「それで私がやらなきゃいけない事って何なんですか? 私の迷惑料の支払いは、もう始まってるってことなんでしょう」
「それは会ってからのお楽しみだな、もう説明している時間もない」
時間がない? 嫌な予感しかしない言葉に突っ込む間もなく前に来た最上階でエレベーターから降ろされる。ここまでは予想出来ていたことなのだけれどが、前回と決定的に違ったのは|神楽《かぐら》 |朝陽《あさひ》が思い切り空けた扉が社長室のそれだったという事。
「社長、約束通り彼女を連れてきましたよ」
「……朝陽か、まあいい。二人共、そこに座りなさい」
奥に設置された大きな机と高級感のある革張りのチェアー。そこに座っていたのは、何度かテレビでも見た事のある神楽グループの社長だった。
落ち着いた雰囲気の男性だが、どこか威圧感も感じさせるのはやり手と噂の経営者だからだろうか? なんにせよ、平凡な私の人生で関わることなどない筈の人なのだけど。
「えっと、あの……?」
意味が分からず、どういう状況ですかと聞きたくなる。でもさっき神楽 朝陽から「何があっても笑っていろ」と言われたばかりでそんなこと出来るはずもなく。
戸惑いながらも精一杯の笑顔を浮かべていると……
「おいで、一緒に座ろう|鈴凪《すずな》」
「⁉」
爽やかな笑顔と差し伸べた手が私に向けられたせいで、つい構えてしまう。だけどその口から出てきた衝撃の言葉に、心臓がショックで止まってしまうんじゃないかと思った。
「いきなり何を言い出すんですか?」と言いたいのをグッと堪えて、ここも笑顔で乗り切るしか自分には許されてない。引き攣りそうになるのを何とか誤魔化して、手を差し伸べたままの|神楽《かぐら》 |朝陽《あさひ》に笑顔で応える。
繋いで気付く、思っていたのよりも大きな掌だ。どちらかと言えば華奢だった|流《ながれ》とは違って、男らしくてゴツゴツしてるから不思議な気分になる。
「ありがとう、朝陽さん」
「恋人として当然の事だろ? いきなりこんな場所に連れて来られて緊張してるよな、ごめん」
あー、やっぱりそういった設定なんですね。嫌な予感は当たるもので、どうやら私は神楽 朝陽の恋人役をやらされることになっていたらしい。
それにしても、この別人のような変わりようは何なのか? 社長とはいっても彼にとっては実の父親でもあるはずなのに、なんだか二人の間に距離を感じてしまう。
「朝陽、そのお嬢さんがお前が結婚したいという相手なのか。前にお前から婚約者として紹介された女性とは違っているようだが、いったいどういうことなんだ?」
んん? 前に婚約者として紹介した女性がいるならば、今回もその人に頼めばよかったのでは? そう思って隣に座る神楽 朝陽の顔を見ると、一瞬だけだが彼から目を逸らされた気がした。
……もしかして私になのか他の誰かに対してなのか分からないけれど、後ろめたい気持ちでもあるのだろうか? そう考えてしまうぐらい彼の視線の逸らし方は不自然だった。
でもそんなことをいつまでも気にしている余裕は私にはなくて。
「そうですね。確かに|鈴凪《すずな》は以前紹介した女性とは違いますが、今の俺にとって一番大事な人なんです」
父親に向かってそう話している|神楽《かぐら》 |朝陽《あさひ》に同意するように黙って頷いていたが、心の中は結構複雑だった。今こうして私がここにいるのは、彼にとって都合の良い時に大きな借りを作ってしまったから。そうでなければ、ここで恋人役をしているのは自分ではなかったはずなのに。それが妙に引っかかる気がして。
それもこれも全部、神楽 朝陽が変や契約を持ち出してこんな事をやらせる所為だと思い込むことにしたのだけど。
「そんな簡単に心変わりをするようならば、結婚は私が選んだ相手とするべきでは? そうした方がそのお嬢さんにも余計な気苦労をさせずに済むと思わないか」
「……反対ならそのまま言えばいいのに、相変わらず自分を悪者にしないための遠回しな言い方をするんですね」
椅子に座ったままの彼の言葉に、社長の眉間に僅かな皺が刻まれたことに気付く。自分の意見を回りくどく伝える父親と、わざと煽るような言い方をしている神楽 朝陽。
私が知っている親子の関係とは全く違う、その様子にとても口を挟めるような状況ではなくて小さくなっているしかない。
「このお嬢さんの目の前でハッキリと言った方が良いのか、ただ傷付けるだけだろうに。まあいいだろう、伝えたい事は簡単だ。お前の恋人は神楽の嫁としては相応しくない」
「ええ、そうおっしゃると思ってました」
ビリビリとした緊迫感に、息を吸うのも忘れてしまいそうになる。どうしよう、この状況では笑ってなんていられないし焦りで手のひらには汗をかいていた。
出来る事なら「そうですか、それでは失礼させて頂きます」と言ってこの場から逃げ出したい気持ちなのだけれど。もし私がそうすれば、きっと|神楽《かぐら》 |朝陽《あさひ》は困るに違いなくて。
それでも彼の父は私をここから追い出したいようで、その視線と表情であからさまな圧をかけてくる。すると私の中の負けず嫌いがむくむくと顔を出してきて、何故か今まで以上に余裕のある笑みを浮かべることが出来てしまった。
「|鈴凪《すずな》、父はああ言っているが君はどう思っている?」
「あら? 私は朝陽さんにさえ選んでもらえれば、他の誰に相応しくないと言われても気にしません。私がなりたいのは神楽グループの嫁ではなく、貴方の妻ですから」
まさかこの状況で私に丸投げされるとは思ってなくて焦ったが、自分にしては良い答えが出せたと思う。もちろん神楽 朝陽のスペックに目が眩みそうになるのは仕方がないと思うけれど、それでも彼の中身を愛せなければ私は結婚なんてしたくはない。
「鈴凪はこう言っていますし、俺も彼女の考え方が好ましいと思ってます。生涯を共にする相手は、俺には彼女以外には考えられないので」
これってお芝居なのよね? 神楽 朝陽の真剣な表情に、本気で言われてるような気がしてなんだか落ち着かない。こんな風に真っ直ぐに自分を必要とされた事って、流の時には一度もなかったから。
嬉しい気持ちと同時に、これがすべて作り話だというどうしようもない虚しさも味わってしまう。
お互いに笑顔で見つめ合っていても、決してその心が通じ合ってるわけじゃない。私たちを繋げるものは愛情などではなく契約となるはずだから。
それでもやると決めたからには、きちんと|神楽《かぐら》 |朝陽《あさひ》の恋人役を演じるしかない。
「今はそう言うことが出来ても、そのお嬢さんもすぐにお前から離れていくだろう。まあ、それまでは二人の好きにすると良い」
「……その言い方、やはり彼女の時も貴方が?」
何かを言いかけて、私に視線を移して神楽 朝陽はその言葉の続きを飲み込んだようだった。彼女、というのは以前紹介した女性という事だろうか?
彼の父親は私がその人と同じように、神楽 朝陽から距離を取るみたいに話しているけれどどういう事だろう?
「あの女性には所詮その程度の覚悟しかなかったという事だ、そのお嬢さんはどうだろうな? さあ、もう部屋から出ていきなさい。私は次の予定が入っている」
「……もう行くぞ、|鈴凪《すずな》」
悔しさを滲ませるような表情、そして言葉遣いもいつも通りに戻っている。そんな神楽 朝陽に手を掴まれて、そのまま私は社長室を後にした。
そのままこの前連れて来られた隣の部屋に入るのかと思えば、彼はドアを開け中にいる誰かに話しかけている。すると中の人物からカードキーのようなものを手渡され、今度は私を連れたまま奥のエレベーターへと移動しそのまま乱暴に乗り込んだのだった。
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