砂時計の砂は、貰った時の20分の1も残っていない。
遡れるのはせいぜい2分弱、といったところだろう。
洋子は手のひらでそれを確かめながら、机に置かれたノートに目を落とした。
頁には、数日間にわたる観測記録がぎっしりと書き込まれている。
〈観測記録〉
〈時間遡行の実験〉
〈干渉の代償〉
──その文字列の間に、青い砂の流れ落ちる感覚だけが残っている。
深く息をつく。
数時間前、あるいは数日か——正確な時間感覚さえ曖昧だった。
青の記録層の中で漂った体験、無音の空間で見た粒子の光景、無数の過去の瞬間の記録——思い出すと、現実感は淡く、しかし確かに自分の中に刻まれている。
手のひらの砂は、すべてを象徴するかのように微かに揺れ、光を反射した。
外の世界は穏やかに見える。
月光が窓の外で青白く揺れ、夜の空気が静かに動いている。
しかし、どこかが違う——その微細な差異に洋子は気づく。
机の上のペンの位置、時計の針の角度、光の反射の角度。
それらは以前と完全には一致しない。
世界は戻ったが、再構築され、微妙に異なる“現在”として存在している。
砂時計の青を指先でなぞる。
粒子はもうほとんど残っていないが、微かに光を帯び、透き通るように揺れている。
手の中の冷たさが、世界の記録と自分の意思のつながりを伝える。
——これが、時間遡行のすべての結果だ。
洋子はノートを閉じ、立ち上がる。
部屋の空気を吸い込み、視線を窓の外に向ける。
夜空に浮かぶ月は、かつてと同じように青く輝くが、その光にはどこか柔らかさが加わっている。
静かな風が髪を揺らし、砂時計の残りの青が掌の中で微かに震える。
あの夜、公園で手に入れた砂時計、そして“彼ら”の存在。
すべてが現実のようで、しかし幻のようにも感じられる。
握りしめた砂時計は、確かに存在する証拠だ。
それがなければ、あの奇妙な時間遡行を信じることはできなかっただろう。
彼女は呟く。
「彼らにまた会えるだろうか……」
声は小さく、夜の静寂に溶けていく。
しかし、その問いには答えがない。
世界は戻ったが、青の粒子の存在は、まだ遠くに息づいている。
机の上で砂を見つめるうちに、洋子は思う。
もう一度使うことはできる。
残りはわずかで、せいぜい2分弱。
それでも、手のひらに感じる重みは、これまでの経験すべてを象徴していた。
使えば、また世界の局所が書き換えられる。
しかし今は、流れを受け入れる時だと、直感が告げる。
息を整え、砂時計を机の上に置く。
掌から砂の微かな振動が伝わり、青い光が静かに揺れる。
過去を変える力は消耗し、現実は安定しつつある。
それでも、世界のどこかに微細な変化は残る。
記録層の粒子は、消えたものも含め、別の層で生き続ける。
洋子は窓際に移動し、夜空を見上げる。
思い出すのは、砂時計を手にしたあの夜の奇妙な光景。
光の粒が舞い、空間に漂い、そして掌に落ちた瞬間。
それは彼女に、時間の不確かさと、世界の多層性を示した。
「もう、干渉はやめよう……」
声に出して決意する。
手に残る青い粒は、観測と干渉の痕跡であり、
彼女が経験したすべての証拠でもある。
しかし、流れを受け入れることを選んだ今、世界は安定を取り戻す。
砂時計を見つめながら、洋子は自分の心を整理する。
消えた同僚たち、取り戻せなかった瞬間、繰り返された遡行。
すべては経験として刻まれ、ノートの頁と手の中の青に残る。
再構築された世界は、かつての世界と異なる微細な色合いを持ち、
彼女の意識もまた、それに適応している。
夜が深まる。
月光が青を帯びた砂に反射し、粒は静かに揺れる。
洋子は砂時計を手に取り、最後の光を見つめる。
——これで終わりだ。
世界は穏やかに見えるが、記録層の青は、まだ遠くで息づいている。
そして、微かに粒子が光を増す。
その光は、まるで次の瞬間を誘うかのように、彼女を包む。
視界が青に染まり、体がふわりと宙に浮くような感覚。
風の音も、月光の冷たさも消え、世界は光に吸い込まれる。
洋子は小さく息を吐き、青い光に包まれた。
世界の記録層と現実の境界は消え、彼女は次の観測者として、あるいは新たな記録の主体として、光の中に吸い込まれていった。
透き通るような粒が、最後の輝きを放ち、世界は静かに息をつく。 すべてが終わり、すべてが残る。
砂時計の砂は微かに震え、夜の静寂に溶けるように光を揺らす。
その青は、世界の遠くで息づくかのように、柔らかく瞬きながら漂う。
——そして、その青は、名も知らぬ夜の公園で微細な光を放ち始めるのだった。
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