コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
――――陸翔
沙織の部屋を出てエレベーターホールに出た瞬間、窓越しに東京タワーが見えた。赤く輝く光が夜空に浮かび上がるその光景に、俺は一瞬目を奪われながらも、スーツの裏ポケットに手を入れ、スマホを取り出した。
いくつもの不在着信が並んでいる画面を見て、リダイヤルボタンを押す。
3コールも待たずに電話が繋がり、すぐさま俺は言葉を発した。
「悪い、予定をキャンセルして」
「いけなくなった。それだけのメッセージじゃ何のことかわからないじゃない。お店だって予約してたのよ」
俺の謝罪にも、電話の向こうの明日香が不満そうな声を上げる。
「悪かった」
謝罪の言葉を繰り返す俺に、明日香は小さく息を吐いた。
「なにかあったの? あなたがこんなことするなんて珍しい」
秋元家の息子として小さい頃から、規律を重んじて生きてきたし、感情で動くことなどない。すべてを冷静に対処して生きてきた。そんな俺を知っているから出た言葉だろう。
何も答えない俺に、明日香が「まあいいわ」と口にする。
「その用事は終わったのよね?」
「ああ」
「とりあえず待ってるから、早くしてね」
明日香のその言葉を聞き終わると、俺はゆっくりと通話を切った。
そして、車を回すというベルボーイに断りを入れて、地下の駐車場へと向かい車に乗り込んで大きく息を吐いた。
「沙織……」
ついその名前を口にして、久しぶりに感情が動きそうになるのを止める。
愛する夫に裏切られ、暴力まで振るわれた彼女に俺ができることなど限られている。俺にとって彼女は、ただ純粋に守るべき存在なのだから。
――――芳也
昨夜のことを思い返すと、苛立ちがこみ上げてくる。沙織が家に戻らなかったせいで、俺は自分で風呂を沸かさなければならなかった。それ自体が面倒だったが、さらにパジャマの場所もよくわからない。クローゼットをガサガサと探してようやく見つけたものの、沙織がいないとこんなに不便だとは思わなかった。
「勝手なことしやがって」と独り言をつぶやきながら、俺は無理やり苛立ちを飲み込んだ。
気持ちを切り替えようと、コーヒーを片手にオフィスの窓際に立ち、街の景色を見下ろした。東京の街をみることができる社長室。インテリアも高価な家具を選んだし、最高のステイタスを手に入れた。
俺もようやくここまで来た。何もなかった頃の自分を思い出すと、信じられないくらいだ。貧しい学生時代、必死でバイトをしていた俺が、今やこんな広い社長室でコーヒーを飲んでいる。
「ここまでひとりでやってきた。俺の力だ」と、静かな社長室の中で俺はつぶやきつつ、カップを机に置いた。
沙織のことは、確かに俺が家を追い出したが、それは自分の立場をわきまえていなかったからだ。
俺の金で生活をしているんだから、美咲のことぐらい多めに見ればいいのに、美咲に嫌がらせをするなんて……。そんなこと許されるわけがない。それを理解させるためだけだったのに、離婚だと?
そこまで考えて、俺は小さく息を吐いた。女手一つで俺を育てた母も、美咲との結婚を望んでいる。
だから、そのうち沙織とは離婚をするつもりだった。だが、それは俺から突き付けるものであり、沙織が言い出すなんてありえない。
アイツには俺しかいないはずなのに。
「社長、資料をお持ちしました」
少し甘さを含んだその秘書の声に、俺は我に返る。身長も高くスタイルも抜群の秘書は、妖艶な笑みを浮かべている。
「ありがとう」
そう、今の俺は選びたい放題だ。沙織一人帰ってこないからといって何の問題もない。アイツと結婚したことが俺の人生での過ちだ。
「こんな大きな商談、すごいですね。社長」
秘書の言葉に俺は笑顔を見せた。今回の商談も、今日まで順調そのものだ。この仕事が決まれば、かなり莫大な利益を得られるし、親会社である神田グループとの仕事も近いかもしれない。
「これでいいだろう」
そう言ってざっと目を通して資料を机に置く。そう、何の問題もない。
離婚すれば、もっと順風満帆な人生が待っているはずだ。
その時、スマホが振動した。画面を見ると「美咲」の名前が浮かんでいた。
「芳也、お疲れさま。今、大丈夫?」
美咲の甘い声が耳に届く。
「ああ、大丈夫だよ。どうした?」と俺は軽く答えた。
「今夜ならお父さんも会えるって、どう?」
美咲は少し甘えるような口調で、俺はやっぱり女は可愛げがないといけないよな、と思う。
美咲の父親は、俺にとって重要な取引先でもあるし、これからも援助をしてもらわなければならない。
もちろん、美咲自身との時間も悪くはない。彼女は沙織と違って、社交の場でも目立つ存在で、俺のステータスをさらに引き上げてくれる。
「いいね、行こうか。何時にする?」
「7時くらいにどう?」
俺は軽く頷きながら「了解、楽しみにしてるよ」と返事をして電話を切った。