テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
夕暮れ時の猫鳴町には、朱色の空が町並みを染め、どこか情緒を感じさせる風が吹いておりました。
その中に佇む料亭「猫花楼(ねこはなろう)」は、一際目を引く存在でございます。
黒地に金箔の文字が輝く看板、そして足元を照らす石灯籠の明かりが、
店の格調高さを物語っておりました。敷居をまたげば、畳の香りに包まれ、
奥からは微かに琴の音色が響きます。旬の料理の香りが漂う中、女将のお春が艶やかな身のこなしで
客を迎える様子は、まさにこの店の顔とも言えるものでございました。
店先では女将のお春が客をもてなしておりました。
「どうぞ、中へお入りなさいませ」
お春の声は、風鈴の音のように軽やかで、店先に立つ一匹の雄猫を誘い入れます。
その姿を、影のようにこっそりと伺う者あり。その者とは、ほかでもない鷹丸でございました。
客を中へ送り出し、一息ついたお春が店先に一人残るやいなや、鷹丸はすっと気配もなく女将に近づきました。
「よう。景気がいいねぇ」
お春は驚いて身を震わせ、振り返ります。
「わっ!もう、びっくりさせるんじゃないよ」
鷹丸はいたずらっぽく笑い、軽く頭を下げます。
「悪い悪い。けどさ、女将。今の旦那、この辺りで見た覚えのない顔だったけど、どこの誰なんだ?」
お春は肩をすくめて冷たく笑います。
「さぁねぇ、どこから来たのかなんて知らないよ」
「へぇ、一見さんお断りの店なのによく入れたな」鷹丸の声には探るような響きがこもります。
お春はひとつ溜息をつき、短く答えます。
「待ち合わせだってさ」
「待ち合わせって誰と?」
「鷹丸、あんたに教える義理はないよ。余計な詮索をするんじゃない」
「昼間も見かけたが、かなり金回りのいいやつだな」
お春は軽く鼻で笑い、鷹丸を手で追い払うような仕草を見せます。
「あんたみたいな貧乏猫がうろついてちゃ、まともなお客さんも寄りつかなくなるんだよ」
鷹丸はニヤリと笑い、歩み寄ります。
「そりゃないぜ、女将さん。俺はお春さんのこと、結構気に入ってんだぜ?」
お春は一瞬むっとしたように鷹丸を睨みましたが、その背中にそっと一枚の葉っぱを
くっつけられていたことには気づきません。
「バカ言ってんじゃないよ」
短く言い捨てると、お春はさっさと店の中へ消えていきました。
残された鷹丸はその背中を見送りながら、楽しそうに口笛を吹きます。
「さて、少し調べてみるとするかね」
夕暮れ時、猫鳴町の料亭「猫花楼」は朱に染まる空を背景に、静かな気品を漂わせておりました。
その庭園には松の枝が風に揺れ、小川のせせらぎが耳に心地よく響いております。
そんな庭に、音もなく忍び込む影一つ――それはあやかし混じりの鷹丸でございました。
一方、店内では女将のお春が、酒を手に一室へ向かい、襖を静かに開けます。
「失礼します」と、品の良い声が部屋に響く。その先には、
福米屋の宗次と、もう一匹の雄猫、武三が座を占めておりました。
「ようこそお越しくださいました。女将のお春でございます」と、
穏やかな笑みを浮かべつつ挨拶をするお春。その瞬間、どこからともなく
一枚の葉っぱがふわりと舞い落ち、風に乗りて障子にそっと張り付いたのでございます。
しかし、お春はそれに気づくこともなく、
「では、ごゆっくりお過ごしくださいませ」と礼を尽くし、部屋を後にいたしました。
さて、庭園に潜む鷹丸は、耳をピクリと動かし、目を細めて障子の向こうに意識を集中させます。
「さて、どんな話が聞けることやら」と、小さく呟くその声には余裕が漂っておりました。
鷹丸の耳は普通の猫よりも鋭敏で、さらに彼が仕掛けた葉っぱは、部屋の会話の振動を拾い、
遠く離れていてもその声を届ける仕掛けが施されていたのです。
障子の向こうからは、宗次の低く落ち着いた声が聞こえて参りました。
「武三、久しぶりだな。あの火事以来、姿を消したと聞いていたが、こうしてまた会えるとは」
「その節は、大変お世話になりました」と武三が深々と頭を下げます。
宗次は杯を手にしながら問いかけます。
「で、話というのは何だ?」
「実は――買い取っていただきたい物がございまして」
宗次が目を細め、「ほう、それは何だ?」と促すと、武三が少し間を置いて答えます。
「うちの旦那様が大切にしていた絵画でございます」
これを聞いた宗次は、手元の杯を止め、驚いたように目を見開きました。
「絵画…だと?」
「はい。その価値は、福米屋様ならご存じのはず」
宗次の顔に険しい皺が刻まれます。
「あれは、火事で焼けて失われたと聞いていたが…」
「いえ、実は奇跡的に残っておりました」
宗次は身を乗り出し、低く鋭い声で問い詰めます。
「本当か?「翆緑(すいりょく)の猫娘」があったというのか?」
「今は別の場所にございますが、いずれお目にかけられるかと存じます」と、武三は淡々と語ります。
宗次はその言葉を聞いて、深々と杯を干し、満足げに微笑みました。
「あの絵画が、まだ生きていたとはな…」
この一部始終を聞いていた鷹丸は、庭園の闇に身を溶かしつつ、
何か思案するように静かにその場を後にしたのでございました。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!