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旅に出てから五日目の夜明け前、私は小さなビジネスホテルの部屋をそっと抜け出した。
リュックにはほとんど何も入っていない。財布と日記帳だけを握りしめる。空はまだ深い藍色で、遠くの水平線がかすかに光を帯びている。
街の灯りは徐々に消えかけ、朝の冷たい空気が肌を刺す。潮の匂いが混ざった風が髪を揺らす。私は静かに歩き、街の端にある岬へと向かった。人影はない。犬の散歩や早朝のランナーの足音も届かない、完全な静寂。
岬に立つと、波が岩に砕ける音だけが響いた。水平線は淡い橙色に染まり、波は朝日を反射して銀色に輝く。胸の奥がぎゅっと締めつけられるような感覚があった。
(本当にきれい……)
(こんな景色があるなんて知らなかった。もっと早く知っていれば、何か変わっていたのかな……でも、もういい。今ここにいる、それだけでいい。)
私はリュックから日記帳を取り出した。最後のページを開く。ペン先が震える。書き残したい言葉はたくさんあった。けれど、すべてを綴る時間も、読んでくれる人もいない。だから、簡潔に、静かに書いた。
「ここまで来た。
私は確かに、ここに生きていた。
ほんの少しだけれど、自由だった。
誰にも見られなくても、私の心はここにあった。」
ページを閉じ、リュックに戻す。手に残るペンの感触が、現実に触れている証のようで、少しだけ心を落ち着かせる。
私は足元の砂に座り込み、波打ち際の水に手を浸す。冷たく、でも痛くない。波が寄せては返し、手のひらを濡らす。水面に映る朝焼けは、これまで見たどの景色よりも美しかった。
「ありがとう」
と、声にならない声で呟く。誰かに向けてではない。世界のすべてに向けて。海に、空に、波に、そして、私の中にあった孤独に。
髪を解き、風に任せる。長い間、抑え込んでいた感情が、静かに胸を満たす。嬉しいわけでも悲しいわけでもない。ただ、ここに「私」がいるという実感。
(怖くない……不思議。ずっと、怖いものだと思っていたのに。今はただ、静かに消えていくような気持ち。)
(誰にも届かなくていい。私がここにいたことは、私が知っているから。)
深呼吸を一度だけする。心臓の鼓動が、波の音と呼応するように聞こえる。目を閉じると、旅の数日間がフラッシュバックのように蘇った。
海辺のベンチでかじったパン、古書店の木の匂い、カフェの温かい紅茶、道端で微笑みを返した子ども、見知らぬ人の小さな優しさ。すべてが、私の心に刻まれている。
(あの笑顔たちは、私が確かにここにいた証。名前は残らなくても、あの一瞬はきっと世界のどこかに混ざっている。)
もう、戻る必要はない。どこにも、私は帰らない。誰のためでもなく、私自身の選択で、この瞬間を終える。
砂浜に立ち上がり、波の音を胸に吸い込む。遠くの灯台の光がゆっくりと回る。風は柔らかく、でも冷たい。波の間を漂う潮の匂いが、私の意識を包む。
そして、深く息を吸った。
目を閉じ、心を静める。全ての感覚を、最後の瞬間に集中させる。足元の砂、波の冷たさ、風の匂い、心臓の鼓動。すべてが私のものだ。
波が寄せて、足首を洗う。冷たさが身体に浸透する。心がゆっくりと透明になっていく感覚。恐怖はない。痛みもない。ただ、静かに、すべてが溶けていく。
――さよなら、私。
――さよなら、世界。
(ありがとう、私の小さな命。ありがとう、世界。たとえ誰にも届かなくても、私はここにいた。)
空が少しずつ明るくなり、朝の光が波に反射する。その光の中で、私は静かに、すべてを手放した。砂と波と風だけが、私の存在を覚えているかのように、淡く揺れた。
世界に残るのは、日記帳の文字と、足跡の一部だけ。波がそれを少しずつさらい、光の中で消えていく。誰も知らない私の最後の数日間は、確かにあった。誰の記憶にも残らなくても、私はここに生き、自由を感じ、静かに終わった。