「兄ちゃん!生三つまだ!?」
「はーい!少々お待ちください!」
炭火焼き鳥の匂いと天井を這う煙が充満する中、スーツ姿の中年男性の少し苛立ち気味な声に、負けじと声を張り上げた。
こんなやり取りも何回目だろうか。
俺は鳳(おおとり)てつや、三十歳。
音楽の道を志し、十年前に地元大阪から上京したものの、得たものと言えば標準語だけ。
鳴かず飛ばずの状況に心が折れ、上京時からお世話になっているここ”居酒屋 トリキング”で社員になろうかと悩んでいる。
「よし、このピークを乗り切ればもうすぐ上がりだな」
俺はいつになく心踊っていた。
なにせ、今日はカニ鍋だ。
昨日実家から送られて来た箱を見て、俺は少年の様に目を輝かせた。
最近ロクなものを食べてなかったからな。
もやし、もやし、卵かけ御飯、もやし。
……健康も何もあったもんじゃない。
ここ最近の献立を思い返しながら若干引きつった笑みを浮かべていると、店内の有線から流れる今流行りのポップスが耳に入った。
「そして明日は……。
はぁ、これが辞めどきかもな」
ため息混じりにそう呟いた俺は、店の入り口付近にある時計に目を向ける。
その時だった。
ーー!!!!
突然、視界が強烈な光に覆われる。
「なんだ!?」
余りの眩しさに咄嗟に目を閉じた。
車のライトか?いや、こんなに強烈な光はあり得ないはず。
まさか……爆弾!?
一瞬そう思ったがすぐに考えを改める。
まず音がしていない、そして店内の客が誰一人気にせず騒ぎ続けているからだ。
なんだったんだ……?
とりあえず確認するか、そう思い、俺は古びて建て付けの悪くなった入り口のガラス戸を開けた。
ーーガラガラガラ
すると、そこには一人の少女が立っていた。
ーー!?
「……や。そのゆ……きだね。だいじ……。ぜったい……よ」
「な……いで。また……た……ろ……」
はぁ、はぁ、はぁ。
なんだ今のは!?くそっ、頭が痛い。
激しい頭痛を感じた俺は、片手で頭を押さえながら、思わずその場にしゃがみ込みそうになった。
「えーっと、大丈夫?」
ーーしまった
お客さんに心配をかける訳にはいかない、そう思い咄嗟に足を踏ん張った俺は、改めて目の前の少女に視線を戻した。
中学生くらいだろうか。
小さな背に、ハーフとも思える端正な顔立ちと明るい茶色の髪。
そして、居酒屋にはとても似つかわしくないであろう、真っ白なワンピースに身を包んでいた。
しばらく見つめていた俺に対して、少女は少し申し訳なさそうに口を開いた。
「あの……良かったら食べものくれへんかな?出来ればカニがいいねんけど」
「……え?」
余りにも突然の出来事だった。
こちらを真っ直ぐに見つめ懐かしい関西弁を喋る少女を前に、俺はしばらく考えこの状況を整理しようとしたが、やはり理解が出来そうになかったので考えるのを止めた。
「い、いらっしゃいませ。お一人様でしょうか?」
俺は無心でマニュアルを繰り返した。
「うん、一人やよ。それより食べ物はくれへんの?うちめっちゃ新鮮なカニが食べたい!あ、カニ味噌も一緒に!」
こ、この野郎。どんどん要求が高くなってるじゃねーか。
俺は拳を握りしめ、若干笑顔が引きつりそうになる。
まあ、しかし多分冷やかしか一文無しだろう。
そう思い辺りを見渡すが、やはり親らしき人影は見当たらない。
こんな若い子が、世も末だな。
「失礼ですが、お金はお持ちですか?お持ちであれば、中で好きなだけ食べて頂けますよ」
流石にカニはないけどな。
少し冷静になった俺は、営業スマイルを浮かべた。
「お金、って確か人間の通貨やんね。うーん、持ってないなぁ。でも、もちろんちゃんとお礼はするよ。うーん……そうや!お兄さんの隣で、いつでも好きな時に歌ってあげるって言うのはどう?」
ーーいよいよもって大変だ
目の前の少女が、至って真面目にそんな事を言い出すのである。
これは、不思議ちゃんと言うやつだろうか?
困ったな……とりあえず店長を呼ぶか。
そう考えた瞬間だった。
「おい!兄ちゃん!生三つまだきてねーぞ!!」
ーーやばい!忘れてた!
「すみません!すぐお持ちします!」
早くしないとクレームだ。うちの店長はクレームにはうるさいのだ。
あー、もう!
「キ、キミ!俺もうすぐ仕事終わるからちょっとだけ待ってて!新鮮なカニ、とはいかないけど、晩ご飯くらいなら買ってあげるから!」
俺は焦りながらそう答えた。
流石に、中学生くらいのお腹を空かせた子を追い返すのは気がひける。
「ありがとう。お兄さんは絶対天国へ行けるよ」
少女はそう笑顔で答えた。
……この子は熱心な宗教家か何かだろうか。
そんな事を思いながら俺は仕事に戻った。
♢
--怒られた
あの後、ビールを持って行った席の客はやはりカンカンに怒っており、激しく管を巻きながら出て行った。散らかり放題のテーブルを片付け、こそこそとバックルームに向かった俺は、まんまと店長に掴まりこっ酷く叱られたのだった。
「はぁ、今日は散々だな……」
ため息混じりに、そんな台詞を吐きながら店を出る。
すると、聴いた事もない歌がどこからともなく聴こえてきた。
ーーこれは
酷い音痴だ。
曲そのものは良いのだが、いかんせん音程が残念でならない。
そう思いながら歌声の方に目を向けると、そこには先程の少女がいた。
……いくら人通りが少ないからって、よくこんな所で堂々と歌えるもんだな。
そう思いながら彼女に声をかけようとした。
だが、何故だろう。言葉が出てこない。
上手くはない。お世辞にも決して上手いとは言えないのだが、何故だかずっと聴いていたくなる声だった。
こんな声に出会ったのは久しぶりな気がする。
あれは……いつだったっけ。
確か前にもどこかで聴いた気が……。
「ん?もう仕事は終わったん?」
しばらく黙っていた俺に気づいたのか、彼女はそう声をかけた。
「あ、ああ。今終わったよ。さあ、約束だったな。何でも食べたいものを言ってくれ。って言ってもこの時間だと、開いてる店はコンビニぐらいだけどな」
俺はそう言いながら手元のスマートフォンを確認する。
時刻は既に23時をまわっていた。
「うん、うちカニが食べたい!」
彼女は相変わらずの笑顔でそう答えた。
あー、そう言えばそんな事を言っていたな。
しかし、こんな時間にカニか。
店はもう閉まっているし、うちぐらいしか思いつかないけど……。
たが、こんな夜更けに中学生ぐらいの少女を家に連れ込む三十歳男性。
……何度考えても良い結末は訪れなかった。
「ごめんよ。カニはあるんだけど、うちにしかないんだ。流石にうちに来るのはまずいし、今日は近くのコンビニで我慢してくれ」
コンビニで適当な食べ物を買って、さっさと親元に帰すのが得策だろう。こんな時間に出歩いているなんて、彼女の親だってきっと心配している。
そう思っての台詞だったのだが。
「じゃあ、お兄さんの家に行こ!うちはカニが食べたいねん!カーニー、カーニー」
鼻歌交じりにそう答えた。
この子は事の重大さがわかっているのだろうか……。
「あのね。日本の法律では、俺のような大人の家にキミみたいな十代の女の子を連れ込んじゃいけないの。わかった?」
少ししゃがんで目線を合わせながらそう諭す俺に
「十代の女の子?じゃあ、全然大丈夫やよ」
ぴょんと歩道ブロックの上に乗りながら、彼女は答えた。
今の説明を聞いて何処がどう大丈夫なのだろうか。
はぁ……大きなため息をつきながらもう一度言い聞かせようとした俺を、彼女は振り返りながら真っ直ぐに見つめた。
「何か、問題あるん?」
ーーうっ
俺は一瞬たじろいでしまった。
目の前の女の子の瞳には、何故か有無を言わさない迫力があったのだ。
「はぁ……仕方ない。でも必ずご両親には連絡を入れること。わかった?」
「うん!わかったわかった!さぁ、早く早く!」
押し切られてしまった。
やはり恋愛経験ゼロだと中学生の女の子にすら勝てないのか。
俺は少し情けなくなりながらも、彼女と共に家へと向かったのだった。