと向かう。隣や前席の生徒に席を使って良いかの了承を取り、前に座った鍵屋が机に伏しながら彼を笑った。
「まだふくれてんの?この子」
洟名の斜め右前に席を置く薺。
昨夕の一件以来、わかりやすく不機嫌な彼に対し何度も謝罪を述べる薺だが、一向に許そうとする気のない彼に呆れてため息を一つこぼす程度になっていた。
「たしかに置いて行った俺も悪いけど…親戚の家に泊めてもらったんだろ?」
そう、彼は結局自身の家に辿り着くことなく、海岸付近に住む宮本一家へ一晩お世話になったのだ。
図星を突かれた彼は何か弁明を試みようとするも、結局怖くて人の家に泊めてもらったことに変わりはなく言葉も出ない。そんな二人を見ながらメロンパン片手に「逃げるが勝ちとも言うし、洟ちゃんも許してやんなよ〜」と現実逃避するかのように遠い目で窓の外を眺めた。
後ろに位置するロッカーにものを取りに来た生徒が何かを察したかのように、そそくさと目的の物を取り席へ戻る。その様子を生徒会長である薺は見逃さなかった。
ガタリと突然立ち上がる薺。
「わかった」
突然立ち上がった薺に、鍵屋は口の中で咀嚼していたパンを飲み込む。
洟名も人間の本能的に立ち上がった彼を見た。
何が”わかった”なのか。座るふたりはこの時、やっと教室の空気が張り詰めた気がした。
「そんなに許したくないんだったら絶交だな」
教室内の空気が完全に凍る。
常に眠そうな面をする鍵屋だが、反面冷静な思考を持ち合わせている男だ。「待て待て待て…」と持っていたメロンパンを素早く机の上に置くも、教室を出ていこうとする薺の背中に体力のない彼は必死で着いて行った。
見ていた生徒たちには、残った彼を咎める者はいない。
昼食時はいつも騒がしいほどだというのに、今日はとても静かだった。
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夕暮れ時の海岸、砂浜の上にある穴だらけの大きな木に座り込むひとつの影。
絶交宣言があった後、午後の選択授業で3人が揃うことはなかった。
薺は人柄が良いため他の男子メンバーへ、鍵屋は違う選択を取っているため他の教室へ移動、残された彼はいつもの窓際の席でひとり。
本来、親の趣向に沿って違う選択を取りたかった薺は、洟名が一人になることを見越し同じ選択授業を取った。薺が予想していた通り、ペアやグループワーク等、生徒のコミュニケーション力を図ったものが主流で普段あまり人と話さない洟名には不向きだった。そんな
洟名を適度にカバーし、成績を中の下くらいに上げてくれていたのも事実。
いつもある日常だからこそ、そこにずっとあるものなんてない。
大きな存在を自ら手離してしまったことへの罪悪感だけが、黄昏れる彼の心を埋めていた。
「…ん?」
黄昏れていた彼の視界の端に、夕日に混じる黒い影がひとつ。
目を凝らして見ると、たしかに人が海に向かって進んでいるのが見えた。
自分のようなネガティブな思考で生き急いだのではないかという、腹の奥にあった正義心を起こし、すぐさま駆け寄る彼。スニーカーが何度も何度も砂をえぐるたび、大幅に体力が削られる。
「あの!!」
かなり深くまで海に入っている人影を追うことは出来ず、彼は精一杯の声を向けた。
背中がゆっくりと振り返る。
「あー…俺は自殺志願者でもなんでもねぇから安心してくれ」
ザブザブと歩いてくる男。
砂浜へ上がったと思えば、両手にぶら下げていた二枚歯下駄を下へ転がし履き始める。二度パッパと服を払い、「あんがとさん」と低い声で言いながら再度背中を向けてどこかへ歩き始める男。
少々自暴自棄になりかけていた洟名はただ夕日を眺めているだけでは趣旨は違うけれど、彼同様海に入っていたのではないかと寒気がした。そう考えれば、彼に助けられたのだと感謝する他ない。
明日は謝ろう。謝って仲直りをしよう。そう決意し歩き出そうとすると、砂浜に何か赤いものが落ちていた。
「ん?…なんだこれ?」
赤いものは先程の男が通った跡に続いている。
「…まさか」
急ぎ、コンクリートの壁の先で未だ鼻歌を歌いながらゆっくりと歩いていた男を呼び止めた。
「ちょっとアンタ!」
彼の声に気がついたのか、カランコロンと音を立てる下駄が鳴りやみ、「ん?」と渋い返事がひとつ。
彼が全速力で近づくと共に男の足に視線をやると、やはり両足に怪我を負っているのか、赤黒い液がだらだらと男の足元に小さな水溜まりを作っていた。
「血!…血が、」
酸素が切れてなかなか言葉と声が出ない彼。
男が今気づいたかのように「あぁ」と足を上げて見せた。
「なんてことねぇから気にすんな」
くるりと背中を向け「じゃあな」と、手を振って見せる男。
先程は夕日で強く照らされよく見えなかったが、よく見ると男の腰には獅子模様の灰色と青が混じる着物が崩れた状態で巻かれていた。
本来くるぶし付近まで降りるはずの丈は腰にまとめて巻こうとしたのか入らなかったのか、だらしなく片方出した状態で中のピッチリしたズボンが時々顔を覗かせる。
格好だけでなく、歩く男の背中がふらりふらりと不安定なことに彼は気がついた。異常な程血が出ているのだ。そりゃ普通の人なら貧血を起こしていてもおかしくはない。
彼は男に近づき手を取る。
男は突然手を取られたことに驚き、少しよろめく。
「やっぱり病院行きましょう」
「…はい?びょういん?」
突然のことに目を回す男。
しかし次の瞬間、理解したのか「病院⁉︎」と大きな声を出すと共に彼の腕を振り払った。
「だ、大丈夫だ!怪我なら慣れてるし…」
目を泳がせる男に彼は不信感を少し覚えた。
しかし目の前の男の現状を考えれば、正気じゃなくなるのも当然だと不信感を都度捨てた。
「大丈夫。俺も着いて行きますから」
「はぇ〜…今時優しい奴もいるもんだなぁ」
再度手を振り払われる。
「だが親切すぎるのも毒だぜ、若者よ。」
低く鈍い声で言う男。
その珍しい藍色の暗い瞳に、光などなかった。
「これ以上俺に関わると損するからな」
カッカッカッカッと下駄を鳴らし逃げていく男。
彼もまた追いかける。
「いやなんで追ってくんの!?」
「損してもいいので、せめて簡単な治療だけでもさせてください!」
「だから大丈夫だって!…とりあえず追っかけてくんな!」
走りにくそうな下駄を履いているにもかかわらず速度が異常なほど早い男。
海岸沿いを抜けた先、賑わう商店街への曲がり角で不覚にもその背中を逃してしまった。
彼はふと後ろを振り返り、思わず「あ」と声を出す。
「…海岸沿い、ひとりで抜けられた…」