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「———しかし」
鏡の前の自分たちに見せつけるように唇を合わせてから柳原が笑った。
「ここは、落ち着かねえな」
言われて振り返る。
花びらのウォールシールが貼られたトイレ。
曇りガラスの向こう側に、飛行機とクマさんのスポンジが見えるバスルーム。
塩水を洗い流したまま放置してある浮き輪と水中眼鏡。
いつも彼らが駆けまわっているこの場所で、1人の女として、色と欲を男と絡み合わせている自分に、罪悪感を感じる。
そして女としてこの男を呼んでおきながら、水中メガネはちゃんと干さないと臭くなるんだよな、と母親の思考が浮かんでしまうことにもまた、罪悪感を感じる。
母と女。
それは、同じようで同じではない。
同じ体に共存しながら、相手によって、場所によって、表に出てくるほうは必ずどちらか一方だ。
「みさえってすごいですよね」
急に呟いた言葉に柳原が目を見開く。
「みさえって、もしかして、あのみさえ?」
「はい。しんちゃんのママの」
「————なんで?」
笑いをこらえるように口元を抑えながら、柳原が聞く。
「しんちゃんを怒りながら、たまにひろしにも色目を使うじゃないですか」
「————」
「私は、無理だったなー。ママであり、女でいるってのは」
言うと、柳原はふうと短く息をついた。
「まあ、とりあえず、戻りますか」
「ん」と言いながら柳原が手を伸ばしてくる。
「この距離で手を繋ぐんすか?」
笑いながら手を握ると、
「視力、悪いんだろ?」
意外と真剣に手を引いてくれる彼の優しさに、お腹の奥が温かくなった。
先ほど座った場所に戻り、お互いの缶を傾ける。
「話したいならどうぞ」
柳原が目を閉じる。
「何をすか」
「リコンリユー」
リコンリユー。
リコンリユウ。
ああ、離婚理由か。
ぼやけた頭で考える。
「語るような大した話じゃないすよ」
「うん。期待してない」
言いながら、本当に興味なさそうに空になった缶をフリフリと振っている。
「ーーーほんのちょっとの浮気に、私がひどいヤキモチを焼いて、ほんのちょっと振るわれた暴力に、私が過剰反応しただけですよ」
言うと、柳原はカシュッと手の中の缶を握りつぶした。
「ほんのちょっと、じゃねえだろうが」
引きずる足を、唯一気づいた人物。
それが柳原だった。
大腿部裂傷という派手な診断名が付いた足は、普段は痛くないのだが、同じ姿勢で長時間いたあとに動き出すときに激痛が走った。
仕事柄運転が多い彩加は、いつも車を降りるときに、その痛みに一人悶絶していた。
その日も車を停め、キャリーから降りた瞬間傷みが走り、降りたばかりの運転席に腕をつきながら痛みが去るのを待っていた。
搬入口にしゃがみながら、煙草を吸っていた課長には気が付かなかった。
脂汗が運転席のシートに二つほど垂れた後、足の痛みはやっと楽になった。
軽く呼吸を繰り返しながらシートから身を離し、ドアを閉めたその裏側に、柳原は立っていた。
「どうした。その足」
あの低い声を聞いたのは、後にも先にもその一回だけだ。
その言葉で、
暴力を振るわれた記憶が、
こんなに痛い事実が、
念のためともらっておいた診断書が、
現実の波となって、彩加に押し寄せてきた。
「医者には、行ったのか」
何かを察したらしい、柳原が静かに聞いた。
言葉を発せずに頷く。
「薬は貰ってるのか」
「はい」
身体から力が抜け、手から落ちる発注書を、柳原は拾い集めた。
「これは俺がやっとく。今日は帰れ」
彩加は何かにとりつかれたように、自家用車に乗り込むと、そのまま市役所へ向かった。
柳原は、ちっともよろついていない足取りで冷蔵庫までいくと、今度は酎ハイを片手に戻ってきた。
「ほんのちょっと、じゃないだろ」
もう一度言いながら、今度は蓋に長い指をかけ、カシュッと同じような音を立てる。
「そんなクソ野郎、別れて正解だ」
この一年半、欲しくて欲しくて、堪らなかったその言葉は、たちまち彩加の体に溶けていった。
「息子にチャンスを上げてほしい」
義母が縋った。
「子供たちのことを考えてほしい」
義父が頭を下げた。
「本当にこれでいいのか?」
実父が覗き込んだ。
「一人で二人を育てられるの?」
母が泣いた。
何を選べばよかったのか、いまだにわからない。
でも私は―――。
私は――――。
「どうしても…許せなかったんです」
ポロポロと涙が溢れてくる。
「許せなかった。浮気も、暴力も、ぜったいぜったい、許せなかった」
言うとどんどん涙がこぼれてこぼれて、その塩分で頬が痒くなった。
「でも、子供たちは、パパに会いたいから。あいつも、子供たちには会いたいから。泊めさせてあげるようになったら、子供たち、『次はいつ行けるの?』って目を輝かせて…」
柳原は黙って酎ハイを半分ほど飲み干す。
「下の息子なんて、『パパと暮らしたい』とまで言い出すし…もう、私こんなに……」
「頑張ってるのになあ?」
顔を上げる。
視力0.1のはずの視界に、涙がレンズの役割でもしているのだろうか、柳原の顔がはっきりと見える。
「普段のしつけやお世話は全部ママで、叱るのも怒るのもママで、遊んだり優しくするのはパパで。そりゃあ、そう言うよな、ガキなんだもん」
柳原は缶の中身を飲み干して続ける。
「でも大丈夫だ。子供は見ていないように見えて、ちゃんと見てる。毎日汗だくになるまで働いて、フラフラで迎えに来るママの笑顔をちゃんと見てる」
そういうと柳原は笑った。
「俺にさえ見えてるんだから、子供に見えてないはずねえだろ」
その言葉に、ますます目全体が熱くなってくる。
アルコールが全て眼球に集中しているかのように、彩加は涙を拭い続けた。
「ごめんなさい、泣きたくないのに……」
「なんで」
「だって、30過ぎた女は泣くなって言われたし」
「ひどいな。誰だそんなこというの」
言いながら柳原は尻を滑らせながら彩加の脇に座ると、細い腰を抱き寄せ、頭を自分の肩に凭れかけさせた。
「でも俺は………」
言いながら手のひらで涙を拭いてくれる。
「———俺は??」
「俺は、泣いてる女は抱かないぞ」
その言葉に驚いて顔を上げる。
「————そのつもりで呼んだんだろ?」