テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
19
92
36
NARI
19
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「お前なんか嫌いなんだぜ!」
今日もまた、ヨンスはそう言った。
会議が終わったばかりの廊下。資料を抱えて歩いている菊の背後から、遠慮のない声をぶつける。
「……そうですか」
菊は振り返りもせず、淡々と答えた。
「そうなんだぜ!だから、お前なんか俺の視界から消え――」
「はいはい」
「最後まで聞けよ!」
「どうせ『嫌いだから消えろ』でしょう?」
「そう、それなんだぜ!」
「……わかりました」
ぽつりと、菊が小さく呟いた。
いつものように「まったく、あなたという人は」と呆れ顔で小言を返されると思っていたヨンスは、拍子抜けして言葉を詰まらせる。
「……菊?」
振り返った菊の顔からは、何の感情も読み取れなかった。そして次の瞬間、どこか寂しげに、諦めたような笑みを微かに浮かべたのだ。
菊は資料の端を整えて抱え直すと、ヨンスに向かって深く一礼した。
「今まで、ご迷惑をおかけしました」
「え……? あ、おい、何言っ――」
ヨンスが手を伸ばした瞬間。
すっと、風が吹き抜けた。
――目の前から、菊の姿が消えていた。
気配も、足音も、なにも無い。まるで最初からそこには誰もいなかったかのように、ただ静まり返った廊下に、ヨンスだけが取り残されていた。
「……菊?……おい、冗談だろ!?」
パニックに陥り、廊下を走り回る。
物陰に隠れているのだろうか。「驚きましたか?」とまたいつものすました顔で出てくるのだろうか。
だが、会議場のどこを探しても菊の姿はない。
「なぁ!菊を見なかったか?!」
すれ違うアルフレッドの服の袖を掴み、ヨンスは叫んだ。
普段なら彼に対しては徹底しているはずの敬語も吹き飛び、なりふり構わず掴みかかるヨンスに、アルフレッドは心底不思議そうな顔を向けた。
「キク……?誰だいそれは。アジアの新しい国かい?」
「な、何言ってるんだぜ!菊だよ!黒髪で、大人しくて、俺の隣に――」
「ヨンス、疲れてるのかい? そんな国、最初から無かっただろ」
(まさか……そんなはずはない)
いつも「兄貴」と呼び慕う耀に縋り付いて尋ねても、返ってくる答えは同じだった。
「菊なんていう奴は居ないある」
世界から、菊の存在そのものが消えていた。
(嘘だろ……なんで!?)
胸が張り裂けそうなほどの絶望が、ヨンスを突き落とす。
俺が消えろと言ったから。
いつもの意地っぱりで、素直になれなくて、口を開けば「嫌い」なんて酷い言葉ばかり投げつけていたから。
『お前なんか嫌いなんだぜ!』
違う、違うんだ。本当はそうじゃなくて、構ってほしくて、自分のことだけを見てほしくて。あんなの、本心なんかじゃなかったのに!
「ごめん……ごめん、菊……!違うんだぜ!消えないでくれ、お願いだから……っ!」
誰もいない廊下に膝をつき、ヨンスはポロポロと大粒の涙をこぼした。
菊のいない世界なんて、考えたくもなかった。嫌われてもいい、突っぱねられてもいいから、もう一度だけあの静かな声を聞きたかった。
涙で視界がぼやけ、何も見えなくなっていき――
「……っハッ……!」
激しく呼吸を乱しながら、ヨンスは跳ね起きた。
汗で張り付いた前髪を払い、荒い息のまま周囲を見回す。そこは、会議のために滞在しているホテルの、落ち着いた佇まいの一室だった。
窓の外はすっかり明るく、時計の針はすでに会場へ向かわなければならない時間を指している。
(……夢……だったのか……?)
びっしょりとかいた嫌な汗。胸を締め付けるような苦しさ。酷い動悸が収まらない。
ホテルの慣れないベッドと、不吉な夢のせいで、完全に寝坊してしまっていた。
だが、遅刻の焦りよりもヨンスの頭の中を占めていたのは、あのアルフレッドや耀の無関心な態度と、目の前から消えてしまった菊の寂しげな表情だった。
(夢だ……絶対に夢なんだぜ……。でも、もし本当に……)
ヨンスは急いでシャワーを済ませ、ネクタイを締める手ももどかしく、着替えもそこそこに部屋をあとにした。
タクシーを飛ばし、アジア会議の会場へと急ぐ。胸のざわつきは収まらず、気が気ではなかった。
確認しなければ。菊がちゃんとそこに「在る」ことを。いつものように、呆れ顔で自分を見てくれるのかを。
到着するやいなや、タクシーを飛び降りて建物の中へと駆け込んでいく。
息を切らして会議場の重い扉を押し開き、先に来ていたメンバーの顔を瞬時に見渡した。
――居た。
菊だ。 目の前に、菊がいる。
「きく……っ!!」
視界の端にその姿を捉えた瞬間、ヨンスは一直線に走り出した。周囲の風景も、他の誰の姿も一切目に入っていない。
ただ、そこにいる小柄な黒髪の青年だけを目指して。
「うわっ……!?よ、ヨンスさん!?」
ドシ……ッ!
猛スピードで突っ込んできたヨンスを正面からまともに受け止め、菊は「ぐえっ」と潰れたような情けない声を漏らしながら後ろへ大きくよろめいた。そのまま倒れそうになるのを、足を限界まで踏ん張ってどうにか持ちこたえる。
菊が抱えていた書類がバサバサと床に散らばるが、ヨンスは気にする余裕すらなかった。
――菊だった。
触れられる。立っている。ここにいる。
ちゃんと、『在る』――!
そう感じた瞬間、ヨンスは菊の首元に顔をうずめて、大声をあげて泣き出した。
「うわああああん!良かった、良かったんだぜぇぇぇっ!!きく!居なくならないでくれえぇっ!」
「な、何を……っ、皆さん見ていますから、離してください………!」
「嫌だ!絶対離さないんだぜ!消えろなんて嘘なんだぜ!俺、菊のことが大好きなんだぜ!!嫌いなんて絶対に思ってないんだぜぇぇっ!!」
胸に伝わる確かな体温、トクトクと脈打つ心音。それが何よりの救いで、心の底から安堵していた。
「よ、ヨンスさん……」
大泣きしながらしがみついてくるヨンスの背中に、菊は困惑しながらも、そっと手を回した。
何があったのかは解らなかったが、ヨンスの目から溢れ出る涙は本物で、よほど恐ろしい思いをしたのだと痛いほど伝わってきたからだ。
「……まったく、あなたというひとは」
菊は困ったように、けれどどこか愛おしそうに小さく息をついた。
幼子をあやすように背中を優しく撫で、そして、泣きじゃくるヨンスの耳元に顔を寄せて、誰にも聞こえないほどの――ヨンスだけにしか届かない、小さな声で囁いた。
「私も、あなたのことが……ずっと、大好きですよ」
その言葉に、ヨンスはさらに大きな泣き声をあげて菊を強く抱きしめた。
腕の中にあるこの慕わしい存在が、二度と消えることのないように願いながら。
――そして、数分後。
「……で? 朝から一体何の騒ぎあるか」
腕を組んでジト目を向ける耀。その隣で、香は「……うわぁ」と呟きながらさり気なくスマホのカメラを構えており、湾は「ヨンス、朝から愛が重いネ!」とニヤニヤしながら二人を見つめている。
たっぷり泣いてようやく落ち着きを取り戻し、自分を取り囲むギャラリーの存在に気づいたヨンスは、一瞬で顔をゆでダコのように真っ赤にした。
「ひっ……あ、ええぇっ!?!」
弾かれたように菊から飛び退き、必死に手を振る。
「ちちち違うんだぜ兄貴!これはその、……挨拶!我が国に伝わる情熱的すぎる朝の挨拶なんだぜ!!」
「そんな挨拶、聞いたことないある……」
「そうネー、抱きつきながら『大好き!』って叫ぶ挨拶なんて、私初めて聞いたヨ!」
「……写真じゃなくて、動画撮っとけばよかった的な」
「違うんだぜえぇぇっ!とにかく俺は菊と深い意味のある挨拶をしただけでーー!!」
「深い意味ってどんな意味だヨー?」と、さらに湾に追及され、ますますしどろもどろになりながら、支離滅裂な言い訳を叫ぶヨンス。
床に散らばった資料を丁寧に拾い集めながら、菊はその慌てようを、微笑ましそうに、そしてどこか嬉しそうに静かに眺めていた。
* * * * *