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第2節 千崎雄二『百の香り』―5―
雪絵は何も問わず、静かに雄二の背へ手を回す。
産後の細い腕。
それでも、確かにそこにある温もり。
ベビーベッドの中で、百香が小さく寝息を立てている。
静かな家の中で、三人の呼吸だけが重なった。
何も知らないまま、守られている存在。
何も言えないまま、守ろうとする男。
雪絵は、ただ受け止める。
雄二は目を閉じた。
抱きしめる腕に、力を込めることも、言葉を足すこともできなかった――。
***
数日後。
雪絵と百香の退院から少し落ち着いた頃を見計らって、葛西了道と妻の佳代が顔を見せた。
「よう、雪絵。身体の具合はどうだ」
「もう大丈夫です。今日は来てくださってありがとうございます」
雪絵は嬉しそうだった。
百香を抱き上げる佳代の手つきは慣れている。
まるで本当の祖母のように、柔らかく揺らしながらあやしている。
「名前はなんにしたんだ?」
了道の問いに、雪絵が一瞬キョトンとして雄二を見た。
「雄二さん、了道おじちゃんに話してなかったんですか? パパは本当にぼんやりさんですね」
百香に微笑み掛けながら、雪絵が続ける。
「名前は……百の香りと書いて、百香ちゃんにしました。雄二さんが名付けてくれたんですよ」
誇らしげな声音。
途端、了道の視線が、ゆっくりと雄二へ向く。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
その目は笑っていなかった。
「……百香か」
だが、すぐに雪絵へと向き直る。
「可愛い名前、つけたじゃねぇか」
豪快に笑う。
だが雄二は知っている。
その言葉が、祝福だけではないことを――。
***
ひとしきり百香をあやした佳代が、そっと雪絵の腕へと赤子を戻す。
「ホントよく眠る子だねぇ。きっと丈夫に育つよ」
「はい。ありがとうございます、佳代おばちゃん」
「佳代、あんまり長居しちゃ、雪絵を疲れさせる。そろそろ帰るぞ」
「はい」
雄二と二人、葛西夫妻を玄関先まで見送りながら、雪絵が百香を抱いたまま嬉しそうに微笑んだ。
「またこの子に会いに来てくださいね」
「ああ。もちろんだ。」
了道は短く頷く。
その視線が、ふと雄二へ移った。
「千崎」
低い声。
「明日にでも、ちぃーとうちへ顔出せや。話してぇことがある」
一瞬、空気が張り詰める。
雄二は、それが何についての〝話〟なのか、察していた。
おそらくは、何も言わずに了道の横へ立っている佳代も――。
雄二の喉が、わずかに鳴った。
「……分かりました」
短く返す。
そんな雄二の横で、雪絵が何の疑いもなく、柔らかく笑った。
「了道おじちゃん、雄二さんをあまりこき使わないでくださいね? 彼は百香ちゃんの大事なパパなんですから」
「ははっ、雪絵も言うようになったな。――ま、俺にとっても相良へ預けたとはいえ、大事な若い衆だからな。ちゃんと手加減するから安心しろや」
豪快な笑い声。
だがその目は、最後まで雄二から逸れなかった。
了道と佳代を乗せた車が走り去る。
静かな住宅街に、再び日常の音が戻った。
「お仕事、お忙しいんですか?」
雪絵が首を傾げる。
「まぁ、それなりに……な」
それ以上は、言えなかった。
***
翌日は水曜日だった。
まだ少し肌寒い空気の中、雄二はネクタイを締めながら居間へ視線を向ける。
雪絵はソファに座り、腕の中の百香を静かに揺らしている。
小さな寝息が、部屋の中に穏やかに響いていた。
佳代も言っていたが、百香は本当によく眠る。それだけ雪絵の乳が潤沢で、お腹がいっぱいなんだろう。ぷくぷくとした肉付きの良い手足が、百香が健康に育っていることをうかがわせた。
「……今日は、少し遅くなるかもしれん」
雄二が言うと、雪絵が顔を上げる。
「お仕事ですか?」
「ああ」
短く答える。
雪絵はそれ以上は聞かなかった。
けれど、きっと昨日の今日だ。了道のところへ出向くことは分かっているだろう。
「行ってくる」
百香のふわふわの髪の毛にそっと触れて雪絵に言えば、百香を抱いたまま雪絵が慌てて立ち上がった。
「玄関までお見送り――」
します、と続けたかったんだろう。だが、その言葉は腕の中の百香からの「ふにゃあ」という泣き声で中断された。
「あ……」
雪絵が慌てて百香を抱き直して背中を優しくトントンしながら揺らす。
雄二はその様子を一瞬だけ見つめ、それから視線を逸らした。
「俺のことはいい。百香をあやしてやってくれ」
「でも――」
「いいから」
そう言って、雄二はもう玄関へ向かっていた。
扉を開ける直前。
なんとなく振り返る。
雪絵が百香を揺すりながら、少しだけ不安そうな顔でこちらを見ていた。
コメント
2件
わー、葛西さんがなんも言わんの、逆に怖い😱
古本屋で偶然手に取った1冊みたいに、この話の空気感がすごく好きです。産後の細い腕で雄二を抱きしめる雪絵の優しさが胸に沁みました。了道の「目が笑っていなかった」一瞬だけで、雄二が何か重いものを背負っているのが伝わってきて――日常の穏やかさと、その裏にある張り詰めた糸のような緊張が絶妙でした。百香の寝息が、その間を静かに埋めている。続きが気になりますね。
#極道
鷹槻れん

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月詠 涼
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水羽凛
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鷹槻れん

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