青水 途中で赤くんが出てきます!
医者パロ
めちゃ長編です!
夜の病院は静けさに包まれていた。
時折鳴るナースコールと、機械が発する電子音だけが、深夜の空気を震わせている。
「ほとけ先生、救急。20代男性、急な腹痛と発熱。既往歴は潰瘍性大腸炎。転入、判断お願いします」
ナースステーションで当直記録を書いていた僕の耳に、控えめな声が届く。
「……うん。すぐ行くね」
立ち上がりながら、後ろに気配を感じた。
「俺も一緒に行ったるわ」
懐かしい関西弁。振り返ると、無造作な黒髪に少し眠たそうな目をした男――いふ先生がいた。
「ありがとう。今日、いふくんも当直だったんだ」
「そや。久々にお前と組むことになってんな。……まぁ、やりやすいけど」
彼とは、研修医時代に同期だった。それからもう5年。お互い別の病院で働いていたが、今年の春からこの総合病院で再び顔を合わせるようになった。
そして、昔と変わらず、彼は僕のペースに自然に寄り添ってくれる。
***
救急処置室に入ると、すでに一人の青年がベッドに横たわっていた。
額に汗を浮かべ、顔は青白い。だが、どこか意識ははっきりしているようだった。
「こんばんは。僕は総合診療科のほとけって言います。今、つらいですよね。すぐ診ますからね」
そう声をかけると、青年はゆっくりこちらを見た。
「……りうらです。……お腹が……痛くて」
「わかりました、りうらさん。いふ先生、バイタル確認お願いできますか」
「任しとけ。……体温38.6度、脈拍102、血圧はやや低め。腹部は軽度膨隆……おいおい、これ、ちょっときてるかもしれん」
「……うん。緊急の造影CT、お願いできますか。あと、血液検査とCRP、肝機能、膵酵素も」
「了解」
僕らは無言でうなずき合い、迅速に処置を進めた。いふ先生の動きは無駄がなく、僕の意図を察するように先回りしてくれる。
その姿を見ていると、不思議と緊張がほどけていく。
***
1時間後、検査結果が届く。造影CT画像を前に、僕といふくんはモニターに目を凝らしていた。
「腸管の炎症、結構広範囲に出てるな。これ、外科でいじるレベルかどうか、ぎりぎりやな」
「そうだね……でも、まだ穿孔の兆候はないし、内科的治療で様子を見たい。全身状態も、ギリギリだけど安定してる」
「ほとけがそう言うなら、俺は乗ったるよ。お前、そーゆーとこ、外さんからな」
「ありがとう」
その言葉が、妙にあたたかかった。
この数年、いふくんと離れていた時間で、僕は医者としての経験を積んだ。でも、それでも彼にそう言われると、救われた気持ちになる。
***
りうらさんの部屋を訪れたのは、深夜2時を回った頃だった。
解熱剤が効き、少し落ち着いた顔つきで、ベッドの上から僕を見た。
「……先生。さっき……ありがとうございました」
「いえ。大変だったね。でも、今は少し楽?」
「はい。お腹の痛みも……落ち着いてきました」
「よかった」
僕は微笑んで、点滴の確認をする。
その時、ベッドサイドの影から、いふくんがコーヒーを片手に現れた。
「おー、元気そうで何よりやな。ほとけ、お前も一息つけ。これ、あったかいの入れてきた」
「……いふくん、ありがとう」
紙カップから立ち上るコーヒーの香りに、少しだけ目の奥が熱くなる。
緊張の糸が切れたせいかもしれない。
「ほとけ先生……いふ先生って、仲良いんですね」
りうらさんがぽつりとつぶやく。
「えっ?」
「……いや、なんとなく。息が合ってるというか……信頼してるのが伝わってくるというか」
「……そう、ですね。彼とは、研修医の頃から一緒で。僕がまだ頼りなかった頃から、ずっと支えてくれてます」
「おいおい、いつの話してんねん。今や逆やろ。俺の方が、お前に支えられてるで」
冗談っぽく言いながらも、いふくんの目は真剣だった。
「……そんなことないよ。僕は、まだまだ」
「なぁ、ほとけ」
「ん?」
「お前さ、たまには自分のことも考えろや。患者も大事やけど、自分が倒れたら意味ないんやで」
「……」
「俺にまで心配させんな」
まっすぐなその言葉に、胸の奥が少し、ぎゅっとなった。
「……ごめん。でも、ありがとう。いふくんがそう言ってくれるなら、僕も少しは……自分を気にかけてみる」
「そーせぇ。ほら、コーヒー冷めるぞ」
僕は静かにうなずいて、あたたかい紙カップを口に運んだ。
苦味とやさしさが、染み渡っていく。
りうらさんは、うとうとと目を閉じ始めていた。
その穏やかな寝顔を見ながら、僕はそっと心の中で祈った。
どうか、彼が明日も笑ってくれますように――。
***
夜勤明け、朝焼けが差し込む診察室。
書きかけのカルテを閉じると、後ろからいふくんの声がした。
「ほとけ。朝飯、食いに行かんか?」
「……うん、行こうか。たまには、ちゃんとね」
ほとけの背中に、ふわりといふの笑い声が重なった。
――この人が隣にいるなら、どんな夜もきっと乗り越えられる。
患者の声を聴くということ
朝の外来が終わり、昼休憩に入ったはずの病院は、どこか慌ただしい空気に包まれていた。救急の受け入れ台数が増えているらしい。
ナースステーションに戻ると、主任看護師がすぐに声をかけてきた。
「ほとけ先生、病棟に緩和ケア希望の患者さんが入院されました。総合診療科と外科の両方で、相談に乗っていただけますか?」
「わかりました。ご家族の同意も?」
「はい。ただ……ご本人が“もう治療はしたくない”と。ご家族と意見が違っていて」
「……」
気づけば、横からいふ先生がカルテを覗き込んでいた。
「末期の胃がん。ステージ4B、肝転移あり。すでに抗がん剤も無効。年齢は……五十代か」
「はい。名前は桐谷章吾さん。とても静かな方で、ご本人は“穏やかに過ごしたい”と……」
「でも、家族は延命希望ってわけやな」
「そうです」
僕らは視線を交わす。
これは、ただの病状説明では済まない。命と尊厳をめぐる、難しい選択が待っている。
***
午後、桐谷さんの病室を訪ねた。
点滴スタンドの下で静かに眠るその姿は、やせ細ってはいたが、どこか穏やかだった。
「こんにちは。僕は総合診療科のほとけです。こちらは、外科のいふ先生です」
「……わざわざ、すみません。僕のために……」
弱々しい声。それでも、意志の強さがにじんでいる。
「ご本人の希望を、改めてお聞かせいただけますか?」
「……はい。僕は、もう……これ以上の治療は望んでいません。
薬で意識がもうろうとして、寝てばかりの時間より……短くても、少しでも“僕”でいられる時間を過ごしたいんです」
隣で、いふくんが小さく眉をひそめたのが分かった。
「……気持ちはわかります。けど、まだ腸閉塞のリスクもあるし、今手術すれば、もう少し生活の質は上がるかもしれません」
「手術……」
「俺らはな、“助けるため”にここにおる。延ばせる命を見過ごすのは、正直、辛い」
「それが、あなたの正義なんでしょうね」
穏やかな口調で、桐谷さんはそう言った。
「でも、僕にとっての正義は、“自分で最後を選ぶ”ことなんです」
僕は黙って聞いていた。
その言葉が、あまりにも静かで、重くて、誰にも否定できないものだったから。
「……わかりました。ご家族とは、僕が話します」
「ありがとうございます、先生」
「……無理は、しないでください。痛みのことも、何でも言ってくださいね」
そう告げて、僕らは病室を後にした。
***
その夜、医局の窓際でいふくんと並んで座っていた。
彼は珍しく、口数が少なかった。
「いふくん、怒ってる?」
「……いや、怒ってへん。ただな」
「うん」
「“何もせぇへん”って、ほんまに医者なんか、って思ってまう時がある」
「……僕も、ずっとそう思ってたよ。
でも、医学って“人を治すこと”だけじゃないって、最近少しずつわかってきた」
いふ先生は無言でコーヒーを口にした。
「医者って、いつも“答え”を求められるじゃない?
でも、人の人生には、“正解”なんてないんだと思う」
「……せやな。お前、ちょっと変わったな。昔より」
「変わったかな。……でも、今の僕を作ったのは、いふ先生なんだよ」
僕がそう言うと、彼はわずかに目を見開いた。
「お前、たまにずるいな。そういうとこ」
「そう?」
「そうや。……でも、ちょっとだけ、嬉しい」
ふと、いふ先生が笑った。
その笑顔に、胸が少しだけ、痛んだ。
***
数日後、僕は桐谷さんの家族――奥様と娘さんと面談していた。
「本人はもう、苦しい治療は望んでいないと。
ですが、痛みや不安を和らげるお手伝いは、僕たちにできます」
「……先生。わかっています。主人が決めたことを、私たちも、受け止めます」
「ありがとうございます。きっと、桐谷さんも、安心されると思います」
外に出ると、夕焼けが病院の窓に映っていた。
ナースステーションで、いふ先生が待っていた。
「……うまくいったか?」
「うん。ご家族、納得してくれたよ」
「そっか……よかったな」
彼はいつになく優しい表情を浮かべた。
「なぁ、ほとけ」
「うん?」
「お前って、昔から“人の痛み”に気づくのが、上手いよな。俺、そういうの、あんま得意ちゃうからさ」
「いふくんは、“諦めない強さ”があるじゃない。僕には、それがいつも眩しかったよ」
少しだけ、沈黙が流れた。
「なぁ……お前、なんで俺のこと、そんなふうに見てくれてんの?」
「……それは」
「俺はお前のこと、いつも気にしてしまう。
何してても、お前がしんどそうやと、胸が痛なる」
「……いふくん」
「もし、迷惑じゃなかったら――」
僕はその言葉を遮るように、微笑んだ。
「迷惑なんか、思ったことないよ。むしろ……ありがとう」
彼の目が、少しだけ潤んだように見えた。
***
その夜、桐谷さんは静かに息を引き取った。
家族に囲まれて、穏やかな顔だった。
「……最後まで、凛とした人だったね」
「せやな……強かった」
いふくんが、そっと合掌した。
僕もそれに倣い、祈るように目を閉じた。
“正解”なんて、どこにもない。
でも――誰かの選んだ最後を、支える手になりたい。
そう思った夜だった。
白衣の誓いとコーヒーの香り
土曜の朝。梅雨明け直後の空は、まだどこか湿気を含んでいて、眩しさと重さが入り混じっていた。
「……ほとけ先生、今日は非番なんですか?」
ナースステーションを通りがかった僕に、後輩の看護師が声をかけてきた。
「うん、久しぶりに丸一日休みなんだ。ちょっと病院に忘れ物を取りに来ただけ」
そう答えて、僕はエレベーターへ向かう。
白衣ではなく、淡いグレーのシャツにカーキのパンツ。
患者にも同僚にも会わないはずのつもりだった――のに。
「あっ、ほとけ」
ロビーのカフェ前。見慣れた黒髪と、くたびれた白衣姿。
大きなマグカップを手に立っていたのは、いふくんだった。
「……いふくん? 今日も当直だったの?」
「昨日やで。明けやけど、ちょっと考え事あってな。……一杯、飲んで帰ろ思て」
「そっか。よかったら……一緒に飲もうか?」
「……ええの?」
「もちろん」
僕らは隣同士の席に腰を下ろし、カフェの奥に流れる小さなジャズに耳を傾けた。
***
「この店、昔から好きなんだ。研修医の頃、よくここで泣いたりしてた」
「お前が泣くん、想像できんな。いつも穏やかで、まるで仏みたいやのに」
「よく言われる。でも本当は弱いんだよ、僕」
僕は笑いながらカップを傾けた。
ブラックの苦みが、意外と心に染みた。
「……俺さ、ほとけのそういうとこ、ずっと気になってた」
「え?」
「お前って、いつも“患者のため”って言うやん。でも、それが自分の傷を隠すためやないかって、たまに思うねん」
言葉が、胸に鋭く突き刺さる。
「……鋭いな、いふくんは。……確かに、そうかもしれない」
僕はゆっくりと視線を落とした。
「僕さ、昔、診断を見逃して、患者さんを亡くしたことがあるんだ」
いふくんが、そっとカップを置いた。
「……あのとき、もっと僕が注意していれば、救えた命だったのに。
“何もできなかった”っていう後悔が、今もずっと胸に残ってる」
「……ほとけ」
「だから、怖いんだ。患者の命を預かるたびに、自分の無力さを思い知らされる気がして」
「……お前がどんな過去抱えてたとしてもな、今の“優しさ”にウソはない。
少なくとも、俺はずっとそれに救われてきた」
「いふくん……」
「ほとけ。俺、たぶん、お前のこと――」
その時、ポケットのスマホが鳴った。
ディスプレイには、病院からの番号。
「……ごめん、出るね」
「……ああ」
受話器越しに聞こえたのは、切迫したナースの声。
「ほとけ先生! さっき退院したばかりのりうらさんが、再び来院しました! 高熱と意識障害が出ています!」
***
救急室に戻った僕たちは、一瞬で表情を切り替えた。
患者の枕元には、意識が混濁したりうらさんが横たわっていた。
「体温40度超え、意識レベルJCS200。呼吸も浅くなってる。すぐ気管挿管を!」
「わかった。麻酔科にも連絡を!」
いふくんが即座に判断を下し、僕はその指示に従う。
言葉を交わさなくても、僕たちは互いの意図を感じ取れる。
それはきっと、幾度も死線を越えてきた時間の積み重ねだ。
「……感染性ショックの可能性高い。敗血症性ショックまで進んでる。ICUに搬送しよう」
「輸液と抗生剤投与も開始して。培養検体、採って」
「了解!」
やがて、緊急処置が終わり、りうらさんはICUに運ばれていった。
ベッドのシーツには、冷や汗と、微かな体温の名残があった。
***
「……助かるかな」
僕は静かに呟いた。
「……助けよう。どっちが先にあきらめるか、勝負や」
「ふふ……やっぱり、いふくんはそう言うね」
「そりゃそうやろ。“諦めへんこと”が、俺らの仕事や」
「でも……誰かの“もう頑張らなくていい”って声も、忘れちゃいけない。
いふくんは、それを理解してくれてるから、僕は安心して横にいられるんだよ」
いふくんが少し照れたように目をそらした。
「……やめろや、そういうこと突然言うん。反則やぞ」
「えっ、反則?」
「お前の言葉、時々ド直球すぎて、心臓止まりそうになるねん。
心臓外科ちゃうから、修復不能やで」
「ふふ、ごめんね」
「……でも。俺、お前にそうやって思われてるなら……少しは、胸張ってええんかな」
「うん。僕はいふくんを信頼してるし――もっと、近くにいたいって思ってるよ」
静かなカフェの片隅で、二人の距離がほんの少し近づいた。
白衣の下に隠していた感情が、ふと溶け出すような、あたたかな時間だった。
「生と死の狭間で」
夜の病院は、昼間とはまるで別の場所のようだった。
煌々と灯る蛍光灯の下、無機質な足音と、モニターの電子音だけが響いている。
ICUの一角――。
りうらさんの病室には、点滴のラインが何本も繋がれ、呼吸器が規則正しく音を刻んでいた。
その顔は蒼白で、皮膚は汗で湿り、唇はかすかに紫がかっていた。
「SOFAスコア、10点以上やな……肝臓も腎臓も、機能が落ちてきてる」
いふくんが、沈痛な面持ちでカルテを見つめる。
「血液培養、グラム陰性桿菌が出たよ。多臓器不全……敗血症性ショック、重度だ」
「抗生剤も入れてるけど……効きが弱いな」
「……間に合わないかもしれない」
僕の言葉に、いふくんは短くうなずいた。
「それでも――俺は諦めへん。ギリギリまで、できること全部やる」
「……うん。僕も一緒にやるよ。りうらさんは、まだ終わってなんかいない」
***
翌朝。
少し仮眠をとったあと、僕は再びICUに戻った。
りうらさんの容態は、依然として厳しかった。
昏睡状態のまま、反応も弱く、呼吸器への依存度は高まるばかりだった。
「……ほとけ」
いふくんが病室の前で、いつになく静かな声で言った。
「俺、なんか、前にもこんなことあった気がする」
「前?」
「研修医の頃……俺、初めて“患者の死”に向き合ったときのこと、思い出してん」
僕は黙って耳を傾けた。
「まだ二十代やった。担当してた患者、若い女の子や。難病で、もうどうしようもなかった。
けど俺、ずっと信じてたんや。“きっと助けられる”って。……けど、結局、何もできんかった」
「……」
「最後に家族に言われた。“先生が笑ってくれたから、娘は救われた”って。……せやけど俺は、泣いてしもた。
“助けられへん医者なんて、医者ちゃう”って、自分に言い聞かせてたから」
「……いふくん」
「せやから今でも、患者の命を前にすると、心が揺れてまう。
死んでいく患者を見るたびに、“自分の価値”を失う気がしてまうんや」
僕はそっといふくんの手に触れた。
「……その痛みを抱えたまま、それでも立ち向かういふくんを、僕は本当にすごいと思うよ。
強くあろうとしてるその背中を、僕はずっと見てきた」
いふくんの目が、一瞬だけ揺れた。
「俺、お前がおらんかったら、とっくに潰れてたかもしれん。
いつも俺の背中押してくれるん、お前やから」
「……僕も同じだよ」
その時だった。
ICUのナースが、急ぎ足で近づいてきた。
「先生方、りうらさんに意識反応が――少しだけ反応があります!」
***
急いで病室に入ると、りうらさんのまぶたが、かすかに動いた。
「……りうらさん……聞こえますか?」
「…………せんせ……」
しわがれた、でも確かに“りうら”の声だった。
「……よかった……僕たち、あなたを見捨ててないからね」
「せんせい……ありがとう……」
目に薄く涙を浮かべていた。
それだけで、すべてが報われるような気がした。
***
その夜、病院の屋上に出た。
珍しく星が出ていた。
いふくんが隣に立ち、缶コーヒーを僕に渡した。
「なぁ、ほとけ」
「うん?」
「……俺、お前のこと……好きなんやと思う」
風が吹き、僕の心もゆっくり揺れた。
「……いふくん」
「いきなりで、びっくりしたかもしれんけど。けど俺、前からずっと……お前と一緒に居たい思てた」
「……ううん。びっくり、したけど……嬉しかったよ」
僕も、缶コーヒーを強く握りしめた。
「僕も、いふくんのこと、ずっと大切に思ってた」
「……ほんまか?」
「うん。いつも真っすぐで、逃げないいふくんが、僕は好きだよ」
月の光が、いふくんの頬をやさしく照らしていた。
その瞳の奥に、誰よりも誠実な想いがあることを、僕は知っていた。
「お前のそばに、いてもええか?」
「……ずっと、いて。僕も、いふくんと一緒に歩いていきたい」
ゆっくりと、二人の距離が縮まった。
そしてそっと、手と手が重なった。
***
数日後、りうらさんはICUから一般病棟へと移された。
「……助かって、よかった」
「うん……あの時、いふくんが諦めなかったからだよ」
「……でも、救えた命に慢心せんようにせんとな。俺らの仕事は、これからも続くんやから」
「……うん。僕たち、まだまだ、医者としても、人としても未完成だもんね」
いふくんが微笑んだ。
「けど――一緒におれるなら、どんな困難も乗り越えられそうな気がする」
「僕も」
ふたりの白衣の袖が、そっと重なった。
“生と死の狭間で”見つけた、かけがえのない絆。
それは、花のように静かに、確かに咲き始めていた。
「りうらからの手紙」
七月中旬。
蝉の鳴き声が病室の窓越しに響き始め、病院の廊下にも夏の気配が色濃く漂っていた。
「退院、おめでとうございます」
僕は穏やかに微笑んで、りうらさんのベッドサイドに立った。
IVラインはすでに抜かれ、酸素吸入器も外れたその顔には、少しだけ血の気が戻っていた。
「……本当に、ありがとうございました。ほとけ先生……そして、いふ先生にも」
「ほら見てみ、ちゃんと“先生”って言うてくれてるで。いつも“こわい先生”とか言われてたのにな」
「ふふ。いふくん、ちょっと怖かったのは事実でしょ?」
「……それを患者の前で言うか、普通」
りうらさんがくすりと笑い、笑い声につられて僕らも笑った。
――それは、ほんの一週間前。
あんなにも命が危うかった青年が、こうして穏やかに笑っている。
それだけで、医者を続けていてよかったと思える瞬間だった。
「……これ、預かってください。僕からの、感謝の気持ちです」
りうらさんが取り出したのは、一通の手紙。封筒には丁寧な字で《To:ほとけ先生といふ先生》と書かれていた。
「えっ……手紙?」
「はい。いろいろ、伝えたいことがあって。でも、直接だとちょっと恥ずかしくて……」
「……ありがとな。大切に読むわ」
「ほんまに……よう頑張ったな、りうら」
「……先生たちが、僕の命をあきらめなかったからです。ほんとに、ほんとに、ありがとうございました」
目にうっすら涙を浮かべたりうらさんに、僕はそっと手を伸ばした。
「命は奇跡の連続だよ。だからこそ、これからも大事に生きていってね」
***
その日の夕方。
業務がひと段落して、屋上のベンチで缶コーヒーを片手に、僕といふくんはりうらさんの手紙を開いた。
ほとけ先生、いふ先生へ
まずは、命を救ってくださって本当にありがとうございました。
僕は、自分がこんなふうに“死にかける”とは思っていませんでした。
病気はいつも“他人事”だとどこかで思っていたから、体が動かなくなったときはただただ怖かったです。
意識が朦朧としている中、たしかに、ほとけ先生の声が聞こえました。
「大丈夫だよ、僕たちはここにいる」って。
あの言葉に、どれだけ救われたかわかりません。
そして、いふ先生の“絶対に助けるからな”という強い言葉。
背中越しに聞こえたその声は、まるで命綱のようでした。
お二人の違う言葉、違う優しさ、違う力強さ。
でも、どちらも本当に“生きてほしい”という想いがこもっていました。
僕はその想いに引っ張られて、もう一度“生きよう”って思えました。
これからも、きっとたくさんの患者さんが、お二人の前で弱っていくと思います。
でもどうか、あのときの僕のように、誰かが先生たちの言葉で救われていることを忘れないでください。
“医者は奇跡を起こせない”って、ネットで誰かが言っていました。
でも僕は違うと思います。
医者がくれる言葉や眼差しのひとつひとつが、人の心を支えて、命をつなぐんです。
先生たちは、奇跡を起こせる人たちです。
本当に、ありがとうございました。
りうら
手紙を読み終えた瞬間、いふくんは大きく息を吐いた。
「……あかん、泣くわこんなん」
「僕も……ちょっと、目にしみる」
「なあ、ほとけ」
「うん?」
「こういうとき思うねん。ああ、医者ってやっててよかったなあって」
「うん。本当に」
缶コーヒーを二人で掲げて、軽くぶつけ合った。
「……乾杯」
「奇跡に、ね」
***
それから数日後――。
忙しない日常が戻ってきても、僕の心の奥には、りうらさんの言葉がずっと残っていた。
ある日の夜勤明け。
院内の誰もいない休憩室で、僕はいふくんと顔を合わせた。
「なあ、ほとけ。お前って、恋人とかいたん?」
「え、今?」
「今も昔も」
「……いないよ。仕事ばかりだったし、僕は……恋愛に向いてるタイプじゃないと思ってたから」
「なんで?」
「優しさと、仕事と、相手と、自分と……全部をバランスよく愛せる人が“向いてる人”だとしたら、僕は多分、偏ってるから。
患者のことで頭がいっぱいになって、相手のこと、見失っちゃいそうで……」
いふくんは、黙って僕を見ていた。
真剣な目だった。
「俺は、そんなお前がええと思うけどな」
「え……」
「偏っててもええやん。お前の優しさは、全部“本物”や。俺はそれ、ずっと見てきた」
「いふくん……」
「そんでな、偏ってるお前のこと、ちゃんと真ん中に戻してやれるのが……俺であれたらええなって、ずっと思ってる」
「…………」
僕は、気づいたら涙をこらえていた。
「いふくんってさ……ほんと、ずるいよ。そんなふうに真っすぐ言われたら、逃げられないじゃないか」
「逃げんなや。俺は……ちゃんと、お前と向き合いたいと思ってる。
医者としても、人としても。――そして、ひとりの男としても」
僕は、ふるふると笑って、いふくんの肩にもたれた。
「……ありがとう。僕も、ちゃんと向き合う。君となら、向き合いたいと思える」
二人の心が、またひとつ、確かにつながった瞬間だった。
***
その日の夜、家に帰った僕は、りうらさんの手紙をもう一度開いた。
そこに綴られた文字を、指先でなぞる。
「奇跡を起こせる人たちです」――
思い出す。
いふくんと夜の屋上で交わした言葉も、
患者の枕元で必死に訴えた言葉も。
医者という仕事は、失うことも多い。
それでもこうして、生まれるものがある。
誰かの命を救うこと。
誰かの心に寄り添うこと。
そして、誰かを――
愛すること。
僕たちは、白衣の下に、そんな“人間としての想い”を隠しながら、
それでも前を向いて、今日もまた、命と向き合っていく。
「揺れる鼓動」
七月末。
院内は夏休みの小児患者や急な熱中症搬送で、どのフロアも慌ただしくなっていた。
「ほとけ先生、外来の子ども、もう1人お願いします!」
「わかりました。すぐに向かいます」
この日は総合診療科の外来が特に混み合っていて、僕は息つく暇もなく診察室を行き来していた。
一方、いふくんも外科と内科を掛け持ちしながら、何人もの緊急患者に対応していた。
「――くっそ、こんな日に限ってCT空いてへんのか」
廊下ですれ違った時のいふくんは、白衣の袖を乱しながら苛立ちを隠し切れずにいた。
僕は彼にそっと声をかけた。
「いふくん、無理しないで。少し休憩したら?」
「お前こそ、外来から全然出てへんやん。大丈夫か?」
「……僕は慣れてるから。でも、いふくんは責任感が強すぎるから心配なんだよ」
その一言に、彼の表情が一瞬和らいだ。
「そんなん言われたら……余計、気張ってまうやろ」
「ふふ。なら、あとで一緒にコーヒーでも飲もうか」
「……ああ、楽しみにしとくわ」
そんな束の間のやりとりの後、僕たちはそれぞれの持ち場へと戻っていった。
***
午後。
僕が診ていた最後の外来患者を送り出したところで、救急部から緊急コールが入った。
「20代男性、意識レベル低下。搬送まであと5分!」
すぐにモニターを確認し、僕はいふくんにも連絡を入れる。
「いふくん、救急が来る。20代男性、意識レベル低下。対応お願いできる?」
《了解。オペ予定ずらしてそっち行くわ》
救急搬送されてきたのは、細身の青年だった。
手足は細く、顔色は青白い。呼吸は浅く、手の甲には既に点滴が刺さっていた。
「名前は……黒咲 蓮(くろさき れん)、22歳」
「既往歴は?」
「なし。ただ本人曰く、最近息苦しさが続いてたとのことです」
彼の心電図に異常が見られ、僕はいふくんと顔を見合わせる。
「心筋炎か、または先天的な心疾患の悪化か……」
「どっちにしても、心エコーと血液検査が急務やな」
僕たちは迷いなく連携し、検査の段取りを整えていった。
***
翌朝。
黒咲蓮さんは集中治療室で点滴治療を受けながらも、意識ははっきりしてきていた。
「……ここ、病院?」
「うん、目が覚めてよかった。僕は総合診療のほとけ。今は安静にしていてね」
「俺……また倒れたんですか?」
「“また”?……過去にもあったの?」
彼はうつむき、少し躊躇うように答えた。
「……高校のときにも、似たようなことがありました。病院では“原因不明”って言われたけど、もう何も怖くないって……思ってたんです」
そう話す彼の目は、どこか諦めているように見えた。
「……怖くない、なんて嘘だよね?」
僕のその問いに、黒咲さんの目が揺れた。
「本当は……怖いです。怖くて、誰にも言えなかったんです」
「大丈夫。僕たちが、ちゃんと向き合うから」
その言葉をかけたとき、背後からいふくんが入ってきた。
「おう、検査結果出たで。やっぱり心筋炎や。ただ、早期発見やったから予後は悪くない」
「……よかった」
黒咲さんの目に、ほんの少しだけ安心の色が差した。
「でもな、無理したらあかん。自分の身体、もっと大事にしたれ」
その優しい言葉に、黒咲さんの目から静かに涙がこぼれた。
「……ありがとう、ございます……先生……」
***
その日の夜。
病院の屋上で、いふくんと二人、星を眺めながら並んで座っていた。
「……今日の子、すごく怖がってたね」
「せやな。ほんまは病気より、誰にもわかってもらえへんってことが、一番怖かったんちゃうかな」
「……僕も昔、同じだったかもしれない。父を亡くしてから、どこか心の奥がずっと冷たくて」
いふくんは静かに僕の言葉を受け止め、言った。
「……今も、冷たいまんまなんか?」
「いや……最近、少しずつ温かくなってきたよ。多分それは……君がそばにいてくれたからだと思う」
いふくんはゆっくりと僕の手を取った。
「……俺は、ずっとそばにいるつもりやで」
「……ありがとう」
その手の温もりは、確かに僕の胸の鼓動を変えていた。
***
翌日。
黒咲さんが自分で立ち上がれるようになり、リハビリも始まった。
「ほとけ先生、いふ先生」
彼は僕たちに向かって深く頭を下げた。
「……僕、ちゃんと自分の身体と向き合おうと思います。これからも、ちゃんと生きていきたいです」
「それでええ。焦らんでええ、ゆっくり前に進めばええんや」
「うん。僕らはいつでも、君の味方だよ」
そのとき。
彼の笑顔が、一週間前のりうらさんの笑顔と重なった。
命の危機に瀕した人の、その後の笑顔。
それを見届けるたびに、医者であることの意味を思い出す。
僕といふくんは、まだ不器用で未熟な医者かもしれない。
でも、人の命と心に向き合う覚悟だけは、確かに持っている。
そして、その隣には――
いつも、いふくんがいてくれた。
「……なあ、ほとけ」
「うん?」
「今日、帰りに……うち、寄ってく?飯、作るで」
「え……」
「お前、どうせカップラーメンで済ませるやろ?あかんて、そんなん」
「……じゃあ、お言葉に甘えて。いふくんの料理、楽しみにしてる」
「しゃあないなぁ。ほな、今日も一緒に、命だけやなくて腹も満たそか」
「ふふ……最高の医者チームだね」
「いや、恋人チームやろ?」
僕は真っ赤になって俯いた。
でも、心の奥では確かに――嬉しかった。
「記憶の傷跡」
雨の朝だった。
梅雨が戻ってきたような灰色の空の下、総合診療科には一人の女性が訪れた。
「予約はしてないんですが……今日、診てもらえませんか」
その声に振り向いた瞬間、僕の胸がざわついた。
見覚えのある瞳――
それは、僕が研修医時代に担当した、忘れられない患者に酷似していた。
「お名前を……お伺いしても?」
「白波 澪(しらなみ みお)と申します」
違う。
違うけれど、似ている。あの頃の、あの人に――
***
診察室で、白波さんは小さく震えながら、胸の痛みと息苦しさについて語った。
「最近……夜になると心臓がざわざわして、眠れなくなるんです。病院も、正直、怖い場所で」
「怖い……ですか?」
「はい。昔、母が倒れてから……ずっと、病院は苦手で。でも、今日ここに来たのは……」
彼女は少しだけ言い淀んだあと、こう言った。
「……なんだか、“ここ”だけは大丈夫な気がしたから」
「ここ、ですか?」
「……ここの空気。先生たちの声。病院なのに、変な言い方だけど、“優しい”んです」
その言葉に、僕の胸の奥が静かに熱くなった。
***
検査結果は、軽度の不整脈だった。
すぐに命に関わるものではないが、精神的な要因との関連が強そうだった。
「心療内科とも連携しますね。でも、まずは僕たちがしっかり診ますから」
彼女はほっとしたように微笑み、小さく礼をした。
「ありがとうございます……」
診察を終え、廊下に出ると、いふくんが資料を手にこちらへ歩いてくるのが見えた。
「お疲れさん。今日もギリギリまで診とったんやな」
「うん……いふくん、少し相談してもいい?」
「ええで。どした?」
僕は診察室の中で白波さんの様子を話したあと、こう打ち明けた。
「……あの人、僕が研修医の頃に診た、ある患者さんによく似ていて」
「……ふむ」
「その人は末期がんで、最後はここじゃなくて、違う病院に転院して亡くなったんだけど。今も、あの時できたはずのことがあったんじゃないかって……考えてしまうんだ」
いふくんは黙って僕の話を聞いていた。
やがて、ぽつりと口を開く。
「お前……その人のこと、今でも“負け”やと思っとるんか?」
「……うん。あの時、もっと時間を割いてたら、もっと話を聞けてたら、何か変えられたんじゃないかって」
いふくんは腕を組み、しばらく考えるようにしてから言った。
「でもな。今の白波さんは、“あんたに診てもらってよかった”って顔しとったんやろ?」
「……うん、そう見えた」
「ほんなら、あんたが過去にせえへんかったことを、今ここでやったらええんや。逃げずに、向き合って」
「……いふくん」
「それが、医者としてあんたが背負ってきたもんや。せやろ?」
僕は、小さく頷いた。
***
数日後。
白波さんは再診に来た。表情は前回よりも柔らかく、診察室でのやり取りにも少しだけ笑みが混じっていた。
「病院って、思ったより静かな場所なんですね。もっと機械の音とか、忙しい感じかと思ってた」
「ふふ、それはたぶん、僕たちの病院が田舎だからかな」
「……あの、先生。ひとつだけ聞いてもいいですか?」
「なんでもどうぞ」
「先生は、怖くないんですか。人の“死”が」
僕は、一瞬だけ言葉を飲み込んでから、答えた。
「怖いよ。正直、今でも怖い。でも……“それでも”って思えるのは、僕が患者さんと向き合うたびに、何かを教えてもらってるから」
「……教えてもらう、ですか?」
「うん。諦めない強さとか、静かな希望とか……言葉にならない気持ちを、たくさん」
白波さんは、その言葉をゆっくりと胸に落とすように頷いた。
***
その夜、当直室の窓辺に座りながら、僕はいふくんに電話をかけた。
《なんや、急に》
「今夜、少しだけ話せる?」
《ああ。今病棟回ってきたとこや》
やがて、白衣のままのいふくんがやってきて、僕の隣に腰を下ろした。
しとしとと降る雨の音が、窓越しに響いていた。
「……あの人の笑顔を見たとき、ちょっとだけ過去と向き合えた気がした」
「そうか」
「いふくんが、背中を押してくれたからだよ。ありがとう」
「礼なんてええって。……お前がやったことや」
いふくんはそう言いながらも、少しだけ視線を逸らしていた。
その仕草がどこか愛しくて、僕はふと、彼の手の甲にそっと指を重ねた。
「……いふくん」
「……ん?」
「僕ね。たぶん……君のこと、ずっと、特別に思ってた」
「……せやろな、とは思っとった」
「え……?」
「お前の顔、見たらわかる。ずっと俺を見るときだけ、なんか違った」
僕は思わず赤面して俯いた。
「うわ、恥ずかしい……!」
「ははっ。そんなんで照れてたら、付き合うのもしんどいんちゃう?」
「……つ、付き合う?」
「そうや。俺はそのつもりやったけど?あかんの?」
「……あかんわけない、よ」
そっと重ねた手を、いふくんが包み込んでくれる。
「なあ、ほとけ」
「……なに?」
「お前のその優しさが、俺は好きや」
「……もう、いふくん……」
「好きやから。ちゃんと伝えとく」
その言葉に、胸の奥が静かに、けれど確かに熱くなった。
***
白波さんはその後、定期的に通院しながら、心のケアも受け始めた。
「先生。また来週も、来てもいいですか?」
「もちろん。君の場所だからね、ここは」
そんなやり取りのあと、僕は診察室を出て、ナースステーションへと向かった。
そこにいたのは、いふくん。
「ほとけ。飯、行くか?」
「……うん。今日も付き合ってくれる?」
「当たり前や。恋人やろ、俺ら」
「……あはは。まだ慣れないけど、うれしい」
「ふふん、これから慣れさせたる。覚悟しとけよ?」
僕は思わず笑ってしまった。
この病院で出会う命と命。
過去と、未来と。
そして――いふくんとのこれから。
白衣の裾が揺れるたび、心もまた揺れて、それでも確かに咲いていく花がある。
「告白と決意」
「……いふくん、明日から帰省?」
「おう。急やけど、親父が腰やってもうてな。ちょっと顔出してこい言われたわ」
カルテ整理を終えた夕方、僕といふくんは、職員用ラウンジでコーヒーを飲みながら、そんな話をしていた。
「大丈夫なの? 長くなる?」
「たぶん三日ぐらいやけど、ばあちゃんにも挨拶しとかなあかんし。ま、長くて五日やな」
「……そっか」
思ったより短い。けれど、今の僕にはその三日が、やけに長く感じた。
付き合って、ようやく一週間。
なのに、もう少し離れるのが寂しいと思ってしまう自分がいる。
「……なんや、その顔」
いふくんがにやりと笑った。
「寂しなるんか?」
「べ、別に……」
「素直になってええんやで? 俺の恋人なんやから」
「……そ、それは僕のセリフだよ」
そう言って顔を逸らした僕に、いふくんはふっと笑って、紙コップをくるくる回した。
「ま、けどほんまは、俺も寂しいわ。慣れてもうたんやな、あんたと毎日おるんが」
その言葉が、胸にじんわり染みた。
「……無理して行かなくても」
「アホ。親父のことやし、そないほっとけるかい」
「うん……そうだね」
僕は微笑んで頷いた。
自分の家族を大切にする人――それが、いふくん。
それを好きになったのは、僕なんだ。
***
いふくんが帰省した翌日。
病院には、いつも通りの朝が来た。
いつも通りの検温、診察、患者の対応、会議、書類整理。
……そのすべてが、どこか「物足りない」。
いふくんがいないだけで、こんなにも世界の輪郭が鈍くなるなんて。
ほんの数日会えないだけなのに、自分が思っていた以上に依存していたことに気づかされる。
「……いふくんって、僕にとってそんなに大きな存在だったんだな」
職員用のバルコニーで、そう呟いた時だった。
「先生? 大丈夫ですか?」
振り返ると、そこには白波さんがいた。
「白波さん……どうしてここに?」
「再診の日……今日で合ってますよね?」
「あ、うん。もちろん。でも、ずいぶん早く来てくれたんだね」
彼女は少し笑って、空を見上げた。
「……なんか、今日はここに来たくなったんです。先生に会いたくて」
ドクン、と胸の奥が小さく鳴る。
けれどそれは恋ではない。
ただ、「信頼されている」という鼓動だった。
「……いふ先生、今日はお休みなんですか?」
「うん。実家に帰ってるんだ。家族のことで少し」
「そっか……あの先生も、先生に似てますね」
「えっ?」
「先生も、いふ先生も。言葉にしない優しさがある。でも、ちゃんと感じるんです。あったかくて、静かで、でも力強い」
その言葉に、僕は一瞬返せる言葉を見失った。
彼女は本当に、よく人の心を見ている。
「……ありがとう。白波さんに、そう言ってもらえると、僕……少し救われるよ」
「ふふ。私のほうこそ、先生たちに救われてばっかりです」
***
午後の診察が終わり、病棟を回ったあと、僕は当直室に戻った。
「……はあ」
ベッドに座ると、思わずため息が漏れる。
白衣のポケットからスマホを取り出し、無意識にいふくんのトーク画面を開いてしまう。
(既読:なし)
「……忙しいよね、実家だもん」
分かってる。分かってるけど――
その時だった。
スマホが震えた。
表示された名前は「いふくん」。
僕は迷わず応答ボタンを押した。
《もしもし、ほとけ?》
「いふくん! 久しぶりって言うには早いけど……」
《あー、そやな。けどなんや、めっちゃ声聞きたなってしもて》
「……僕も。すごく会いたいよ」
電話越しに、互いの気持ちが零れ落ちてくる。
《なあ、ほとけ。……お前って、将来どうしたいとか、あるんか?》
「将来?」
《病院のこととか、自分のキャリアとか。あと……俺とのことも》
「……考えたことなかった。けど、今は……いふくんと一緒にいたい。それが一番だよ」
《そっか……それ、めっちゃ嬉しいわ》
「どうしたの、急に?」
電話の向こうで、少しだけ沈黙が流れた。
《……実は、こっちの病院から誘われてん》
「え?」
《うちの親父の腰のことで通った病院に、たまたま俺のこと知っとる先生がおってな。“うちで手伝ってくれんか”って》
「……それって」
《まだ即答してへん。ただ、もし仮にこっち来ることになったら、しばらく遠距離になる》
「…………」
《なあ、ほとけ。お前、遠距離とか、嫌やろ?》
「……嫌じゃないよ」
「いふくんがいる場所なら、僕はどこでも大丈夫」
「……でも、できれば傍にいたい。それが本音」
その言葉に、電話の向こうで息を呑む音がした。
《……俺も、同じ気持ちや》
***
電話を切ったあと、僕は夜の病院を歩いた。
いつもより静かに感じる廊下。
それでも、不思議と心は軽かった。
「……僕たち、ちゃんと向き合えてる」
自分の気持ちを伝えられて、彼の言葉も聞けて。
不安よりも、嬉しさが勝っていた。
その翌朝、出勤するとナースステーションで声をかけられた。
「先生、外来にいらっしゃってますよ。あの、関西弁の……」
「……え?」
思わず走って外来へ向かう。
扉を開けると、そこには――いふくんがいた。
「……いふくん!!」
「おう。帰ってきたで」
「えっ、今日じゃなかったの……?」
「昨晩、話してるうちに無性にお前の顔見たなってな。朝イチの新幹線乗って帰ってきた」
「……もう、バカ……!」
僕は駆け寄って、彼の胸に顔をうずめた。
「……お前に言いたかったんや」
「……なに?」
「俺な、どこに行っても、お前と一緒におれる道を選ぶ。ここで働くのが一番やって、改めて思った」
「……いふくん」
「お前の隣が、俺の居場所や」
その言葉が、どんな薬よりも心を癒した。
僕たちは、白衣を着たまま微笑み合う。
この場所で、生きていく。
この手を、離さない。
白衣に咲く、二人の決意の花が――ゆっくりと、確かに開いていった。
「決戦、カンファレンス」
梅雨が明けた夏のある日。
病院のカンファレンスルームは、白衣に身を包んだ医師たちでいっぱいだった。
「おはようございます。本日のカンファレンスを始めます」
主任医師の声で会議は静かにスタートした。
今回のテーマは、難治性心疾患の最新治療方針について。
全国の専門医たちが意見を出し合い、最適解を模索する重要な会合だ。
***
僕、ほとけは、いふくんと共に出席していた。
「いよいよか……」
隣で手を組んでいるいふくんの存在が、不思議と心を落ち着けてくれた。
「ほとけ、緊張してる?」
「うん。これが僕の提案次第で患者さんの命が大きく変わる。責任が重い」
「お前なら大丈夫や。俺がついとる」
彼の言葉は何よりの支えだった。
会議は進み、様々な症例報告や治療例の発表が続く。
「次は、総合診療科・ほとけ先生の発表です」
その時、僕は深呼吸をして立ち上がった。
***
「今回、私が提案する治療方針は“多角的アプローチ”の強化です」
心筋炎を含む難治性心疾患の患者さんは、多方面からのケアが必要だと話し始めた。
「心臓の直接的な治療だけでなく、精神的ケア、リハビリ、栄養管理、社会的支援までを一体化させることが、再発防止と生活の質の向上につながると考えます」
大きなスクリーンには、実際の患者データとともに、統計と研究論文が映し出された。
「また、患者さんと医療者との“信頼関係”を深めることで、自己管理の意欲も高まり、治療効果を最大化できます」
会議室は一瞬静まり返り、その後、数人の医師から質問が飛んだ。
「具体的な実施方法は?」
「多職種連携の具体例は?」
「リスク管理はどうするのか?」
僕は質問ひとつひとつに丁寧に答えていった。
***
議論が白熱する中、いふくんがそっと小声で耳元に囁いた。
「ほとけ、落ち着いてるな。ええ感じや」
「ありがとう。いふくんがいるから」
その一言に、彼は優しく微笑み返してくれた。
***
発表後、主任医師が口を開いた。
「ほとけ先生の提案は、非常に実践的で、患者中心のケアとして素晴らしい。ぜひ我々の病院でモデルケースを作ってみよう」
会議室は拍手に包まれた。
「ありがとうございます。これからも、患者さんと向き合い続けます」
***
会議が終わり、いふくんと二人で廊下を歩いた。
「ほとけ、今日はよう頑張ったな」
「いふくんが隣にいてくれたから、話せたんだ」
「俺も誇らしいわ」
僕は胸のポケットから、小さな手帳を取り出した。
「これ、患者さんとの記録と感謝の言葉がたくさん詰まってるんだ。これからもこういう思いを大切にしたい」
いふくんはその手帳を覗き込み、真剣な目で言った。
「ほとけ、お前のそういうとこ、好きやで。医者としても、男としてもな」
その言葉に、僕は少し恥ずかしくなりながらも、確かな温かさを感じた。
***
その日の夜。
二人で屋上に上がり、星空を見上げていた。
「なあ、いふくん」
「ん?」
「これからも、ずっと一緒に患者さんのために働きたい。君と一緒に」
「俺もや。どんなことがあっても、二人で乗り越えような」
僕たちは自然と手を握り合い、静かな約束を交わした。
***
その後の数週間、病院内では“ほとけ方式”が少しずつ形になりつつあった。
患者さんの笑顔が増え、スタッフの連携も深まっていく。
ある日、黒咲蓮さんが退院する日。
「先生、ありがとうございました。これからも自分の命、大事にしていきます」
僕は手を握り返し、言った。
「君のこれからを、ずっと応援しているよ」
いふくんもそっと肩に手を置いた。
***
日々の忙しさの中、僕たちはお互いを支え合いながら、医師としても恋人としても成長していく。
「ほとけ」
「ん?」
「いつか……家族も持ちたいな」
「僕も、そう思ってた」
その言葉を聞き、僕は未来への希望を胸に抱いた。
「未来への約束」
夏の終わり、夕暮れが病院の窓を黄金色に染めていた。
病院の廊下はいつもより少し静かで、季節の変わり目の涼しい風がカーテンを揺らす。
僕、ほとけはその日の外来を終え、廊下の窓際に立っていた。
手には、診察室に置き忘れられた小さな写真がある。
それは、幼い頃の患者・りうらの笑顔が写った一枚だった。
彼の笑顔は、僕の心の深いところに確かな光を灯していた。
***
数ヶ月前、りうらさんは重度の心疾患で入院し、僕たちは全力で治療にあたった。
「先生、僕、もっと強くなりたいんです」
あの時、彼のその言葉はまるで僕の胸に響く鐘のようだった。
「僕も……もっと強くならなきゃ」
そう思い続け、僕は日々医療に向き合い続けてきた。
いふくんはいつもそばにいてくれた。
疲れ切った夜も、相談に乗ってくれた。
手術のプレッシャーに押し潰されそうな時も、励ましてくれた。
***
その日は、僕たちの病院で大切なイベントがあった。
「今日のカンファレンスで、ほとけ先生の新しい治療法が正式に認められ、全国的にも発表されることになりました」
いふくんはにこやかに僕に告げた。
「すごいね。いふくん、ありがとう。君がいてくれなかったら、僕はここまでこれなかった」
「いや、俺なんかお前の後ろ盾に過ぎへん。お前の努力があってのことや」
その言葉を聞くたび、僕の胸は温かく膨らんだ。
***
イベントは盛況で、多くの医師やスタッフが集まった。
「これもすべて、患者さんたちの命と向き合うための歩みです」
壇上で話す僕の目には、自然と涙が浮かんでいた。
「ほとけ先生、感動的なスピーチでした」
終わってから、いふくんがそっと僕の肩に手を置いた。
「これからも、一緒に頑張ろう」
***
その夜、病院の屋上で二人きりで星を眺めていた。
「いふくん」
「ん?」
「僕、君と出会って本当に幸せだよ」
「俺もや」
僕はふと目を閉じ、彼の手をしっかり握った。
「これからも、ずっと一緒にいよう」
「もちろんや。俺はお前の全部を受け止める」
二人の距離が、ゆっくりと縮まっていく。
「ほとけ」
「ん?」
「俺、ずっと言いたかったことがある」
「なに?」
いふくんは僕の顔をそっと覗き込み、やさしく唇を重ねた。
そのキスは温かくて、静かで、まるで命の約束のようだった。
僕は目を閉じ、彼の想いを受け止める。
全身を包み込む幸福感に、自然と涙がこぼれた。
***
翌日。
僕たちは朝の病院で、いつも通りの仕事を始めた。
それでも、胸の中には新しい希望と愛が咲いていた。
「これからも、患者さんのために。君のために」
そう心に誓いながら。
白衣に咲く花は、これからも絶えることなく輝き続ける。
「永遠の約束」
病院の屋上に、夜の静寂が降りてくる。
星の瞬きは、昼間の疲れをすべて洗い流してくれるようだった。
僕、ほとけは、いふくんの手を強く握り締めていた。
今日という日を終えて、二人でこの場所にいるのが、何よりも自然で幸福なことに思えた。
「いふくん」
静かに呼びかけると、彼は少し驚いたようにこちらを見た。
「ずっと、君に伝えたかったことがある」
深く息を吸い込む。
彼の目を真っ直ぐ見つめて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「君のことを――もっと、深く、知りたい。もっと近くで、感じたい。ずっと、離れたくない」
その言葉に、いふくんはゆっくりと微笑み返した。
その笑顔に背中を押されるように、僕は彼の顔に手を添えた。
静かな夜風が、二人の間の空気を震わせる。
「好きだ、いふくん」
唇が、そっと触れ合う。
そのキスは、優しく、しかし確かに僕のすべてを彼に伝えるものだった。
ひとつ、またひとつと、キスは連なっていく。
彼の唇を噛みしめ、深く重ね、指が彼の首筋を撫でる。
「ずっと一緒にいたい。何があっても、守りたい」
言葉にしきれない想いを込めて、僕はさらに強く彼を抱き寄せた。
彼もまた、僕の背を撫でながら、返すようにキスを返してくる。
「ほとけ……俺も、ずっとお前の側におる」
僕たちの唇が何度も重なり合うたびに、心の奥に隠していた不安も、孤独も、すべてが溶けていった。
長い長いキスの果てに、僕は囁いた。
「これからも、どんな時も、君を愛し続ける」
いふくんは少し震える声で答えた。
「俺もや……命の限り」
星明かりの下で、二人の息遣いが重なり合い、永遠の約束となった。
***
その後も、僕は何度もいふくんの唇に触れた。
それは単なる愛情表現ではなく、二人の間に築いた深い絆の証。
時には短く、甘く。
時にはゆっくり、濃密に。
何度重ねても、決して色あせることのない愛だった。
そして、どんな困難が訪れても、僕たちは互いを支え合うことを誓い合った。
キスは僕たちの言葉となり、心となり、未来への灯火となった。
屋上で交わした無数のキスが、静かに、そして確かに――二人の人生を照らし続けていく。
完全なる完結編「白衣に咲く花 ― 永遠の咲き誇り ―」
夏の終わりの風が、病院の庭を優しく撫でていた。
蝉の声はいつの間にか消え、秋の虫たちが静かに歌い始めている。
僕、ほとけは、今日も白衣を着て病棟を回っていた。
いふくんは隣で、手術室から戻ってきたばかりの疲れた顔をしている。
「疲れたな、いふくん」
「そやけど、お前と一緒におると元気出るわ」
その笑顔を見ているだけで、僕の心は満たされる。
***
僕たちはもう、ただの同僚ではない。
恋人であり、パートナー。
そして、同じ志を持つ医者として人生を共に歩んでいる。
日々の忙しさも、患者の命と向き合う重圧も、二人で分かち合えば乗り越えられる。
「あの患者さんのこと、覚えてる?」
いふくんがぽつりと呟いた。
「もちろん、りうらくんのことだね。あの笑顔が、今でも僕の励みだ」
「なあ、ほとけ。俺ら、これからもずっとこうして患者さんのために働いていくんやろ?」
「うん。約束するよ」
***
夜、屋上で星を見上げる。
あの頃よりずっと強くなった自分と、互いの存在に感謝しながら。
いふくんがそっと僕の手を握る。
「なあ、ほとけ」
「うん?」
「お前と過ごす未来が楽しみや」
「僕も、いふくん」
言葉はなくても伝わる想い。
そして、僕はそっと彼の唇に触れた。
深く、ゆっくりと、愛を込めて。
そのキスは永遠の約束。
どんな未来が訪れても、僕たちはここで咲き続ける。
白衣に咲く、変わらぬ花のように。
コメント
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途中の...あの...赤くんがヤバめなところからよぉわからなくなりましたぁああ(( 専門用語?的なのむずすぎるぜ...
医者パロうますぎやしません?🫵🫵 しぬううううううううううううううううううううううううううああああああ(魂の叫び