テラーノベル
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コインランドリーの乾燥機が回る音が、深夜の静寂に響いていた。
あれからChanceはなりふり構わず逃走し、かなりの遠方まで来ていた。
ベンチに座り込み、泥だらけになったコートを抱える。膝の震えが止まらない。
ロシアンルーレットの興奮が去り、圧倒的な疲労が押し寄せていた。
「……はは、ざまぁみろ」
小さく呟く。
勝った。あいつらの支配を拒絶し、自分の足でここにいる。
だが、現実は冷酷だ。
手持ちの金は、ポケットに入っていたわずかな紙幣だけ。
iTrappedの用意した安全な隠れ家はない。
あるのは、抑制剤が切れかけた身体と、どこから追手が来るか分からない恐怖だけ。
乾燥機の熱気が、微かにヒートの余韻を刺激する。
寒いのに、熱い。
自由とは、これほどまでに寒々しく、心細いものだったか。
(……それでも、マシだ)
Chanceは自販機で買った冷たい水を喉に流し込む。
飼い犬の首輪より、野良犬の飢えの方が、まだ肌に合う。
彼はコートを頭から被り、浅い眠りに落ちようとした。
だが、その手は無意識に端末を握りしめていた。
誰からの連絡も待っていないはずなのに。
iTrappedは、ハンドルの上で指を組んでいた。
モニターにはChanceの生体データが表示されているが、GPS信号は途絶えている。Chanceが切ったのだ。
「……非合理的だ」
独り言が漏れる。
あの状況で、確率6分の1の死を選ぶなど、狂気の沙汰だ。
だが、Chanceはそれをやった。
そして、あの一瞬の狂気が、Mafiosoすらも怯ませた。
(俺の計算式には、『感情』という変数が欠けていたのか?)
iTrappedは端末を操作し、Chanceの過去のデータを洗い直す。
管理しようとすれば反発する。安全を与えれば退屈する。
ならば。
「……条件を変更する」
彼は新しいプランを構築し始めた。
安全を与えるのではない。
彼が自ら飛び込んでくるような、ギリギリの危機と利益を用意する。
餌を変えるのだ。
iTrappedは冷たい目で夜の街を見つめた。
共闘などしない。
あのマフィアよりも先に、Chanceが戻るしかない状況を作るだけだ。
屋敷の執務室。
Mafiosoは部下からの報告を聞きながら、葉巻の先端を切り落とした。
「対象を見失いました。すぐに捜索班を――」
「追うな」
Mafiosoは短く命じた。
「は? しかし、他の組織に狙われる可能性が……」
「野良犬はな、追いかければ逃げる」
彼は火をつけ、紫煙を燻らせた。
脳裏に焼き付いているのは、自分のこめかみに銃を突きつけたChanceの、あの澄み切った瞳だ。
美しかった。
だからこそ、壊してはならない。
「空腹にさせろ」
Mafiosoは残酷に笑った。
「金もなく、薬もなく、頼る者もいない。……自由の冷たさが骨身に染みた頃、あいつは必ず温もりを探す」
その時、俺がそこにいればいい。
iTrappedのような小賢しい策など不要だ。
圧倒的な力と居場所を見せつければ、堕ちてくる。
「監視だけ続けろ。手出しはするな。……あいつが泣きついてくるまで、席を空けて待ってやる」
三者三様。
交わらない思惑。
だが、全員が理解していた。
この均衡は長くは続かない。
Chanceの飢えが限界に達した時、本当の選択が始まるのだと。
(……寒い)
あれから何日か経った。
指先が凍るように冷たい。なのに、内臓が焼け付くように熱い。
ヒートの揺り戻しだ。
抑制剤も、アドレナリンも切れた今、Ωとしての欠陥が牙を剥いている。
喉が乾く。水ではない。もっと濃密な、他者の体温とフェロモンへの渇き。
視界が滲む。
Chanceは震える手で端末を取り出した。
連絡先リストを開く。
『iTrapped』
その文字を見た瞬間、指が動いた。消去。
あいつの元へ行けば、安全な部屋と薬が手に入るだろう。
だが、今の身体が求めているのは論理や安全ではない。もっと根源的な、凍えた魂を溶かす熱だ。
次に表示された名前。
『Mafioso』
指が止まる。
消せない。
追加した覚えのない連絡先。
理屈ではない。
ただ、脳裏に焼き付いている記憶がある。
――銃を突きつけ合った時の、あの圧倒的な圧迫感。
――首筋に顔を埋められた時の、捕食される恐怖と、矛盾するほどの暖かさ。
(……クソが)
Chanceは端末を握りしめ、よろめきながら立ち上がった。
思考は霧の中だ。
ただ、身体が勝手に磁石のように引き寄せられていく。
あの、王がいる城へと。
屋敷は、闇の中で静かに呼吸していた。
門灯の明かりが、冷たい夜霧を切り裂いている。
Chanceは門の前に立っていた。
ここに入れば、もう二度と出られないかもしれない。
あの男は「追わない」と言った。それは優しさではない。どうせ戻ってくるという確信があったからだ。
俺は今、その傲慢な予言通りに動いている。
(帰れ。……引き返せ)
理性が叫ぶ。
「俺は選ばねぇ」と、あれほど大見得を切ったじゃないか。
ここに入れば、俺はただの負け犬になる。
だが、身体は限界だった。
門の向こうから漂ってくる、わずかなαの残り香。
それが鼻腔をくすぐった瞬間、膝の力が抜けた。
指が、インターホンに触れる。
一秒。
二秒。
凍えた指先が、そのボタンを押し込んだ。
ピンポーン……。
乾いた電子音。
応答はない。
代わりに、重厚な門が音もなく開いた。
招かれている。
Chanceは足を引きずるようにして、敷地内へと入った。
玄関ホールへの扉が開く。
中から溢れ出したのは、圧倒的な暖気と香りだった。
そこに、Mafiosoが立っていた。
ガウン姿で、手には何も持っていない。
彼は驚かなかった。勝ち誇った笑みすら浮かべていない。
ただ、当たり前のようにそこにいた。
Mafiosoはゆっくりと視線を落とし、小刻みに震えているChanceを見た。
「……」
何も言わない。
「戻ってきたか」とも、「遅かったな」とも言わない。
ただ近づき、Chanceの肩にかかっていた泥だらけの薄いコートに手をかけた。
スルリ、とコートが落ちる。
冷たい外気が遮断され、代わりにMafiosoの体温と、濃厚な麝香の香りがChanceを包み込んだ。
暖かい。
涙が出るほどに。
それだけで、Chanceの張り詰めていた糸が切れた。
膝から崩れ落ちる。
床に叩きつけられる寸前、Mafiosoの腕がそれを支えた。
「……勘違い、すんな……」
ChanceはMafiosoの胸元を掴み、荒い息を吐き出しながら言った。
これが最後の抵抗。最後のプライド。
「俺は……お前を、選んだわけじゃ、ねえ……」
寒かったから。
近かったから。
たまたま、足が向いただけだ。
Mafiosoは静かに答えた。
「知っている」
否定しなかった。
Chanceの嘘も、強がりも、すべてを飲み込むような低い声。
「だが」
一拍。
MafiosoはChanceの身体を軽々と抱き上げた。
「お前は今、ここにいる」
それが全てだ。
理由などどうでもいい。結果として、獲物は罠の中に自ら戻ってきた。
Chanceの視界が回る。
抵抗しようとしたが、腕に力が入らない。
それどころか、本能がMafiosoの首筋に顔を埋め、その匂いを貪ろうとしていた。
Mafiosoは踵を返し、屋敷の奥へと歩き出す。
背後で、重い扉が閉まる音がした。
ガチャリ。
錠が下りる音。
それは、ギャンブラーChanceの敗北の音であり――
新たな『番』の生活が始まる、契約の音でもあった。
車のエンジン音だけが、深夜の静寂に響いていた。
場所は、屋敷が見える丘の上。
iTrappedは、ダッシュボードに置いた端末を見つめていた。
画面上の緑色のシグナルが、ある一点で止まっている。
座標は、Mafiosoの屋敷。
動きはない。
心拍数、体温、フェロモン濃度。すべての数値が、彼が『檻』の中に入ったことを示していた。
「……愚かだ」
iTrappedは短く呟き、シートに深く身体を沈めた。
計算は完璧だったはずだ。
自由を与え、リスクを提示し、合理的な判断を促した。
Chanceはギャンブラーだ。損得には敏感なはずだった。
あのロシアンルーレットで見せた拒絶の意志こそが、彼がMafiosoの支配を嫌っている証拠だったはずだ。
だが、結果はどうだ。
彼は自ら、あの獣の巣へと戻っていった。
(……寒さ、か)
iTrappedは自分の手を見た。
冷たい指先。
銃の扱いは完璧でも、人を温める機能はない。
マフィアの圧倒的な熱量と暴力的な庇護。
弱った獣が必要としたのは、冷たい自由ではなく、窒息するほどの熱だったということか。
助手席を見る。
誰もいない。
数時間前まで、そこにChanceが座っていた。
甘い匂いと、生意気な口調と、生きようとする熱気があった。
今はただ、革のシートが冷えているだけだ。
「……システムエラーだ」
iTrappedは端末を手に取り、画面をタップした。
『追跡モード:終了』
『対象データ:アーカイブへ移行』
削除はしない。
ただ、フォルダを閉じるだけだ。
彼は知っている。
熱はいずれ冷める。
支配はいずれ苦痛に変わる。
Mafiosoの檻の中で、Chanceが再び自由を渇望する瞬間は、必ず来る。
「……待つさ」
iTrappedはキーを回し、エンジンを切った。
車内が闇に包まれる。
「賭けはまだ終わっていない。……チップが尽きるまでな」
彼は目を閉じ、暗闇の中で計算を再開した。
次の一手。
次のチャンス。
いつか来る崩壊の日のために。
遠くの屋敷では、明かりが一つ、また一つと消えていく。
それは、二人の男が堕ちていく合図だった。
そしてiTrappedは、その闇をただ冷たく見つめ続けていた。
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