ティアナと、もう一度。
彼女の誘いは、チリーの感情を十分過ぎる程に揺さぶった。
一時的に思考が停止して、チリーはただただノアの差し伸べる手を見つめていた。
「一緒に壊そう、チリー」
だがその一言で、チリーは正気を取り戻す。
ノアの目的は”破壊”だ。
あの日、この場所で起こった悲惨な事件を、ノアは更に大きな規模で繰り返そうとしている。今の人類を全て滅ぼすとなれば、|赤き崩壊《レッドブレイクダウン》の何倍もの悲劇が起こることになる。
それはチリーにとって最も忌むべき事態だ。
乱れていた思考がクリアになっていく。動揺していた心を落ち着かせ、チリーは短く深呼吸をした。
「…………断る」
静かに、はっきりと、チリーはそう答える。
「俺はもう二度と、三十年前のような悲劇は繰り返させねえ。俺がもう一度旅に出たのは、賢者の石を完全に破壊するためだ」
「……だよね」
チリーの答えを、ノアは最初からわかっていたかのように薄く笑う。だがその瞳には、微かに憂いの色が灯る。
「あーあ、フラれちゃった! 両思いだと思ってたのにな」
わざとらしくおどけて見せてから、ノアはチラリとミラルへ視線を向ける。
「――っ!」
そのあまりにも冷たく、その上で憎悪が織り込まれたような視線にミラルは肩をびくつかせてしまう。
「で、今はミラルちゃんを守ってるんだ?」
「……ああ」
「面影とか感じちゃった? 私とよく似てるよね。丁度良い代用品って感じかな」
ノアの言葉に、ミラルの胸の奥が痛む。
ミラルは、ずっと心の奥にあった不安を、最も言われたくない人物に指摘されてしまったような気分だった。
痛みを抑えるように胸元に手を当て、ミラルは俯いてしまう。
それを見た瞬間、チリーが高速で駆けた。
魔力の鎧に包まれた真っ赤な拳を、チリーは凄まじい速度でノアへ突き出す。
ノアはそれを即座に回避し、チリーから少し距離を取る。
「図星つかれたからって怒らないでよ」
「代用品なんかじゃねェ……!」
「それはやだなぁ。代用品って言ってよ。私の方が先だもん」
ノアの言葉に、チリーは歯を軋ませる。
「ていうか傷つくなぁ。私のこと、殴ろうって思えるんだ? 案外薄情なんだね」
「俺はテメエを……ティアナだなんて認めてねェッ!」
続け様に、チリーは拳を繰り出す。その速度は、ミラルには……エリクシアンではない人間には視認出来ない程の速度だ。
しかしノアは、それを完全に見切って紙一重で回避していく。
まるで、チリーを弄ぶかのように。
「まあいいや、一緒に来てくれないなら……とりあえず回収しちゃおっか」
次の瞬間、ノアの魔力が膨れ上がるのをチリーもミラルも感じ取る。
しかしその時には既に、ノアは呪文を口にしていた。
「|見えざる束縛《アルブパルヴ・ユヴィキゼム》」
ノアがチリーへ手をかざす。それと同時に、チリーの拳がノアの顔へ接近する。
「――――ッ!?」
だがその拳が、ノアに届くことはなかった。
「これは……ッ!」
チリーの身体が、ノアに拳を突き出した態勢で完全に停止しているのだ。
手足を僅かに震わせることは出来るが、動くことは出来ない状態になっている。まるで何かに縛り付けられているような感触だった。ロープ状の魔力が身体に巻きつけられているような感覚だったが、ソレを視認することは出来なかった。
「チリー!」
「来るなッ! さっさと逃げろ!」
即座に駆け出そうとしたミラルを、チリーが怒鳴るように止める。
チリーは、これで完全に理解する。今の自分では、ノア・パラケルススを倒せない、と。
ならばミラルはノアからなるべく遠ざけ、シュエットやシア、アルドと合流して逃げるべきだ。
もっとも、魔女《ノア》から逃げられるのなら、だが。
「大事なんだ?」
チリーを凝視したまま、ノアが歩み寄る。
「賢者の石を壊すって言ったよね? もしかして責任とか感じてる?」
「|赤き崩壊《レッドブレイクダウン》は……俺達が起こした……! もう二度と繰り返さねえために、俺が賢者の石を壊さなきゃなんねェンだよッ!」
必死にもがきながら叫ぶチリーに、ノアがそっと手を伸ばす。
「本気でそう思ってる?」
そう言って微笑んで、ノアは言葉を続ける。
「どういう意味だ!?」
「あの遺跡の扉は、魔法使いがいないと開けない。アルケスタの大図書館の書庫と同じだよ。私が開けたの、気づかなかったでしょ?」
「な……ッ!?」
驚愕に目を見開いたチリーの頬に、ノアがそっと触れる。
「遺跡の扉は、私が開けたんだよ」
「じゃあ、お前……」
「うん、あの時もう、目が覚めてたよ」
それはつまり、ノア・パラケルススは|赤き崩壊《レッドブレイクダウン》の後で目覚めたわけではないということだ。
死亡していると信じ、その死を覆すために禁忌に触れようとしたチリーと青蘭を、ノアは意識のある状態でただ傍観していたのだ。
「なん……で……」
「だって、あんなに傷が深いと自力で行けないなと思ったから。連れてってもらった方が良いかなって。すぐに埋められなくて良かったぁ」
平然とそう言ってのけて、ノアは笑う。
「それに、みんなが私のことを大切に想ってくれてるんだって感じられて……幸せだったんだ」
頬を赤らめるノアを見て、チリーは血の気が引いた。
この女は、死んだフリをしてチリー達を騙したまま、自分を巡るやり取りを傍観して幸福すら感じていたのだ。
度し難い悍ましさに、チリーは言葉を失ってしまっていた。
「ていうか、賢者の石も私が起動したに決まってるじゃん」
身体を動かすことの出来ないチリーはその瞬間、耳を塞ぐことも、目をそらすことも、崩れ落ちることも許されなかった。
「だから、なんの責任も感じなくていいんだよ。チリーも青蘭も、なんにも悪くないんだから」
わけもわからないまま、今までの前提が手当たり次第に覆されていく。
ティアナは死んでいない。
そもそもティアナ・カロルなど存在しない。
賢者の石を起動し、|赤き崩壊《レッドブレイクダウン》を起こしたのはチリーでも青蘭でもない。
「じゃあ、なんなんだよ……」
「なにが?」
胸糞が悪くなるほどあどけない表情で、ノアは首をかしげていた。
「俺の……俺達の”今まで”はなんだったんだよッ!?」
賢者の石を起動し、|赤き崩壊《レッドブレイクダウン》を引き起こした。守ると誓ったティアナを守れずに死なせてしまった。一番の親友さえも。
悔恨と贖罪が、この三十年の全てだった。
「俺がッ……俺達がやったンだ! |赤き崩壊《レッドブレイクダウン》は……俺達のせいでッ……」
「違うよ?」
「俺の中の……”賢者の石の力”が言ってやがった……アレは俺が引き起こしたモンだって……ッ!」
「そんなわけないじゃん。賢者の石に願いをかけたのはチリーと青蘭だし、起動のきっかけではあるけど……”実際に|赤き崩壊《レッドブレイクダウン》を起こしたのは私”だよ。失敗したからあの程度ですんじゃっただけ」
失敗したからあの程度ですんだ。
ノア・パラケルススは、最初からあの場でこの世界を破壊するつもりだったのだろう。
どういう要因でそうなったのかはわからないが、結果としてノアの目論見は失敗した。|赤き崩壊《レッドブレイクダウン》という、消えない傷跡を世界に残して。
「それとも、チリーのせいだった方がいいの? 確かに、贖罪や使命で旅する方がかっこいいもんね」
もうそれは、傷つけるためだけの言葉だった。
何も言い返せず、チリーは押し黙る。
動けないまま、薄っすらと滲んだ涙を拭うことすら出来ずに。
「そんな……そんなのって……!」
その場から逃げ出せず、全てのやり取りを聞いていたミラルが膝から崩れ落ちる。
ミラルは、チリーがどれだけ三十年前を悔いていたのかを知っている。
ティアナを救えず、どれだけ苦しんだかを知っている。
消せない罪が、深過ぎる傷跡が、どれだけチリーを絶望させたのかを知っている。
それらが全て、ノア・パラケルススの手の上にあっただなんて、あまりにも残酷に思えた。
「どうして……どうしてそんなこと出来るのよっ! こんなの……ひどすぎるっ……!」
金切り声を上げるミラルを横目に見て、ノアは笑みをこぼす。
「私を死なせておいて、代用品のそっくりさんと仲良くしてる方がひどくない?」
「何言って――――」
「私、こんな話するつもりなかったよ? チリーが私をフってミラルちゃんばっかり大事にするから、ちょっと意地悪しちゃっただけだよ」
ノアの論点はどこまでも自分本位だった。
ミラルが聞きたいのはどうしてこんなことが言えるのか、ではない。どうしてあんなに残酷なことが出来たのか、だ。
会話が噛み合わない。
はなからノアには、ミラルと会話するつもりなんてないのかも知れなかった。
「違う……あなたはティアナさんなんかじゃない……! 人間じゃないわ……!」
「だからノア・パラケルススだって言ってるよ。ていうか、魔女が人間なわけないじゃんね?」
ミラルの方を振り向きもせず、ノアはくすくすと笑う。
そして賢者の石を取り出すと、そっとチリーの方へ近づけた。
呆然としたまま黙り込んだチリーに、賢者の石が押し付けられる。
「それじゃ、返してもらうね」
ノアがそう言った瞬間、賢者の石が輝きを放つ。赤く鈍い、深く昏い光を。
「嘘っ……やめて!」
ミラルにはすぐに感じ取ることが出来た。
チリーの中にある魔力が、根こそぎ賢者の石の中に吸い込まれていくのが。
「だめっ! もうチリーから奪わないで!」
必死で駆け出した頃には、もう既に遅かった。
魔力で形成された鎧が消えていく。
チリーの中にあった膨大な魔力が、全て賢者の石の中に吸い込まれていた。
「あ……あぁっ……」
それと同時に、チリーの拘束が解ける。
魔力を奪われ、ただの少年に成り果てたチリーが、力なくその場に崩れ落ちた。
「なくなっちゃったね」
チリーに寄り添って、ノアが嗤う。
「責任も、使命も、後悔も、贖罪も、魔力も、ぜ~んぶなくなっちゃったよ! これで、君は”何者でもなくなった”ね!」
長い長い夜は明けたハズだった。
けれど、朝が明るいなんて誰が決めたのだろう。
動き始めていたハズの何かが、もう一度止まった気がした。
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