その木は幹が太く、枝葉が縦横無尽に広がろうと、ぶれることなくそびえ立っている。
広葉樹の特徴であり、それらが群生するこの地はルルーブ森林と命名された。
地理的にはマリアーヌ段丘の南西に位置する。かつては多数の炭鉱夫で賑わったものだが、それも今では過去の出来事に過ぎない。
先人の踏み抜いた場所が道となり、その付近は視界確保のために木々が伐採されたことから、商人や旅人だけでなく傭兵や軍人さえもその道を選ぶ。
それはこの二人も同様だ。
「ぼちぼち川が見えてくると思います。あ、でも、休憩が必要でしたら言ってください」
森に溶け込む、緑色の頭髪。
長袖の上着も若葉色だ。
ズボンは黒く、大きなリュックサックは落ち着いた黄土色をしている。
荷物の重量は子供の体重どころではない。
にも関わらず、少年は軽快なフットワークでジョギングを楽しむように走れている。
エウィン・ナービス。十八歳の傭兵。
二度目の旅は今日で二日目。疲労が溜まる頃合いゆえ、彼女のことを心配せずにはいられない。
「はぁはぁ、まだ、だいじょぶ……。川まで、がんばる……」
坂口あげは。二十四歳の日本人。
黒髪が艶やかであろうと、顎を上げながら走る姿は少々みっともない。
今日も灰色のチュニックを羽織っており、本来はだぼっと着こなすローブなのだが、ベルトのような布が備わっており、それを巻くことで体のラインが強調される。
だからこそ、大きな乳房が跳ねる様子を、思う存分観察可能だ。エウィンとしても、盗み見ることを止められない。
「時間はまだまだありますから、アゲハさんのペースを保ってください。あ、しんどかったらおんぶしますよ」
二人は並走のようでそうではない。
アゲハがやや先を走っており、エウィンは斜め後ろから彼女を支えるように追尾している。
足の速さも、体力さえも、当然ながらこの少年の方が上だ。先行し、引っ張ることも出来るのだが、前回の旅でそれをした結果、アゲハに想像以上の負担を負わせてしまった。
その時の反省から、この陣形が導き出された。エウィンが行先を指示しながらも、進む速度は彼女に委ねる。
もしも急ぐのなら、先ほどの提案が最善手だろう。アゲハを背負い、いっきに駆け抜ければ、かかる時間はいくらでも圧縮可能だ。
同時に彼女の負担を減らせるのだから、選択肢としては常に提示したい。
それ以上でもそれ以下でもないのだが、言われた本人は顔を赤くしてしまう。
(お、おんぶ⁉ して欲すぃい……。おぶられたい……)
つまりは甘えたい。二十四歳の大人であろうと童心を失ったわけではなく、それが許されるのならば抱き着くように運ばれたいと願ってしまう。
しかし、この少年はいささか厳格だ。
「まぁ、もうちょっとなはずなので、トレーニングだと思ってがんばりましょう。着いたら思う存分休めますし」
「はいぃ……」
甘いようで、そうではない。
エウィン的にはただ走っているだけゆえ、オーバーペースでないのなら自分の足で走り切って欲しいと当然のように思ってしまう。
この旅路は鍛錬も兼ねており、考え方としては正しいのだろう。
しかし、移動距離を加味した場合、エウィンの教育方針は狂っていると言わざるを得ない。
イダンリネア王国を発ったのが、昨日の朝。
マリアーヌ段丘を駆け抜けた時点でおおよそ百キロメートルは移動しており、今日もルルーブ森林の入口から走りっぱなしだ。
普通の日本人なら疲労骨折すらもあり得るだろう。そうでなくとも足の筋肉はズタズタに引き裂かれ、伏したとしても不思議ではない。
そのはずだが、アゲハは健気に疾走中だ。汗を拭う余力すらも残せている。
草原ウサギを大量に狩った成果だ。
小動物のような魔物を淡々と殺し続けただけなのだが、この世界はそれだけで鍛錬以上の効果を発揮する。
これが普通であり、そういう意味ではアゲハの成長は必然だ。
一方、エウィンは例外だったのだろう。
十一年も草原ウサギを狩り続けたが、一向に成果は表れなかった。
つまりは、強くなれなかった。
人間には二つの壁が内包されていると考えられている。
一つ目が才能。
二つ目が生物としての限界。
これらは同義のようで、そうではない。
才能とは個人の成長限界を指しており、これが低い場合、その分野で活躍することは難しい。
エウィンは一つ目でつまずいてしまった。軍人の見様見真似で鍛錬に励んだ結果、草原ウサギを殺せるようにはなったものの、そこで頭打ちになってしまった。
しかし、その壁はアゲハによって破壊され、今では二つ目の壁まで成長が見込まれる。
その地点こそが、人間としての限界値だ。
アゲハを筆頭に日本人の価値観からすれば、エウィンは既に人間とは思えない。
弓で射られても皮膚で弾く。剣で斬られても同様だ。
全力疾走は自動車すらも追い越す勢いゆえ、この少年はもはや人間の姿をした別の生き物だ。
しかし、ウルフィエナという世界においては珍しいものではない。
もちろん少数ではあるだろうが、軍人や傭兵ならばこの程度の身体能力には達しておきたい。
そうでなければ、魔物を打ち負かすことなど不可能だからだ。
二つの壁。これが人間の前に立ちはだかるのだが、通常ならなんら問題ない。一つ目の壁にすらたどり着けない者がほとんどだからだ。
言い換えるなら、エウィンには才能がなかった。
傭兵を目指す資格を持ち合わせていなかった。
そのはずだが、イレギュラーな存在と巡り合えた結果、障害が取り外されたばかりか、溜め込まれていた経験がいっきにあふれ出す。
エウィンの急激な成長の正体であり、二つ目の壁にぶつかるまでは成長が期待される。
なお、三つ目の壁を知る者はいない。その領域に達した者が、イダンリネア王国では確認されていないからだ。
正しくは、忘れ去られてしまった。
名前だけはおとぎ話のように伝承されるも、実態を知る者は一人もいない。
それこそが普通だ。
知っている者がいるのなら、それこそが異常だ。
異質という意味では、その二人はまさしくそうなのだろう。
地下深くの迷宮で。
魔物すらも寄り付かない森の奥で。
彼女らは虎視眈々と待っている。
その記憶を胸に抱きながら、その機会をうかがっている。
◆
朝も昼も関係なしに走り続けたこその邂逅だ。
木々が群がる森の中で、アーチ型の木製通路が正面に現れる。
古ぼけたそれは川にかかった橋だ。落下防止用の手すりすらない簡素な作りながらも、濡れることなく向こう岸へ渡れるのだから利用者としては十分なのだろう。
二人はついに目的地へたどり着いた。
そうであると裏付けるように、エウィンは眼前のアゲハへ語り掛ける。
「あそこです」
「はぁはぁ、はぁはぁ……」
返事も出来ない程度には疲労困憊だ。アゲハはよろめくように減速すると、ついには力なく歩く。
対照的にエウィンは汗すらかいていない。
「無事到着です、良かった良かった。少し休んだら、野営場所を探しましょう。川沿いをうろうろしながら」
ここはルルーブ森林の中央付近。西から東へ、小さな川が横断しており、穏やかな水流も相まって休憩場所に選ぶ傭兵は少なくない。
しかし、野宿となると話は別だ。
この辺りには掘っ立て小屋すら存在せず、雨が降ればビショビショに濡れてしまう。
ましてやここも魔物の生息域だ。
この付近まで来れたのなら、大人しく南東を目指すべきだろう。
(このまま進むとルルーブ港……。帰るつもりなんかないけど、頭の中がザワザワすると言うか、落ち着かないな。この道も覚えてたし、忘れたくても忘れられないってことか)
幼少時代の記憶であり、消し去りたいトラウマだ。
その地で生を受け、六歳まで過ごした。
父と母に愛情を注がれたという自覚はあるものの、故郷に寄り付かない理由はそこに居場所がないからだ。
両親はもういない。
家や家具を含む財産全てが没収された。
それゆえの喪失感だ。
(父さんも被害者なのに……。まぁ、今なら少しだけ納得出来る……ような気もする。船長だったから責任を負う、そういう構図なのかな。社会がどういうものなのか、よくわかってないけど……)
そう自分に言い聞かせ、アゲハと肩を並べながら歩みを進める。
不可解な事件だった。
漁獲量を高めつつも安全性が増した、新型の漁船。乗組員も増やし、意気揚々と出向したその日に悲劇は起こってしまった。
帆を広げ、港に舞い戻ったその船は、大勢の人間に見守られながらなぜか突然炎上する。
漁船が燃え尽きるよりも先に、乗組員が一人残らず炭と化した。
黒焦げの死体を乗せたまま、船もその大きさが嘘のようにあっさりと燃え尽きてしまう。
ありえない光景だった。
受け入れがたい悲劇だ。
火種の類は持ち込んでいない。せいぜいがマジックランプであり、その発光原理は炎ではなく魔法の力だ。
火災などもっての他だ。
ぼやすらもありえない。
それでも燃えてしまった。
大きな網も。
大量の魚も。
乗組員達も。
買い替えたばかりの漁船も。
ルルーブ港においては過去に例のない大事故だ。船の沈没自体は残念ながら幾度となく起こっているのだが、相手は大海原という脅威ゆえ、残された者達は受け入れるしかない。
しかし、今回のこれは何だ?
十年以上の年月が経過した現代においてもなお、原因の究明には至っていない。
ならば、当時の混乱は必然だったのだろう。
乗組員の遺族は、怒りの矛先を船長の家族に向けるしかなかった。
それが、六歳のエウィンと母親だ。
もはや村八分ですらない。村を出歩くことさえ不可能となり、さらには漁船の損失を補うため、自宅さえも奪われてしまう。
ゆえに、二人は逃げるしかなかった。
正しくは追い出されたのだが、生きるためにもその地を離れるしかなく、行先をイダンリネア王国に定める。
追い打ちはその矢先だった。
ルルーブ港を飛び出すということは、森の中を通り過ぎると同義であり、運が良ければ魔物に襲われることなくマリアーヌ段丘へたどり着けたのだろう。
残念ながら、運は悪かった。
最悪のケースとさえ言えるだろう。
この地に生息する魔物は二種類。
歩くキノコことウッドファンガー。
草原ウサギ同様に温和なウッドシープ。
どちらも近寄らなければやり過ごすことが可能だ。
それゆえに、親子は怯えながらも北東の草原を目指した。
その結果、出会ってしまった。
この大陸全土を行き来する、知能を持った魔物。
ゴブリンだ。その背丈は当時のエウィンと大差ないものの、生物としての強度は天と地ほどの差がある。
全身をフルプレートの黒鎧、もしくは黒色のローブで覆い、肌を一切露出しない。その徹底ぶりは全ての個体で当てはまる。
親子の前に現れた個体は真っ黒な鎧を着こんでいた。
それだけに留まらず、機械仕掛けの弓を携帯しており、ボルトを装填するだけで、人間を殺す用意は完了だ。
エウィンは今でも思い出す。母親が腹の底から放った、叫び声を。
逃げなさい!
その言葉とゴブリンに怯みながらも、少年は背中を向けて走るしかなかった。
溢れる涙をこぼしながら、不気味な森の中をがむしゃらに走り続けた。
当然ながら体力はあっという間に尽きてしまうも、よろめきながら走るしかなかった。
(もしかしたら、あの時の恐怖心が勘を磨いてくれたのかな? キノコやヒツジに会わなかったのは、無意識に避けてたのかも……。まぁ、今となっては調べようがないし、感傷に浸ってる暇があったらアゲハさんのこと心配しないとか……)
あくまでも十二年前の出来事だ。過去に戻ることが無理な以上、浮浪者らしく、もしくは傭兵らしく、今を生きることに徹する。
「ここの川も流れは穏やかなので、水浴びも簡単です。周囲に魔物は……、けっこういますが近くにはいないようなので、とりあえずゆっくりしましょう」
そして二人はたどり着く。
眼前の水流はこの森のオアシスそのものだ。橋が必要な程度には幅広ながらも、水底は浅いため、ここで溺れる者はいないだろう。
上流から流れ着いたであろう、大小様々な石が滞留しており、水の流れがそれらによっていくらか相殺されている。
陸地と川の境目に立つと、エウィンはいそいそと靴を脱ぎ、勢いそのままに靴下さえも脱ぎ捨てれば準備は完了だ。
右から左への穏やかな水流を眺めながら、熱を帯びた素足をドボンと川の中へ浸す。
こそばゆい感覚はマッサージのように心地良さだ。
さらには冷やしてもくれるのだから、自然と顔が綻んでしまう。
「ふぅ、気持ち良い。アゲハさんもどうですか?」
「うん、そうする」
アゲハはよろめきながらも川辺の岩に腰かけ、素足を晒すと同時に水流へ入れる。
その結果が満面の笑みだ。口数が少ない上に陰湿な表情を浮かべる彼女だが、この瞬間だけは表情筋が緩んでしまう。
その様子を見届けたことで、少年は何の悪気もなしに言ってのける。
「んじゃ、ウッドファンガー捕まえて来ますね。そのままお待ちください」
「え⁉」
今のエウィンに休憩は不要だ。
それゆえに次の行動へ移ると宣言しただけなのだが、彼女を驚かせるには十分過ぎた。
有言実行と言わんばかりに、少年は川からあがると手早く水を払い、靴下と靴をあっという間に履き直す。
勢いそのままに川の上流方向へ走り出すと、後ろ姿はものの数秒で見えなくなってしまった。
もっとも、帰還もあっという間だ。
戦利品を右腕に抱えながら、緑髪の傭兵が嬉しそうに舞い戻る。
「お待たせしましたー。さぁ、どうぞ」
エウィンが脇に抱えている物体は巨大なキノコではない。
正真正銘、魔物だ。
そうであろうと実力差が無茶を許容してくれる。これに暴れられたところで、腕力だけで拘束することが出来てしまう。
少年は大きなぬいぐるみをプレゼントするように、彼女の真正面へウッドファンガーを差し出す。柄の下では触手のような根が蠢くも、それらがどう作用したところで脱出には結びつかない。
人間は魔物に殺される。この世界の常識なのだが、傭兵という存在には当てはまらない。
そうであると裏付けるように、彼女の色白い腕が動いた次の瞬間、人間の子供程度には大きいキノコが一瞬にて燃え尽きてしまう。
指先が触れただけで青い炎が燃え広がり、対象を覆う。
その結果がこれだ。
燃えカスすら残らない、完全なる焼却。攻撃魔法のフレイムですらない真似できない威力だ。
アゲハとエウィンはこの能力に深葬という名前を与えた。
邪魔者が排除されたことで両者は見つめ合うように視線を交える。
一瞬の静寂は余韻だ。この勝利がわかりきったものであろうと、喜ばずにはいられない。
「その調子です。魔法と違って魔源を消耗しないってのも素敵ですよね。あ、今更ですが、代わりにちょっと疲れるとか、そういうのはないんですか?」
「あ、うん、何ともないよ。念じながら、触りさえすれば……」
無機物だろうと有機物であろうと燃やすことが可能だ。
裸足のままながらも、アゲハは自分の意思で大地に立ち、さらには魔物を殺してみせた。
親鳥から餌を与えられるひな鳥のように、ウッドファンガーの到着を待っていただけではあるのだが、過程はどうあれ倒したことに変わりない。
その事実が彼女を強くしてくれるのだから、エウィンに手間をかけてしまうという申し訳なさを抱きながらも、今は大人しく甘える。
(エウィンさんは、わたしを帰すために、がんばってくれてる。お金を稼ぐために……、あの魔物を倒すために……、わたしも、がんばらないと……)
日本への帰還方法は未だ不明だ。
しかし、自らをオーディエンと名乗った魔物が、手掛かりを残してくれた。
自分を倒せば、探求者でもある名無しの魔物が望む世界へ案内する、と。
にわかには信じがたい発言だ。
そうであろうと、二人は信じて進むしかない。
現時点では唯一の可能性だからだ。
騙されているとしても、進むべき方向性が定まらないよりは有意義と捉え、エウィンはアゲハの鍛錬を加速させた。
傭兵は究極の肉体労働だ。
魔物を狩るためには、自分の足でそこまで出向き、さらには対象を発見しなければならない。
そして、勝たなければならない。
ここは自動車も電車も存在しない世界だ。この大陸においては馬のような動物も生息しておらず、ゆえに原始的であろうと走るしかない。
だからこそ、体が資本だ。肉体が屈強でなければ務まるはずもない。
金を稼ぐために。
炎の魔物、オーディエンを倒すために。
さらなる強さが必要だ。
アゲハもそれをわかっているからこそ、エウィンに言われるがまま、青い炎で魔物を燃やす。
(だけど、善意に甘えたままで、いいのかな? 何か、お返しが、したい……。焼きおにぎりなんかより、もっと大きな……)
うしろめたさを感じずにはいられない。
実は、この考え方は完全に誤解だ。
正しくは、騙されている。
エウィンはアゲハに尽くしているようで、そうではない。
実際のところは自分のためだ。
つまりは、利用している。
異世界からの訪問者を、自分の目的のために使おうとしている。
アゲハを元いた世界へ戻してあげたいという感情は本心だ。彼女は恩人であり、その想いを叶えたいと心の底から願っている。
しかし、同時にこうも思ってしまっている。
母のように死にたい。
アゲハを庇って、魔物に殺されたい。
これら負の感情の源泉は、自分だけが生き残ってしまったことに対する罪悪感だ。
もしくは、贖罪か。
どちらにせよ、六歳の少年は罪の意識に苛まれたばかりか、長い年月をかけて熟成されてしまった。
もはや更生など不可能だ。
生きる原動力そのものになってしまった。
ゆえに、この傭兵は死に場所を求めることでしか前に進めない。
アゲハという存在は、まさにうってつけの人材だ。
異世界への帰還という破天荒な目的には、どうしたって危険が付きまとう。
イダンリネア王国の領土内で解決するはずもなく、手がかりを求めて、各地を探索しなければならない。
王国の外には魔物が生息しており、言ってしまえば行く先々が戦場だ。
その際にアゲハを同行させれば、エウィンの願望が成就する時が訪れるかもしれない。
もちろん、彼女のことは最後まで守り通すつもりだ。母がそうしたのだから、自分もそうしなければならない。
その過程で死にたい。
自分だけが死んでしまいたい。
これこそがエウィンという人間の根幹であり、善人のように振る舞ってはいても、本心ではアゲハを利用している。
悪気はない。
なぜなら、守るつもりでいるから。
良心も痛まない。
なぜなら、自分の命と引き換えに庇うから。
「どんどんキノコ持ってきます」
笑顔の下でも笑いながら、少年は次の獲物を求め、再び森の中へ姿を消す。
アゲハには強くなってもらいたい。そうでなければ困るからだ。
彼女のおかげで強くなれた。
そのせいで、自身を殺せる魔物が周辺からいなくなってしまった。
活動範囲を広げたい。
広げなければならない。
手ごわい魔物と対峙し、身を挺して戦う。そのような状況と巡り合うためには、さらなる遠出が必要だ。
エウィンは死にたがっている。
実は、そのこと自体は本人も自覚済みだ。
しかし、この少年は大事なことを見落としている。
死ぬことに救いを求めようと。
母の死に際を模倣しようとしても。
彼を取り巻く環境が、それを許してはくれない。
殺気を先読みする、勘の良さ。
触れるだけで傷を癒す、アゲハの治癒能力。
この二つだけでも十分過ぎるだろう。
しかし、これらだけでない。
謎の魔物、オーディエン。これの存在もエウィンにとっては厄介だ。
敵であり、手がかりでもあり、そして、この少年を生かす最大の要因でもある。
気に入られてしまった。
選ばれてしまった。
舞台上に立たされてしまったのだから、最後まで演じなければならない。
その果てに立ちはだかる障害こそが、王国を滅ぼす災厄だ。少なくともオーディエンは、身勝手ながらもそのようなシナリオを思い描いている。
この魔物はエウィンを主役に抜擢した。途中降板など、認めるはずがない。
ましてや、ヒロインさえも同時に見つけられたのだから、今回の人選はオーディエンにとっても想定外であり、想像以上だ。
身に着いた特技が。
保護した日本人が。
炎の魔物が。
この少年を生かし続ける。
死にたいという願望を否定するように、取り巻く環境が守護してくれる。
エウィンは知らない。
今はまだ、気づけていない。
どれほど死にたがったところで、無駄な足掻きということを。
これら三つの要因だけでも事足りる。
しかし、実際にはもう一つあるのだから、死は遠ざかる一方だ。
だからこそ、この少年は死に物狂いで守るしかない。
アゲハを。
イダンリネア王国を。
そのための力は、既に宿している。
そうであると見抜いたからこそ、炎の魔物はエウィンを抜擢した。
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