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こと-koto
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*
「せっかく、チャンスを持って来たのに、まさか要らないとか言わないでしょうね」
野々宮の指先が、ゆっくりと太腿の上をなぞり、俺を誘惑する。
「バレなきゃ平気でしょう?」
耳元で聞こえる悪魔の囁きに、ゾクリ粟肌がたつ。
「これは取り引きなの、二人だけの・ひ・み・つ」
二人だけの秘密の取り引き……。
それは、甘美な響きだった。
野々宮は上目遣いに含みのある視線を送り、楽しそうに口角を上げ紅い唇を動かす。
「あなたは仕事の情報を手に入れる。そのために私と秘密の取り引きをするだけ、簡単な事でしょう?」
野々宮の指先がUSBメモリを弄び、その瞳は蠱惑的に光る。
「楽しい事しましょう。普段出来ないような事もシ・テ・あ・げ・る」
そう言って、野々宮は紅い唇を淫猥な含みを持って舐め上げる。
だが、それでも頷かない健治に焦れ始めた。
「コレ、いらないのなら他の人と取り引きをしようかしら……?」
三栄製薬会社の取り引き薬価情報が他社に渡る。それは、他の社にチャンスが行くという事。野々宮なら腹いせにやり兼ね無い。
食い込むどころか他の社に出し抜かれるなんて、社内的にも許されない。
苦々しい思いで、俺は言葉を吐き出した。
「部屋は、何号室だ?」
*
「あら、一緒に行けば良いじゃない」
「ダメだ。どこで誰か見ているか分からないのに、二人で並んで部屋に入るのは危険だ」
健治は、渋谷でファッションホテルから出て来たところを美緒に見られたのを思い出していた。
今、ラウンジにいる事すら厄介ごとの種なのに、二人で部屋に入るのを見られたらタダでは済まされないだろう。
|好《す》き|好《この》んで野々宮との関係を復活させているわけでもないのに冗談じゃない。
「まあ、どっちでもいいわ。5015号室よ。先に行ってシャワーを浴びているから健治は後から来て頂戴。カードキーも渡しておくわ」
そう言って、野々宮は蠱惑的な視線を残し、手荒れの無いネイルが施された綺麗な手をひらひらさせて、ラウンジを後にした。
残された俺は、ぐったりと体の力が抜ける。そして、緊張からか喉がカラカラに乾いていた。店員にジントニックを注文する。
美緒に別れを切り出されないように言った自分の言葉が重く圧し掛かる。
『俺は、美緒の事を大切にする。だから、そんなことは起こらないと思うけどな』
今、自分の思いとは裏腹に《《そんなこと》》が起ころうとしている。
野々宮の悪魔のような囁き。
「これは取り引きなの、二人だけの秘密」
狡猾な落とし穴に嵌った。
俺は、どうすればいい?
*
2杯目のジントニックを飲みながら、ふと思い付く。
野々宮は、今、シャワーを浴びているはず、その間にあのUSBメモリを手に入れる事が出来るのではないだろうか。
慌ててジントニックを飲み干し、席を立つ。
ホテルの毛足の長い絨毯が、とてつもなく歩きにくく感じられ、やっとの思いでエレベーターホールへ辿り着いた。
そして、苛立たし気にエレベーターのスイッチを叩く。
早く来い、早く来い。
祈るような気持ちで、10階ラウンジフロアまでゆっくりと階数表示が動くのを見つめた。
チンッと、いう音と共に扉が開き、中にいる人が降りるのをじりじりと待つ。
やっと、乗り込むと『5015号室』のカードキーを確認して、5階のスイッチを押す。
幸い乗降客が無く、エレベーターはスムーズに5階に到着をした。
廊下を足早に進み 『5015号室』のドアにカードキーを差し込む。
ドアノブに付いている赤いランプが緑に変わり、カチリと音を立て開錠された。
そっとドアを押し開き、音を立てないように閉めた。
シャワーブースから水音が聞こえる。
足を忍ばせ部屋の奥に進み、野々宮のバッグを見つけると中身を漁った。
なかなか見つからず、焦りながらかき混ぜるとバックの内ポケットにUSBメモリを見つける。
USBメモリを自分のポケットに入れ、ホッと息を吐いた。
野々宮のバックを何事もなかったかのように元の位置に戻す。
お目当てのモノは手に入れた。これで後はこの部屋から出ればいい。
そう思った時にカチリとバスルームのドアが開き、野々宮が顔を見せた。
*
野々宮が風呂から出て来るのが、思っていたより早かった。
いや、急な思い付きの行動だからこんな事は起こり得ることなんだ。
俺は、立ち尽くしながら冷静にこの場を切り抜けて帰ろうと考えを巡らせていた。
「あら、お待たせ」
バスローブ1枚を羽織った姿で、1歩ずつ近づく野々宮果歩は、さながら、狙いを定めた肉食獣のように俺を追い詰める。
後ずさってみても、狭いホテルの部屋。その壁際にある大きな鏡の前で野々宮に捕らえられた。
「野々宮、俺、悪いけどやっぱり帰るよ」
背中を鏡に押し付けられるようにして、俺は言葉を発した。
その言葉を聞いて、野々宮は、勝ち誇ったかのようにニヤリと口角を上げた。
「探し物は、見つかったのかしら? でも、パスワードを知らないとファイルが開かないのよ」
上目遣いで覗き込む野々宮に、ゾワリと寒気を覚えた。
野々宮の赤い爪が、俺のネクタイに掛かりスルスルと解き始める。
「大事なファイルにパスワードをつけるなんて普通でしょう」
野々宮はネクタイをスルリと引き抜き、椅子の背もたれに放り、背広の上着のボタンを外す。
「ねえ、パスワード知りたいでしょう?」
背広の上着をはだけさせ、ワイシャツのボタンを外し始めた。
必要に執着される事に疑問を感じる。金銭的に不自由のない野々宮なら、お気に入りの男などいくらでも見つけられるはずだ。
「野々宮、なんで……。なんで、俺なんだ」
「フフッ、私たち恋人同士なんでしょう。私が別れたいって、言わないかぎり私と別れるなんて無理なのよ」
*
「私にとって健治ほど、相性の良い相手はいないのよ」
ボタンを外したワイシャツの隙間に手を忍ばせ素肌をまさぐる。
はだけたワイシャツの間に顔を寄せ、胸板に唇を寄せた。
「体目当てかよ」
「そうよ、悪い? だって、健治はお医者さんじゃないから結婚できないでしょう。フフフ」
野々宮果歩、緑原総合病院の一人娘・跡継ぎとして、病院を引き継げる医師と結婚する事が絶対条件。
薬学部卒の俺では結婚相手の条件には当てはまらない。これは、大学時代から聞いていた事だ。
もちろん、当時、学生で若かった俺には付き合っていても結婚という意識はなく、女優のように美しく、お金持ちの野々宮果歩は彼女として一種のステータスシンボルだった。
わがままできまぐれの厄介な性格も、あの頃はまだ、甘ったれたり可愛い所を探すことが出来た。
でも、今はマイナス面が目につく。
「結婚したって、俺じゃ、お前を養いきれない。ごめんだね」
カチャカチャとベルトを外す音が聞こえた。
そして、チリチリとスラックスのチャックが下ろされ始める。
この先の事態に諦めの気持ちが色濃くなり、それでもわずかに|贖《あがな》う気持ちが言葉を紡ぐ。
「俺を解放してくれ、もう十分だろ。お前では心が休まらない」
「嫌よ。放してあげないわ」
「悪魔のような女だな」
「ふふ、欲に溺れて、楽しめばいいのよ。」
ボクサーブリーフに手を掛けられた。
悪魔に囁かれ、狡猾な落とし穴に嵌り、どこまでも深く落ちていく。