胸元と背中の開いたブルーのミニドレスに白のサイドレースと編み上げのリボンベルトの付いたピンヒール。サイドが編み込まれた巻き髪に濃いメイク。
香水、化粧品、バッグ、美容代、その他諸々。まさかこんな所で溜まった貰い物が役に立つなんて思いもしなかった。
あとから同僚から聞いた話、面接から店長は私に目を付けていたらしい。
他の子に比べてダイヤのような輝きは持っていないが、原石としての輝きは持っている。話も上手く、この子は今までにない新しい子になれる。夜に染っていない、まるでなんにも知らないアリスのようだと。
そこからアリスという名前は店長が私の源氏名として採用した。
「アリスちゃん指名入りました〜!」
「はぁ~い」
指名してくれた常連のお客さんをエレベーター前まで見送れば再び黒服の人から指名の知らせを受ける。
気づけば潜伏して一ヶ月、すっかりこのシステムに慣れてきたもののいい歳してキャバ嬢になるなんて誰が予想した。
実際最終的にやりますと言ったのは自分だけど、これも約一ヶ月前、新宿歌舞伎町のとあるキャバクラ店にあの国際的な大規模犯罪組織のひとりがいるという噂が警視庁の公安部に流れ込んできた。
年齢、性別、容姿不明。唯一の手がかりはこのキャバクラ店で見かけたと言うたったひとつの情報のみ。そこから警察官であることを隠して潜入する潜入捜査の案が会議で出ると話は問答無用でポンポンと進んで行った。
かなりの手慣れた人物なのか一ヶ月たった今でも情報はゼロ。毎日決まって退勤後にする降谷くんへの連絡は決まって『今日もそれらしい人も、怪しい行動もなし』と、機械的に吐き出す毎日だ。
【04】「元整備士」×「マスタングGT500」
指名された席へ移動すればそこには初めて見る顔の男性がいた。初回で指名なんて珍しい。
「初めまして、アリスです。指名ありがとうございます」
営業スマイルと高らかな声をで愛嬌を振り撒きながら名刺を渡すのももう手馴れたものだ。「隣に座っても?」と聞けばキャスケット帽を深く被っているその男性は短く返事をした。
「お兄さん、この店初めてですよね? 見かけない顔なので」
「ああ、今日が初めてだな」
「私も初回フリーなしで指名なんて初めてです。もしかしてタイプでした?」
「そんなところだな」
「それは嬉しいです。……今日は水以外になにか飲まれすか?」
「ではアルマンドのレッドを」
お冷を作りながらそんな会話をしているとまるで居酒屋のような軽い口調で高級シャンパンの名前を口にする男性に私は思わずブッ、と吹き出してしまった。
「あ、アルマンド?」
「なんだ、嬉しくないのか?」
「い、いえ! 嬉しいです! お願いしまーす」
そうだった、私は今現役のキャバ嬢だった。
アルマンドを貰ったことがないわけではないが、感覚で言うならまるで一目惚れされて突然プロポーズされましたみたいなノリで高級シャンパンが入るので思わず素の反応が出てしまった。これこそキャバ嬢にあるまじき行為だ。
手を挙げて黒服さんを呼べば、豪華な箱の中に入ったアルマンドのレッドの栓が抜かれ、お店はより一層時間の流れに乗るかのように盛り上がりを見せた。
グラスに注いで一緒に乾杯をすれば私はそれを一気に飲み干した。
半開きに空いた口から小さく息を吐いた。……相変わらずクソまずい。一ヶ月たった今でも口に含んだ瞬間、生き物のように溢れ出そうになる。
この潜入捜査で唯一の難点は私のアルコールの飲めなさの問題だ。一時は慣れるかなと甘ったるいことを考えていたら私の舌は慣れるどころか日が進むにつれ拒否反応はエスカレートする一方。もはや標的を見つけるのが先か私の舌がつぶれるのが先かのどちらかだ。
それを見たキャスケット帽を被った男性が「いい飲みっぷりだな」と褒めてくれる。一気に流し込まないと私の身が持たない。その言葉に私は微笑んだ。
「ええ、よく言われます。お兄さんはお酒お好きなんですか?」
「ああ、バーボンとスコッチが特に」
聞いた途端、思わず口角が引くつきそうになるのを私はぐっとこらえた。絶対度数やばい酒だ。名前でわかる。
「お酒強いんですね、私も今度飲んでみます。そしたらまたお話しましょう。お名前はなんて言うんですか?」
「金子秀也だ」
「秀也さんですね、覚えときます」
そして一旦会話が途切れた。
キャバクラにあってはならないことかもしれない。けどこれでいい。媚びないのが私の売りだから。相手の自慢話を引き出して、共感し褒め、気休めの休憩が口直し。キラキラとした店内とは裏腹に落ち着いた雰囲気の接客が以外にもお客さんの心を掴むらしい。
今や店では五番目と言った所だがあくまで本業ではないので順位は気にせずいつも通り振舞っている。
まだイガイガと口に残るアルコールを水で流すと、ふと秀也さんと目が合った。
「……酒は苦手か?」
「…………え?」
とんでもない洞察力の思わず私は目を見開いた。
うそ、顔に出てた? いや、顔に出てるわけないじゃん。だってここ一ヶ月そんなこと言われたこと一度もないし、お酒が苦手なことはこの店の店長と一部の同僚と黒服の人しか知らない。
「飲み終わった後、少しだけ息をするのがゆっくりに見えた。それに瞬きも多く感じた。気のせいかそれとも癖なのかと思ったが水を飲んだ時にはそうはなっていなかった。…違うか?」
この人、そんなに私のこと見てたっけ……?
戸惑いを隠せず分かりやすく目が泳ぐ。なんて返すのが正解なんだろう。ひとまず、「実は度数の高いものは少し…」と答えれば、「無理せず飲まなくてもいい」と、再び自分のグラスに注いでいたアルマンドを手に取ると男はそれを一口で飲み干した。
「ルルちゃんにリシャール入りました〜!」
「やった~! ありがとうございます〜!」
別席で聞こえる高らかな声が店内に響いた。私達も思わずそこへと視線を向けた。
「彼女は…?」
「ルルちゃんですか? ここで一番人気の子ですよ。こっちの席に呼びますか? ここは三人まで同時指名できますよ」
「いいや、また次の機会にとっておこう」
「じゃあまた次を期待してもいいんですね。嬉しいです。良かったら連絡先交換しませんか?」
そう言って横に置いておいたブランドモノのハンドバッグから取り出したのはプライベート用とは別の潜入捜査用のスマートフォン。ちなみにこれは降谷くんのおさがりでもあるので出費はゼロだ。
まさか連絡先の登録がこんなところで役に立つなんて。やっぱりあの時沖矢さんのやり方を見ていて正解だった。
秀也さんと連絡先の交換を済ませた後、近くにいた黒服さんにチェックを伝えれば伝票が下りてくる。
合計金額 35万円
この光景に見慣れ過ぎて、こっちまで金銭感覚が狂いそうになる。一応、ここではこれが普通の金額だ。
お会計を済ませ帰る秀也さんをエレベーターまで見送り営業スマイルを張り付けて扉が閉じるまで手を振り、閉まった途端まるで力が抜けたかのようにパタリと腕を下ろした。
「アリスちゃん、こっち指名入りましたー!」
「はーい! 今行きます~!」
エントランスから聞こえる声にそう答えながらエレベーターを背に私はまた店内へと歩き出した。
新宿歌舞伎町、夜の街。ここに、降谷くんの言うあの極国際的犯罪組織、通称を黒の組織。
その一人が必ず、この街にいる。
××××
「ア〜リ〜ス〜チャン!!」
閉店後の更衣室、突然背後から聞こえてくる高い声、それと同時にゾワリと背筋に虫唾が走った。
後ろから私の胸をガッシリと掴んで持ち上げる奇妙な行動を取るのはこの店でひとりかいない。この店、人気ナンバーワンのルルちゃんだ。
高身長でスタイルも良く、赤のミニドレスに長髪の黒髪をポニーテールにしたクールな容姿からは想像もつかない人懐っこさと感情豊かなギャップにお客さんは皆夢中になってしまうらしい。私の接客方法とは真逆、世間一般でいういわゆる構ってちゃんだ。
胸を掴まれたと同時に脊髄反射でいつものように抵抗し始めるがそれをルルちゃんは毎回簡単には逃してはくれない。毎回尻尾を振った犬のようにベタベタと付きまとう。
「もぉ〜! やーめーてー!」
抵抗した末、更衣室の床でもみくちゃになりながらそういうとやっとの思いで今日の修羅場から抜け出せた。酷い時は他の子達が引き剥がしに入ってくれるが、今日は週一回の集計の日、シャンパンが一番多く入ったルルちゃんと私が他の皆よりも退勤時間が遅くなっていたのだ。
手早くロッカーからジャケットと私物を入れたポーチを手に取ってハンドバックに詰め込んだ。
「私、待たせてるから早く行かないと」
「また~? 絶対彼氏じゃん!」
「もう……彼氏じゃなくて知人っていつも言ってるでしょ」
「私もアリスチャンと帰りたい〜!」
「ダメだって、家族に内緒でやってるからルルちゃん可愛いから一緒にいたらバレちゃう」
「じゃあ今度仕事終わりに一緒にご飯食べようよ! 同伴でいいところ教えてもらったんだ!」
「うん、約束するよ」
そう伝えるとルルちゃんが「やった〜!」と床でうねうねと浮かれている間に私は風のごとくダッシュで更衣室を出た。あと何回目これを私は繰り返したらいいのだろう。裏口へと向かいスタッフルーム付近の廊下に差し掛かったところで私は足を止めて音を殺すと耳を澄ませた。
「今日も凄かったですね二人とも」
「でもアリスちゃん、本気出せばうちでナンバーワン取れるんだけどなぁ……」
「明日の予約こっちにまとめておいたので確認お願いします」
微かに聞こえるまばらな会話。ここに入ってからずっと帰り際聞いているが特にボロが出ていたことは無い。至って普通の業務的な会話。
やっぱりお客さんの中にいる可能性が高いかな…。
考え込みながらその場を去るとプライベート用のスマートフォンを取りだし降谷くんへ報告と得た情報を報告する。もちろん今日も成果はゼロ。いちいち同じ文を打つのも面倒になり、昨日送った文章をコピーペーストして送信した。
「さっむ…ッ!」
裏口のドアを開け店から出ると突然吹いてくる風にそうこぼすと歩きながら羽織っていたジャケットのボタンを留める。
晩夏の候はもうとっくに過ぎ、家の庭の葉もいつの間にか赤く染まっている。
もうすぐ季節が巡る頃、とにかくルルちゃんから逃げることと毎回この服を更衣室で着替えることのめんどくささでジャケットを羽織るだけの通勤スタイル。さすがにそこまで続くと暑さよりも寒さに弱い私からしたら耐えられる自信はない。
それまでに見つかるといいんだけどなぁ、と思いながらいつものように裏道へ周り、指定の道路脇へ寄ると向かい側から白のスポーツカーがやってくる。そう、あの降谷くんの愛車であるRX-7だ。
車内から開けられる助手席のドア、私はそれに流れるように乗り込むとRX-7と共に夜の街から姿を消した。
「今日は色々遅かったな」
「うん、今日集計日で止めてくれる人いなくてさ」
「見られてないだろうな?」
「大丈夫、撒いたし言い訳は通じてる。盗聴器も事前に確認した」
そう言いながらシートベルトを付け、ふぅ、と小さく息を吐きながらシートに背を預けた。
この潜入捜査が始まってから同じ時刻に定期的な連絡と同様に身元確認も踏まえて降谷くんは私に送迎をつけた。もし退勤後一時間以内に連絡が来なかったり指定の場合にいなかったりした時、その時は私の身に何かあったと判断すると解釈を作ったのだ。
「それに、相手はやっぱりお客さんっぽいかも。ここ一ヶ月スタッフルームを盗み聞きしてもボロがなかったし、営業許可証もあるし、……店長や黒服の人達ではないかもね」
「じゃあ客を重点的に見るか…」
「了解」
するとプライベート用のスマートフォンから数件の連絡が入る。送り主は言わずもがな、あのルルちゃんだ。
〝『アリスチャン! そういえば今日のアルマンドのレッド入れた黒い服の人、雰囲気超イケメンじゃなかった? あの金髪の!』〟
その連絡で私はあの時の物珍しいお客さんを思い出した。
「そういえば今日、初回でフリーなしで私を指名してきたお客さんがいました。普通は初回で女の子が交代で席に着くんです。それから好きな子を指名してっていう流れなんですけど、あの人……私を指名したあとすぐに高級シャンパンを入れたんです。タイプですか?って聞いたら『そんなところだな、』なんて言ってましたけど……」
「けど……?」
降谷くんがごもる私に聞き直す。
「あの人、チラチラルルちゃんをすごい見ていたんですよね。『もうひとり指しますか?』って聞いたら、いいや。また今度にするよって」
「容姿は?」
「長身で黒のスーツとキャスケット帽子、降谷くんより少し長めの金髪で、目元は髪で隠れて見えなかったですけど………ガタイはいい方でしたね。名前は…確か金子秀也という男性です」
「………まぁ、一応注意いておけ」
「はぁい」
目の前のボトルホルダーにあった未開封の水を指さして「飲んでいい?」と聞けば「いいよ」と柔らかな声で返ってくる。きっと生暖かな車内の暖房のせいなのかも。そう思いながら私はアルコール漬けになった舌に水を流し込んだ。
しばらく降谷くんと車内で仕事の話をした。
降谷くんは仕事で一週間迎えには来れないらしく、代わりに彼の右腕こと風見さんが指定の場所に迎えに来てくれると言っていた。
降谷くんも大変なんだなぁ。なんて思いながら高速道路から見える景色はこの前見た時よりも、昨日よりもすっかり真っ暗になっていた。明かりがついているのはどれも自宅と看板ばかりだ。
窓の外を見ながら憂鬱に浸っていると突然目の前が真っ暗になったと思えば、降谷くんが私の顔の上で手のひらを擦り付けるように目元から下へとまるで拭くように押し付けてくるので思わず「ぶわ…っ!?」と色気のない声がこぼれてしまう。
「変なこと考えるな」
変なことって、…失礼な。でも何も言えなかった。降谷くんの言っていることは間違っていなかったから。
私は降谷くんの手を取ると私に突然変なことをしてきたせいで手の平に付いてしまった自分の付けていた色付きリップを指でゴシゴシと拭うとフロントシートの上に押し付けた。
「それももうやめてね…………くせだったから」
「それは悪かった」
そしてしばらく、静かな沈黙が続いた。
BGMのない車内はRX-7のエンジン音が響いている。少し生暖かな車内、小刻みに揺れるシート、ひとりではないという、降谷くんはいるという安心感からか、ゆっくりと無意識に瞼が閉じていく。
まずい、寝そう。
そう言えば今日、いつもよりちょっとお酒飲み過ぎてたから――そのせいかもしれない。
ふわふわと浮遊し出す意識の中私は降谷くんに問いかけた。
「ねていい?」
すると降谷くんはまた柔らかな声で「いいよ」と答えた。
「やっぱ昨日絶対飲み過ぎた。絶対二日酔い」
「だ、大丈夫ですか? ビニール袋そこにありますよ…」
「大丈夫、ゲロの方じゃないから」
時刻はすでに翌日の昼、出勤時間前の車内。
口元を抑えながらそう呟く私に運転席の風見さんはオロオロと心配そうにそう言った。
昨日、あれから起きることも無く目が覚めたら自宅のベットで私は寝ていた。アラームもセットしておらず慌てて飛び起きてはお風呂に入って準備をした末路だ。
新宿区へ入ったところの新大久保駅付近を通ると私は再度風見さんと確認する。
「報告は降谷くんに、迎えの指定や緊急の連絡は風見さんへ送ればいいんですよね」
「はい、そう聞いています」
「分かった、とりあえず毎日頑張ってて偉いねって言ってもらってもいいですか?」
「え、…え?」
「ほら早く」
「ま、毎日頑張ってて偉いですね…?」
「ありがとう、今日はもうここでいいよ! 私頑張る‼」
「え⁉ あ、ちょっと!」
そう言って信号待ちをしていた風見さんの車から私は飛び出し、新宿方面へと向かった。
その次の日も、その次の日も、そして今日も。特に気になる人物も現れなければ情報も得られなかった。
結果、私は更衣室のロッカー前に頭を押し付け項垂れていた。お先真っ暗だ。でも仕事が終わって帰った後、毎日風見さんが『お疲れ様です』とか差し入れを買ってきてくれるのが唯一の私の動力になっている。だって降谷くんは言ってくれないんだもの。
「アリスチャン? 大丈夫? 最近元気ないね…」
後ろからいつものようにルルちゃんが声をかけて覗き込んでくるがあのルルちゃんが絡みついてこないのが何よりの証拠だ。彼女はああ見えても常識人だ。
「うん、最近ちょっとね…やっぱりお酒飲むし肝臓かな……私元々そんなに飲むタイプじゃなかったから……」
「じゃあ今日は早く帰りなよ。私が店長に言っとくし、アリスチャンの集計も私が確認するから! それに今度二日酔いしないいい点滴のクリニック教えてあげる!」
そう、こういうところがあるからアリスチャンはきっといろんな人から好かれるんだと思う。
「送ろうか?」と聞かれ「ううん、大丈夫だよ。ありがとう」と返すが裏口まで送ってくれると言う。いつも通りルルちゃんが腕を絡ませ廊下を歩いているとスタッフルームのドアの前に差し掛かる。
今日は仕方ない。それにスタッフである可能性は昨日も言った通りかなり低い。今後は他を厳重にあたってみよう。
二人でカツカツとヒールの音を響かせながら廊下を歩く。
「そう言えば、最近歌舞伎町にいるらしいな」
「ああ、俺も聞きました! 風の噂では連続殺人犯って噂ですよ……」
「怖いっすね~、うちにも実はいたりして」
「そう言えばルカちゃん最近怪我で休んでるじゃないですか。あれ、やられたらしいですよ」
あの今休み続きのルカちゃんが?
スタッフルームから聞こえてきたそんな会話に私達は思わず立ち止まった。わかには信じがたいその話は同じくルルちゃんも『まさか』と言った顔で私の方を振り返った。
「アリスチャン、聞いた今の?」
「うん、私体調不良って聞いてたけど…ルルちゃんは?」
「私も同じだよ、アサミちゃんには直接聞いてないけど噂でね」
小声でそうごにょごにょと話していると次の瞬間、チクリと首元に痛みが走った。
数秒してカランカランッと乾いた音が廊下に響く。
音のする方へ目線を向ければ廊下の床に落ちたのは二本の注射器。それを視界に入れたと同時に隣で腕を組んでいたルルちゃんがドサリと倒れ込んだ。
思考が追いつかない。よりによってこんな時になんで二日酔いなんだ――。
遠退いていく意識の中後ろを振り返るがすでにそこに犯人はいなかった。じわじわと広がる温かな感覚に私は耐え切れずその場に倒れ込んだ。
そして目が覚めた時、最初に映ったのは眉を下げてべそをかいているルルちゃんだった。
「アリスチャ~ン!! うわぁぁあ‼」
泣きながら抱き着いてくるルルちゃん。場所はいつも接客をしているホールのソファー。いつの間にかここまで運ばれていいたらしい。そばには店長と黒服の二人がいた。
「良かった! 気がついたんだね。廊下ですごい音がして様子を見に行ったら二人が廊下で倒れてて……それでそばにこれが…」
そう言って店長が見せて来たのはあの時見た二本の注射器。手の感覚や痺れもないからおそらく毒性のあるものではない。顔を近づけても変な匂いもしないし、おそらく即効性のある睡眠薬の可能性が高い。それに、詳しく調べてみないと、本当にこれを使って私達を眠らせたのかなんてまだわからない。
「でもとにかく、二人とも無事でよかった」
「一体誰がこんなことを……」
「多分ですけど、今、噂になっているやつじゃないですか?」
「アリスチャン…そ、それって………」
私の回答にルルちゃんの血の気が引いていくのが目に見えて分かった。
「今歌舞伎町で噂になってる犯人が、多分この店を出入りしてますよ」
その場にいた全員が私に言葉を聞いて凍り付いた。
生憎、この店は裏路地の廊下には防犯カメラは付いていない。外側から入るには暗証番号を入力して入らなければ裏口からは入れない。
この店は一階が従業員専用のスペースで二階が通常の来客スペース、三階がVIPルームとなっている。
暗証番号を把握していない人であれば表から潜入してくるはずだ。表から店内に入るなら防犯カメラに写っているはず。けど誰も姿を見ていないんじゃ意味がない。
「廊下通った時お話を聞いてしまったんですけど、多分ルカちゃんを襲った人ももしかしたら私達を襲った人と同一人物の可能性が高いですね。スタッフさん達が言っていた話は最近ニュースで歌舞伎町のキャバ嬢が強盗に襲われるニュース。その中で殺人は三件あったと思います。その連続殺人犯のことでしょう」
そして、その犯人はあの組織の人物が同一人物の可能性が高い。
目的は未だ皆無だが、たとえ同一人物だろうと同一人物じゃなかろうとどちらも人一人以上は手にかけている。
「………黒服さん、他になにか聞いてないですか? 身長とか性別とか」
問いかけると彼は頭を悩ませながら絞り出すような声でふつふつと喋り出した。
「え、えっと……確か背は結構大きかったって。…ルルちゃんよりは大きいと言っていました…!後でまた詳しくルカさんにも聞いてみます」
「うん、その方が的確だね。また明日全員に改めて話を聞きましょう。それに、ルルちゃんより高いとなると背丈はおそらく170㎝以上………。ひとまず、警察へ被害届の提出をしましょう。それと、このことが起こった時にいなかった人にいなかった170cm以上の人を店長はリスト化して警戒しておいてください。それに――もし手慣れだったまだどこかに潜んでるかもしれないから気を付けて。例えば………天井、とかね」
その言葉にルルちゃん「ひぃ…ッ‼」と小さな悲鳴を上げながら私にいつものように抱き着いてきた。
その後、店長は警察へと連絡、駆け付けた警察と話をした結果、現場捜査や事情聴取の為急遽店は今日と明日の二日間を臨時休業する形になった。
ことの大きさですっかり体調の悪さもすっ飛び、早めに早退する予定が気付けばいつもの退勤時間になっていた。退勤後、『怖い怖い‼ 今日は一緒に! 絶対一緒に帰るの…‼』と、いつもにも増して駄々をこねるルルちゃんに黒服の人t達や同僚の女の子達が説得をしたのは無理もない。
結果、ルルちゃんをタクシーまで送って今日の修羅場は切り抜けた。
そして最後の最後の事情聴取で明らかになったのは、ルルちゃんが微かに犯人を見たと言うこと。『なんですぐに言わなかったの…ッ⁉』と問いただせば泣きそうな顔で『怖くて言えなかったの…』とそう言った。そうだ、普通はそうなる。もしかしたらその場にまだ犯人がいればルルちゃんが犯人の姿を見たと言うことになり今度は確実にルルちゃんが狙われる。
私もそろそろ警察官としての職業病が出て来たかもしれない。
そんなことを思った最後、身をもって経験した進展に今日、降谷くんへの連絡の内容が長文と化したが彼から返信が帰ってくることはなかった。
風見さんへ連絡を入れていつもの裏道から車へと乗り込むと今日は少しやけに膨らんだコンビニ袋を覗けば二日酔いの飲み薬とドリンクが入っていた。
彼は、本当にあの降谷くんの部下なのだろうか――。
そしてその後、店長曰はく隅から隅まで店内を調べたり事情聴取を行ったが特に怪しい人物も物もなかったという。
そして翌々日、オープン前の店内では既に出勤していたルルちゃんが子供みたく店長に駄々を捏ねていた。
「今日はピンで指名取らない! 絶対やだぁ‼」
昨日のことがよっぽどトラウマになっているらしい。
店のナンバーワンキャバ嬢がいなくなってはこの店も困るだろう。証拠に店長は頭を抱えてルルちゃんのわがままに悩み頭を抱えていた。
「大丈夫だよ、ホールにいる時は皆いるし、前みたいになんかされる心配はないと思う」
横から口を挟めば、またも何やらごにょごにょと叫びながらギュッと抱きついてくるルルちゃん。よし、メンタルは問題なさそう。
「私、今日アリスチャンとペアでやる! アリスチャンももしかしたら狙われるかもしれないし!」
ルルrちゃんそういえば店長も口ごもった。
確かに。あの時、あの場にいたには私達だけ。
ただ昨日の取り調べで、ルルちゃんの言った『黒い服を着た人』という発言で彼女が一気に犯人から襲われる危険性が高まった。そしたら、もし私がそばにいれば犯人がまた顔を出すかも。それに、万が一の場合があれば…。
「そうだね、二人の命には代えられない。今日はそうしよう。その代わり、ちゃんと盛り上げるんだよ」
「りょーかいしました!」
ケロッと明るい声で敬礼をするルルちゃんを横に私は思わず苦笑いした。切り替えが早すぎる。そして言うまでもなく、問答無用でいつも通り私は真顔のままルルちゃんに連行されオープン前の準備をするべく更衣室へと向かった。
「ルルちゃんとアリスちゃんペア、リシャール三本目入りました〜!」
最初は店長も店のナンバーワンがペア指名しか取らないことに不満を抱えながら渋々送り出してはいたが、今では黒服さん達の背中をバンバンと叩くくらい上機嫌だ。
証拠に、私もルルちゃんもペア指名オンリーのはずが売上は今月一の盛り上がりを見せている。接客方法が正反対の私達、まるで太陽と月。最初は大丈夫かと私も思っていたが、どうやら余計な心配だったようだ。
「僕ずっとルルちゃん推しだったけど、アリスちゃんもいいねぇ~」
「ダメですよ、アリスちゃんはルルのイチオシなんですから!」
それにそのおかげか、今までルルちゃんを本指名していた人達が、これをきっかけに目移りしたお客様も少なくない。売り上げを競うキャバクラでは間違いなく一足即発の状態になりかねないが、お客様から匂わせられても私と同様あまりしつこくない態度からあまり順位は気にしていない様子だった。
そしてあの一件のこともあってか、今日は何故かお客様を二人で囲むのではなく、お客様、私、ルルちゃんと言った並びに位置が固定してあり、ルルちゃんは常に私を挟んでお客様と会話をしている。それに指名客がチェックを済ませるまで、私の手をギュッと握って離さななかった。
一時間後、いつも通り指名客を二人揃って見送ればすぐさままたペア指名が入る。恐るべきナンバーワンの力。ルルちゃんはひとりで毎日これをこなしているのかと思うと気が引ける。休んでいる暇なんてこれっぽっちもない。
今まで偏見であんまりいい目では見ていなかったけど、これも立派な仕事なんだと実感する。
そんなことを思いながら、ペア指名のあった席へ二人で向かう。そこにはあの時、初回フリーなしの本指名で私にリシャールを入れたあの男性、金子秀也さんがいた。
「アリスちゃん本命の子?」
「うん、前に来てくれたお客様。いつかペア指名するって言ってくれましたもんね。今日ちょうど二人ともペア指名しか取ってないんです。タイミングいいですね…!」
「それは良かった」
秀也さんの隣へと座り、初めましてのルルちゃんは名刺を差し出し終わると案の定私を挟んでルルちゃんもソファーへと腰を下ろした。
「二人とも随分仲がいいんだな」
「うん、当たり前だよ…! 私アリスちゃん大好きだし!」
そう発せられたルルちゃんの声色は明るいが、腕を絡めて私の太ももに置かれた手の平がかすかに力んだ気がした。
「何か飲まれますか?」
「そうだな、じゃあ…前と同じものを二人に」
「ルルもいいんですか‼ ありがとうございます~!」
ルルちゃんが黒服さんを呼べば、この前見た光景と同じ景色が広がりシャンパンの蓋を開ける音が店内に響いた。
私が一杯のシャンパンを飲み終わる間、ルルちゃんは躊躇なく何杯ものシャンパンを流し込み、気づけば一本空になっていた。
この前体調を崩したことをきっかけに、私があまりアルコールが好きではないと知ったルルちゃん。ペアともあってお客様に私があまり飲んでないとバレないよう、こっそりボトルを空にしていってくれている。
「君は無理して飲まなくていいぞ、そばにいてくれれば」
「はは…、すいません。でも飲めなくはないので」
シャンパングラスを唇に当てて傾けると同時にうなじにスッと指の腹が触れ感覚に一瞬ビクッと肩が上がる。素肌の肩に男の手が回ろうとした瞬間、パシンッ!っと、乾いた音が私の耳元で響いた。
「店内では女の子に触れることは禁止ですよ」
「なるほど、それはしらなかった」
「ご、ごめんなさい! ルルちゃん、わ、私のこと好きすぎて嫉妬深いんです! それに、前の騒動のトラウマでちょっと…、本当にすいません。本当はいい子なんです!」
「大丈夫だ、気にしないでくれ」
思いもよらない出来事に慌ててフォローを入れると特に気にすることもなく秀也さんは乾いた笑みを漏らした。
ルルちゃんの顔が今までに見たことないくらい険しい顔で秀也さんを睨んでいる。…いいや、もしかしたらもう彼女にとってこの人は、もうお客様ではないのかもしれない。
でもどうして? どうしてそこまで? ここで頭に過ったのは、あの時の警察沙汰になった騒動だった。
ルルちゃんはあの時、微かではあるけど犯人の姿を見ている。そして秀也さんは初回フリーなしで私を指名し名していたのにも関わらず、ひそかにルルちゃんを目で追っていたこと。
…あのルルちゃんのピリピリとした態度。何か、ある。多分ルルちゃんの中で、何かの違和感にこの男が引っ掛かっているんだ。
私の太ももに手を置いていたルルちゃんの力が収まる気配がないのは、おそらくこれに違いない。私はその手の上に自身の手の平を重ねて握りしめた。
「確か、この前は結構すぐ帰りましたけど、何か用事でもあったんですか?」
「ああ…仕事でね」
「大変そう……何の仕事なんですか?」
雰囲気を崩さず、相手の情報を引き出していく。
確かに怪しい、でも怪しいだけで根拠を証拠もなにもない。何か決定的な手掛かりでもなきゃ、まだ犯人候補には上げられない。
「秀也さんは、なにか得意なこととかってあったりするんですか?」
男は顎に手を添えて「そうだな…」と呟くと口を開いた。
「……………ダーツ、とか」
その言葉を聞いた途端、密着していたルルちゃんの身体がビクッと小さく震えた。しかしすぐに横目で見ればルルちゃんはいつものにこやかな笑顔に戻りシャンパンを仰いでいる。まるで何かをかき消すかのように。
「へぇ~、ダーツですか。 …実は、私も得意ですよ。射的とか」
「そうなのか?」
「ええ、中の上くらいです」
「それはなかなかだな、今度是非手合わせしたいところだよ」
―ーダーツ。
もし本当にうまいのであれば、異国の遠距離仕様の注射針銃で仕留めれば一発でアウトだ。それに、もし腕のいい闇金の殺し屋でもしたら夜の街の店内に忍び込んで背後から何もなかったかのように気絶させるなんてさぞ簡単に違いない。
ここは信頼と平和で作り上げられた国、日本だ。銃規制のない海外とは違う。
何となく、何となく、分かる。この男、何か怪しい。でも、この人はお店の人ではなく客。それも最近の。
生憎まだ注射器の成分鑑定の結果は出ていない。それに落ちていたのは押し出し式の注射器。ダミーかダミーではないかも、それも鑑定結果が出ないと分からない。考えれば考えるほど矛盾は広がる一方で一つになる気配がない。
何か、何か私は見逃している。
もっと、一番重要なことを―ー。
すると耳元でルルちゃんが小さく耳打ちをする。
「このひと、やばい」
分かってる。分かってる。でも、足りない。まだ。
「ルルちゃん、飲みすぎちゃったみたいで……席を外しても?」
「ああ、構わないよ」
私は秀也さんにそう伝えると同じくルルちゃんに耳打ちをする。
「大丈夫。私が何とかする」
私は黒服さんを呼び留めるとルルちゃんの背中を押して席から外させた。
「最近、物騒で結構精神的に問い詰められてる女の子多いんです」
「それは気の毒だな。確か、無差別に気絶させられたそうだな」
そしてわたしは、たまたま落ちて来た欠片を私は不意に拾い上げた。
―ーなぜ、彼は、気絶していたことを知っているの?
「……騒動に八合った人達全員には、その犯人を刺激しないように厳重に口止めをしています。お客のあなたがどうしてそれをしっているんですか? それも、まだ2回目のあなたが…」
でも、ボロを出したようには思えない。この店に盗聴器はない。私が全部調べたんだから間違いない。
男はまるで元々知っていましたと言い張っているようなそんな感じ。でも、これは事実だ。
「それとも、この店にいる誰か(仲間)から聞いたんですか…?」
踏み入った質問に秀也さんは少しだけ顎を突き出し目線を上げた。
この時、初めてちゃんと秀也さんと視線を交わした気がした。皮肉にも綺麗だと思ってしまったそのグリーンアイ。日本人…? ではなさそうだった。
一瞬視線を交わすとすぐに秀也さんはかぶっていたキャスケット帽のつばを目深に引いた。
それが、答えだと。
私は確信した。
「チェックおねがいします」
私は彼の断りもなく会計を呼ぶ。秀也さんは私を無言でただ見つめるだけで止めようとも文句を言おうともしなかった。そんなことよりも、秀也さんはまるでこの状態を楽しんでいるかのように口元に笑みを浮かべていた。
特に反抗するようなそぶりを見せることなく会計を済ませると、店長に「私が見送ります」と断りを入れて彼をエレベーターの出入り口へと二人で向かう。
その間も、男は何食わぬ顔で歩いていた。
「……あなたは、何者なの?」
エントランスまで響いて来るBGMと盛り上がる声を背に私は歩みを止めると、そのまま止まった私に気に留めることもなくエレベーターのボタンを押した秀也さんに問いかけた。
男がゆっくりと振り返る。
エントランスの廊下の照明で先ほどのように目元は見えず影かかかっていた。代わりに彼の口だけがはっきりと動いた。
「周りの人間に気を付けろ、公安の犬。ただ、周りを見すぎるというのも、一つの穴だぞ」
「…ッ!? 待って‼ 何でそれを…‼」
血の気が引いていく。
なんで、なんでわたしが公安だとバレてる。
到着したエレベーターに秀也さんは乗り込むと締まっていくエレベーターのドアへ駆けるが間に合わずに扉は閉じてしまい下の階へと下っていく。
ヒールをその場に脱ぎ捨てて非常階段から階段を降り、ビルから出で周りを見渡すが、いつものようにネオン色の街並みが並んでいるだけですでにその人はいなかった。
そこはすでに夜の街と化しており、私の気も知らぬまま夜は彼を飲み込んだのだ。
そして閉店後、週末のホールミーティングがあるにも関わらず私達は、控室で戯れていた。
「アリスちゃ~ん……」
…というよりもいつものルルちゃんのウザ絡みで抜け出せなくなって見放されただけである。
ルルちゃんが項垂れてパイプ椅子に座っている私に抱き着いて離れようとしないので私は諦めてされれうがままにされている。
あの秀也さんが帰った後、控室に戻ると待機していたはずのルルちゃんがいなくなっておりスタッフルームに顔を出せば、すでに店長に秀也さんの話を泣きながらするルルちゃんの姿があった。
そしてこの密告によって今後金子秀也と言う男は店から出禁となった。それでもどこか消えることのない違和感に胸騒ぎを覚えながらもいつもみたくルルちゃんを慰める。
「大丈夫、あの人はもう来ないから」
そう言えば私の首元に顔を埋めてごにょごにょ話しているが何を言っているのかさっぱり分からない。
泣き崩れているルルちゃんを慰めながら時間を潰しているとミーティングが終わったのかぞろぞろと皆が帰って来た。
私とルルちゃんの絡みを見ながらまたやってるよ〜と呆れながら笑っている。
「アリスチャン今日も迎え?」
「うん、そうなんだ。ごめんね? また店長に送ってもらお。少なくとも犯人が捕まるまでは…」
「アリスさん」
すると後ろから声を掛けられる。大人っぽい声。
振り返れば騒動の前、ちょうど入ってきた海外からの留学生である、地毛の金髪が綺麗なルカちゃんだった。
「ルカちゃん…? あれ、怪我で休んでたんじゃ…」
「怪我…? ああ、実は仮病なの! 皆には内緒にしといてね…?」
そう言って人差し指を口に添えるルカちゃん。
「本当は明日から復帰だけど、集計の仕方が変わったって聞いて念のため確認に。店長があなたに聞いてほしい欲しいと言われて」
「ああ、分かりました! あ…、でもついさっき終わったばっかりで…」
「そうですよね、私もそんな感じしてました。じゃあ、明日聞いても?」
「そうですね、メモ帳とかあったら便利かもしれないです」
「分かりました、では明日宜しくお願いします」
ルカちゃんは軽く会釈をすると更衣室を出て行った。
綺麗なお姉さんだなぁなんて思いながら時間を確認すると、時刻は既に深夜二時を回っていた。
まずい、帰らないと。
今日風見さんが降谷くんとすれ違いで仕事へ向かうらしく、時間が指定されていたことをすっかり忘れていた。
「ごめん、私この後用があって行かないとなんだ。店長には私が伝えとくから、帰るまでルルちゃんはここで休んでて?」
ルルちゃんの肩をつかみながらそう念を押し、慌ててロッカーからジャケットとバック、飲みかけの水の入ったペットボトルを持ち出すと私は店を後にした。
外へと出れば、いつの間にか雨が降っていた。雨のせいもあってか辺りは冷たく霧がかかっている。生憎傘は持っていないので自身のジャケットで雨避けをしながらしていつもの指定の場所へと歩き出す。
夜道はは街の灯りと、街灯ががかすかに照らしている。
雨が落ちる音に紛れて、私のヒールの音に紛れて、バシャンと別のなにかの音が聞こえた気がした。
歩みは止めずに、少しだけ早く歩いてみる。
雑音に紛れながら静かにバチャッと水溜りを踏む音が響く。
……誰かに付けられている。
私はすぐにメールで風見さんへ場所の変更を指示しをする。
〝何者かに後を付けられています。今日はひとまず一旦タクシーで米花町まで行くので、米花駅で待っていて下さい。巻いて行きます。〟
そのまま送信したことを確認しスマートフォンの電源を切るとハンドバックへ押し込んで、まっすぐ先の道歩く。
一直線へと突き抜けて角を曲がると、十字路の交差点にこんな時間にもかかわらず反対車線に一台の車が止まっている。
霧と暗さであまりよく見えないが、タイヤのホイールキャップからして警視庁の車ではないことはすぐに分かった。それに一般的には珍しタイプのデザイン。
私は横目でその車を追いながら歩いていると今度は後ろからカツカツと凄まじい音でこちらに迫って来るのが聞こえた。
「アリスチャン‼」
振り返れば傘もカバンも持たずに雨の中駆けて来たルルちゃんがいた。
そのままスピードをゆるめることなく迫ってくるとそのまま流れるように私の腕を掴んで引っ張った。
「走って‼」
まるでなにかから逃げるように手を引かれて深夜の歌舞伎町を走り出す。
「どうしたの⁉ 店で何かあったの?」
「さっき、控室の外から見えたの! アリスチャンの後を追ってる人! だから私追ってきて」
「それ、容姿は? さっきの、出禁の人じゃない?」
「違う、違う人だった…! 」
走りながら短く会話をする。
不確かな情報が行き来する中、ひとまず私達はその場から離れる為に雨の中一緒に夜の歌舞伎町を走り抜けた。
「……一旦、ここで、休憩…しよう…」
「こ、ここまでくれば、今のところ大丈夫だよね」
「はぁ…………アリスチャン……お水ください…」
数分後、走った先で見かけた廃倉庫に私達は周りがいないことを確認して駆け込んだ。
息を切らすルルちゃん。
ルルちゃんはあくまで一般人、体力の差が違う。それにお互い仕事用の衣装であるピンヒールで駆けて来たんだ。さすがに体力もいつもより消耗するし、足も痛くなる。
私はカバンからペットボトルを取り出すとルルちゃんに差し出した。
「びちょびちょになっちゃったね」
「うん、もうぐっしょり…」
スカートの裾を絞り水分をコンクリートへと落とし濡れ切った髪に手櫛を通す。
「アリスチャンも飲んだ方がいいよ。私が口付けちゃったけど」
「そうだね、全然大丈夫。ありがとう。」
ルルちゃんが数口飲んで帰って来たペットボトルの蓋を開け、再び開けて3口ほど口に含む。
久しぶりに走ったせいか、水が喉を潤していく感覚で先ほどのどっと来た疲労がまるで解けていくように生き返る。
靴擦れで足元がヒリヒリと痛む。近くにあったドラム缶に手を付いてひとまず靴を脱ぎ捨てようと思い、その場に屈み込み靴のリボンとベルトを解く。
…………ガチャリッ
この国では、聞き捨てならない音と、感覚が後頭部に押し付けられた。
「そのまま、動かないで。…アリスチャン。………………いいえ、宮下修造の……………………娘さん?」
いつもの高らかな声とは裏腹にしっとりとした色のある声に変わる。
「…………破廉恥ですね。まさか胸に、そんな物騒なモノを隠し持っていたなんて」
「あら、あなたも柔らかくていい胸よ」
「それはどうも」
そう冷たく言い放って私は手を上げてゆっくりと立ち上がると解いたピンヒールをその場に乱暴に足で放り投げた。
振り返ると床に黒髪の長髪のカツラを放り投げる。ブロンドにエメラルドグリーンの瞳と真っ赤な口紅が映える女性。
犯罪者にしてはもったいない綺麗な顔をしていた。
「凄い変装術………全くわからなかった」
「得意分野なのよ」
女は私に向けていた銃を1度自分の手元に引き寄せるとどこから取り出したサイレンサーを銃にはめ込み再び銃口を私に突き出しセーフティーを外した。
「最初はあなたを追うつもりはなかったの。あの店にいたのも別の件。でもたまたまあなたがひょっこり顔を出すものだからびっくりしたわ。………あの方に話したら、案の定すぐに目的は変更したわ。ルルと言う架空の人物も、あの騒動も全て私の自作自演。全てはあなたの目を欺く為のね。ただ、少し計画外のことが起こるものだから、予定を早めて決行したってわけよ」
女はそう淡々と口を並べた。
お互いの周りにポタポタと雨水が水たまりを作っていく。
「なら、そこまでして私を捕らえたのは何が目的なんですかね」
「あら、それはあなたが1番分かってるくせに」
その言葉に私は目を細めた。
「あなたなら良く知ってるはずよ」
「さあ、………なんのことだか」
私はズリ下がった肩紐を上げ、邪魔くさい胸下の解けたリボンも頬り投げる。
「周りが知ったら驚くでしょうねぇ……………まさか、あなたの父親が――」
途端、私はドレスの空いた胸下から素早く取りだした拳銃の銃口を女に突きつけてトリガーを引いた。瞬時に狙いを定めた銃弾は女の頬ギリギリを通過して擦り傷を付ける。
「あなたの話を聞いて分かった。あなたは私を殺す気はない。見せかけだけの脅しは私には…………通用しないよ?」
「いやらしい、あなたも変わらないじゃない」
「まさか。私が隠していたのは胸の下。コルセットで胸を上げてカサマシした中に入れてただけ。…………正直バレるかと思ってヒヤヒヤしたけど、きっとアレも調べていたんでしょう? まぁコルセットのおかげでバレなかったみたいですけど」
「この国では銃を持つことは禁じられているはずよ、それともお得意のお手製かしら?」
「本物よ。それに、銃を持っていても罪にならない役職があるでしょう?」
その言葉に女はフッと笑みを浮かべた。
「それは私の失態だったわね、でも、もう。…………手遅れよ。さぁ、答えてもらおうかしら」
私はその言葉に眉を顰めた。
……………手遅れ?
しかしその言葉の意味を私はすぐに実感することになる。
グラリと、視界が歪み足元がもたつく。
…………全身に力が入らない。一度でも目を閉じたら持って行かれそうになる意識。
これ、あの時と同じ感覚。いつだ、一体いつやられたんだ。
数秒後、私はハッとしたように口元を手で覆った。
「ペットボトル………っ」
「ご名答。ちなみにあの時、私は飲んでなんかいないわよ。ただ口元に隠し入れていたカプセルを溶かしただけ。どうやらあなたからルルという架空の女は相当信頼されていたようね……ありがたいくらいに」
まるで煽るように、今この状況を楽しんでいるかのような表情で私を見下ろす。そんな間にもお互いを濡らしていた雨水が途切れる気配はない。
そう、私は水を飲ませるために、この人気の少ない廃倉庫へ行くために走らされていたのだ。
グラグラともたついていると持っていた拳銃に女の蹴りが入り拳銃は音を立てて自身から遠くへと転がっていく。
立つこともままならなくなり、抗うことの出来ぬままそのまま壁に手を付きながらズルズルその場へ崩れ落ちコンクリートに膝を着いた。
瞼を閉じたら終わりだ。もう一生ここへは戻って来れない。この女の元へ連れ去られて、ありとあらゆる情報を吐くまで生き地獄だ。
迫り来る睡魔と揺れる視界の気持ち悪さに耐えながら顔を顰めて俯き短く息を繰り返す。
「そして溶かしたのは、この前よりも即効性のある少し弱めの睡眠薬と……………自白剤」
それを聞いた途端、唯一の逃げ道を塞がれた気分だった。
ああ、まずい。
脳内が、身体中が危険信号をあげている。
「さあ、答えなさい。設計図と説明書の場所はどこ? あなたが持っているの? それともお家かしら? あの人が探しているの」
私の目の前でしゃがみこむと女は先程とは打って変わってまるで子供をあやす様に頭を撫でながら喋り出す。
〝「お父さん、これ……」〟
〝「見なくていい、これは見ては行けない」〟
〝 「危ない?」〟
〝「……そうだね。でももし、その時が来たら……」〟
そう、それは誰にも言ってはいけない秘密。誰も知らないはずの秘密。なのになんでこの女が…。
まるで身体が勝手に、脳が勝手に動きだす感覚に私の身体はゆっくりと従い始める。
「ちーー。」
そう私が口を開きかけた途端、またその場に銃声が響いた。
女の持っていた拳銃が宙を舞っていたのが微かな街灯の明かりで分かった。
……誰?
少しだけ目線を上げると、あの女と私以外にもう一人人の影がある。
「そこまでよ…‼ 両手を上げて跪きなさい‼」
この声ーー。
「ルカちゃん………?」
女に拳銃を構えて立っていたのはあの怪我で休んでいたというルカちゃんだった。その手に持っているのは拳銃だ。
どういうこと、一体どういう状況なの。
「ベルモット、あなたなんのつもり」
「そのままよ、ずっと消息をたっていた宮下修造の娘を見つけたから作戦を変更したまで」
ベルモットと呼ばれた女は立ち上がりルカちゃんに銃口を向けた。一足即発の状態が続く。
すると廃倉庫の天窓からキラリと反射光が映った。黒光りした細い何か。この状態で考えられることは一つしかない。このベルモットとか言う女、ひとりじゃない。
「ルカちゃん後ろ‼」
それは咄嗟に声を上げたのと同時だった。ひと回り大きな銃声が廃倉庫にこだました。
音を聞くに、やはり狙撃銃。やられた。やってしまった。自分の負債なさのせいで犠牲者が。
しかし、振り返ったルカちゃんは呆然と立ち尽くしたまま。血も落ちてない。一体何が起こったのか、ここにいた全員の思考が止まった。そしてコンクリートに転がった破損した二発の銃弾によって全員がその意味を理解した。
「うまく上手く巻いたと思ったんだけど、失敗だったみたいね」
出入口に立っていたのは金髪のキャスケット帽をかぶったあの男。
〝「周りの人間に気を付けろ、公安の犬。ただ、周りを見すぎるというのも、一つの穴だぞ」〟
あの男………。
「キャンティ! コルン!」
ベルモットがそう叫ぶと再び銃声が響く。その間に物影へ隠れ体制を整える。
目の前で突然起きたこの状況に困惑しながら、頭を抑え込んだ。
日本での拳銃規制は他のどの国よりも厳しいはずなのに、一体この国はどうなっている。それにルカちゃんとあの男、グルだった?……それに彼らは一体何者? …待って、もし彼らが、あの秘密を知っていたら?
逃げないと――。
その判断に至るのに長い時間はかからなかった。
銃撃戦が広がる中、私が咄嗟に握ったのは逃げ込んだドラム缶の物影にあったベルモットのサイレンサー付きの拳銃。
舐めてもらっては困る。だって私は、私はただの警察でも刑事でもない。
あの警視庁公安部〝ゼロ〟の直々の推薦を受けた駒。簡単に朽ちてしまっては彼の名が汚れる。
「伏せて!!」
すると突然ルカちゃんの声と大きな銃声が廃倉庫に響いく。
それを合図に息を止め、それを自身の腕に擦れる程度の位置に合わせてトリガーを引いた。
「……ッ‼」
衝撃が走る。しかしそのおかげで意識がはっきり浮上してくるのが分かる。今この場で一番不利なのは私だ。私は迷わず逃げる道を選んだ。
先ほどの銃を口にくわえ、再び始まる銃撃戦の合図とともに私は物影から裸足で飛び出した。
「コルン‼」
ベルモットの叫ぶ声が聞こえる。
先ほどよりも近くでガチンッとスナイパーライフルが当たる音が聞こえた。
自分に当たったかも。でも痛みはない。それに今、そんなことを気にしている余裕なんてそうそうなかった。
廃倉庫の裏口から飛び出して走った。
まだ雨は降っており、バックもすべて置いてきてしまったが、誰かからつけられていると感じた時から念のため位置情報を共有する為ケータイだけは下着に忍ばせて肌身離さず持っていた。
風見さんへ応援の要請をするべく脇に手を入れて下着からスマートフォンを取り出すと、違和感に気が付いた。一か所に集中しているようにヒビの入ったスマートフォン。おそらくあの時の銃弾。
もしあの時、私が下着に忍ばせていなかったら……。
考えるだけでぞっとした。しかし位置情報も、連絡すべて途絶えてしまったが自分の命と引き換えと思えば安いものだ。これほど派手に壊れていればデータも破損し、雨水でもう手遅れだ。
また降谷くんに怒られちゃうな。そんなことを思い名がら私はスマートフォンを草むらへと頬り投げて歌舞伎町へと道を戻り、交番を目指す。
見つからないよう裏道を通り名がら雨の降る夜道を走った。
裸足で飛び出してきたせいで足も痛いし、それに何より寒い。手足が段々とかじかんで力が入らなくなる。
早くしないと、先に私の方が限界が来る。
拳銃を咥えていた口元から短く息を繰り返す。お店を出た直後には見えなかった自分の白い息がさらに焦燥感を奮い立たせた。
裏道から顔だけを出して周りを確認する。大通りへ繋がる橋。人はいない。街灯だけが辺りを照らしていた。
するとガチン…ッ‼と歯に衝撃が走る。思わず口元に加えてあった拳銃を話し、口元を押さえながらも裏道へと再び身を引いた。
雨音だけが響く夜道に、物騒な銃声と無機質な音が響いた。
いる。近くに狙撃手が―――。
ドクドクと脈が速くなる。雨音に紛れ、微かに革靴の音がした。
「そこにいるんだろ? アリス」
女の声がした。カチャリと、リロードする音を聞くにさっき裏道から顔を出した際に狙撃した狙撃手だ。
「おとなしくしてれば、痛い目は合わないよ」
段々と近づいて来る声と足音。
……違う。もう一人、もう一人いる。
息を殺しながら一歩身を引いて振り返った途端、ドンと胸元に勢いよく押し付けられたのは黒い塊。
ゆっくりと、目線を上げる。
下から黒の革靴、黒に身を覆いハットからは銀の長髪が伸びている。
自分に嫌気がさした。
何が警察、刑事、公安。今やただ彼らの足手まといの被害者だ。
ノンキャリアで階級を上がって来た罰が今になって裏目に出たと言っても過言ではない。だって私は他の周りの人とは違って数ヶ月前はただの整備士だったんだから。
周りは警視庁に名を残し、実績を残しあがって来た凄腕の幹部だらけ、私の入る隙なんてなかった。私が唯一その隙間を埋めれるのはただがむしゃらにこの国のために働くしかなかった。
その結果がこれか。情けない。
降谷くんが知ったらなんて言うか。想像は疾うに出来ている。
ならいっそ、顔も性別も、誰かも分からなくなるくらい、ぐちゃぐちゃにして殺してくれ。
そうしないと―――。
この手の震えが、もはや暑さのせいか、恐怖かも分からなくなってくる。
「今から、俺の指示に従え。」
「…………従わなかったら?」
「返事は〝はい〟か〝いいえ〟だ。それ以外は口にするな」
男はその深緑の眼を私に向けながら耳に残るような低い声でそう言った。
………ああ、この人は確実に殺る。他人の生死なんて、どうでもいい。今まで何の感情も持たず、尊い命を、その引き金ひとつで奪ってきた、本物の殺人鬼だ。
すると男の胸ポケットから出てきたのは、見覚えのある一本の注射器。
―――反射的だった。
ごめん降谷くん………ッ!。
吐くくらいだったら、死んでも構わないと。そう思ってしまった。
私は男の指示を無視しすぐ後ろへと駆けだし裏道を抜けた。
「キャンティ‼」
低い声が響いた。
行先は、橋ではない。
橋とは反対の左の方向へ飛び出した私はすぐ近くで待機していた女へ組み付いた。
近づいて来る足音で狙撃手が近くにいると分かった。スナイパーライフルなら至近距離での争いは圧倒的に不利。予想とは裏腹に己に向かって仕掛けて来た狙撃手の女は驚いた様子で舌打ちをし構えるが、時すでに遅い。女の持っていたスナイパーライフルを蹴り飛ばすと腕を取り女は抵抗する暇もなく呆気なく濡れたコンクリートへ背を付けた。
その隙にスナイパーライフルを手に取り裏道の出入り口へと構えるとそこから出て来た男の腹部に一発打ち込んだ。初めて打ったスナイパーライフル、拳銃とは重さが違い反動で一瞬よろめいたがすぐに立て直し、近くにあった倉庫の屋根へスナイパーライフルを放り投げて背を押さえ蹲る狙撃手の女と腹部を押さえ跪く男の横を突っ走った。
道端に転がった、持ち出したベルモットとかいう女のサイレンサー付きの銃を拾い上げて橋を渡る。
拾い上げた拳銃に目をやるとスナイパーライフルで銃口がへこんでいる。もう拳銃の意味を持たない黒い塊に私は舌打ちをし、橋を渡り終えた後、土手の横を通る際に川へと放り投げた。
すると背後で、銃声がした。それに反射的に私も振り返る。……気味が悪く、血の気が引いたのが分かった。
橋の上で、腹部を撃ったはずの男が笑みを浮かべながらで私に銃口を向けていた。
防護服なんてせこすぎる一一一。
そう思っていたのもつかの間、自然と、なぜか走っていた足が止まった。
そのまま倒れ込み、傾斜だったせいでそのまま土手を転がり落ちる。
いたい、痛い。
こんなにも寒いのに、熱い。
ゆっくりと上半身を起こし、無意味にも人目に付かない近くの橋の下へと移動した。
壁に背を預け、左肩の二の腕をまるで痛みを逃すかのように力強く掴んでは顔を顰めた。明らかに感じる体の異常、ジンジンと脈打つほどの熱を持った肩へと目線を向ければそこは真っ赤に染まっていた。
もう何もかもが追い付けていない。どこまで深くやられたかも、そんなこと把握するほどの冷静さはもう今の私にはなかった。
かじかんだ手足に血だらけの左肩に腕、短く息を吐く口元から目の前に広がる白い息と耳障りな川の音と雨が地面を叩く音と………………………………砂利を踏む革靴の音。
俯く視界に現れた黒の革靴、すると片方の足を私の太ももへ置くと地べたに転がった砂利が食い込むほどに体重をかける。まるで尻尾でも踏みつけもう逃がすまいと言うかのように。
そしてしばらくして男はその場にゆっくりと屈むと私の口元をその手で顔ごと鷲掴んだ。
口の中に抵抗の言葉がごもると先ほどよりも強く壁へと押さえつけられ、目の前に出された注射器が抵抗のすえなく血だらけの二の腕へと針が刺された。
口元が解放したのは、液体…おそらく自白剤がすべて投与し終わった後だった。
「私に生き地獄を味わえと?」
ニヒルな笑みを浮かべると、代わりに男の銃口が腹部へと力強く押し付けられ思わず顔を歪ませた。
「恨むんなら、この哀れな運命を生み出した親を怨むんだな」
男はそう吐き捨てた。
「あの設計図は、家か?」
その質問に、深緑の瞳に映る自分を見つめながらはくはくと微かに開く口。朦朧とする意識、己の理性と自白剤の戦いが行きかう中、私は絶えなく口を開いた。
「…ち…ちが………」
「〝はい〟か〝いいえ〟だ。答えろ」
悪魔のささやきのような低い声がまるで脳に直接語り掛けるような感覚に私は答えを出した。
「…い……いいえ…、」
「別のところか」
「…………いい、え……」
その答えにの笑みが消えた。
「…端的に答えろ、どこにある。もしくはもう存在していないか、」
「……ある、あり、ます………だ、いじな…ものだから………、だって………、まさか、人をころす為だけに作られた………」
「どこにある‼」
男の怒鳴り声が橋の下で反響する。
「……ッ、」
憎たらしい、この殺人鬼の目も、そこに映った血だらけの私も――。
無意識に男の頬のそばに自分の手があるのが分かった。ダメだ。絶対に、たとえ死んでも、私は言うわけにはいかない。
グッと、その手の平に力を力んだ。
ぺちんっ――。
小さな音が響いた。
その音と同時に男の顔がやられるがまま横を向く。そして私の腕は力なく落ちる。
男が再び私に視線を向けた瞬間、その目は何の感情も抱いてはいなかった。
「タイムリミットだ」
一発の銃声が、体の中で響いた。
「……ッ‼」
余りの痛さに、座っていられる余裕もなった。痛みでうずくまり、顔を顰め、ただ指先に広がる温かさを受け入れるしかなかった。
息を吐きながら、薄く目を開けるともうそこにあの男は居なかった。代わりにまた、橋の上で銃声がした。
車の走る音が聞こえる。
まさか、殺さなかった? あの男が?
「おい、大丈夫か!」
少し離れから、あの金髪の男の声がした。
砂利の音が近くなった頃、ゆっくりと目を開ける。しかし 目の前にいたのはあの金髪の男ではなかった。
ニット帽を被った黒髪の男がそこにはいた。いつの間にか血だらけになった私の腕を掴み腹部を険しい目で見てる。
「………だ…れ」
微かな声を出したとき、男は私に視線を向けた。
「俺達はFBIだ。安心しろ、君を傷つけるようなことはしない」
「…な、ん…………」
「もう喋らなくていい、止血をするぞ。少し痛むが我慢しろ」
なんでFBIがこの国に――。
そんなこと聞く暇も余裕もなく、再び激しい腹部の痛みに私は呻き声を上げ、その腕を掴んで爪を立てた。
絞り出すような声でいたい、痛いと口をこぼし、激痛に耐えながら目じりに涙を溜めた。
まるで痛みを逃すかのようにギリギリと男の手首に爪を立て何度も男の手を払うような抵抗に男は「君が死んではこちらも困るんでね」と今度は自身の上着を脱いで腹部へ当てると再び圧迫止血を始め力が入るたびに激痛に襲われる繰り返しだった。
「シュウ‼」
するとルカちゃんの声と同時に土手を滑り落ちる音が聞こえた。
そうか、彼がFBIということはルカちゃんも自然とFBIと言うことになる。
まさかFBIの彼女も潜入していたなんて―――。
「今、救急車を呼んだわ。それより容体は?」
「肩と腕は比較的軽傷だ。腹は今止血している、問題ない。それよりジョディ、上着を貸してくれないか。指先が震えている」
問題なくねーよ。なんてそんなツッコミを入れているとルカちゃん……否、ジョディと呼ばれたFBIの女が上着を脱ぐと横たわっている私に優しくかけると今度は男の手を掴んでいた手を取りぎゅっと握りしめた。
「すごく冷たいわね……大丈夫よ。すぐ救急車が来るから」
エメラルドグリーンの眼が私を力強く見つめていた。
〝絶対に助ける〟
そう言われた気がした。
悪い人達では、……………なさそうかも。
そう思いながらゆっくりと目を閉じて息を吐くと、ドンッと脈が弾み全身の血が熱くなるような感覚にハッと目を見開いた。
遠くから救急車のサイレンが聞こえ始めるとジョディさんが走って土手を上がっていく。
異様に辺りが静かになり、そしてうるさくなるのが分かった。
雨の音も救急車のサイレンも、川の音も聞こえない。段々と聞こえてくるのは大きくなっていく自身の心音。落ち着いてきた呼吸が、再び口から短い息が続く。ハッ、ハッ、と声が出始めた時男がその異変に気が付いた。
「おい、どうした…………おい!」
落ち着いてきたはずの容体の急変に男が顔色を変えた。
男の質問に答えられないまま、私はただ荒い呼吸を繰り返すだけ。すると男が何かを察したかのように腹部から手を離すと止血に使用していた自身のジャケットを退かした。
穴の開いたドレスから指を入れて傷口が見えるように服を避けばそこから見えるのは鮮血と弾痕の後と―――。
「昔、同じところに傷を?」
その弾痕と重なった過去のある傷跡だった。
それもあの銀髪の男は、まるで知っていたかのようにそこにピンポイントに拳銃を押し当てていた。それで私はあの時確信した。
五年前、私の父と母を殺したのはおそらくあの男、もしくはその囲いの仲間であり、なおかつ父と顔見知りである人物。
「……い、一年、前、………こ、高速、道路で、しらないひと、に……、」
そして約一年前、バイクで高速道路を走っていた時どこから飛んできた銃弾がバイクの前輪と腹部を直撃した。時速80㎞のバイクから前輪がパンクした勢いに任せ横転し、後ろに付いていた大型のトラックが迫っていたのに気が付き、とっさの判断で痛みに耐えながら慌てて頭部を覆っていたフルフェイスのヘルメットを脱ぎトラックの下へと身を屈めた。
私の身体の厚さよりひと回り大きなフルへイスのヘルメットは急ブレーキに間に合わなかったトラックとコンクリートの間に挟まり、倒れていたバイクを巻き込んで火花を散らしながら数十メートル先へで止まったのをトラックの下で見たのを最後に、再び目を開けた場所は近くの病院だった。
的確に前輪と腹部を捕らえ打ったことから後に計画的な犯行であると分かったが犯人は防犯カメラやろライブレコーダーを確認しても映ってはおらずお蔵入りになった。
朦朧とする意識の中で途切れ途切れにそう応える。
「撃たれたのか⁉ 同じ場所を……ッ!」
視界もだんだん白くなっていく。男が顔色を変えて再び圧迫止血を始めるが気づけばその手もジャケットも血だらけだ。圧迫して止血はできても、血が固まらず止血が出来ず血が止まらなくなっていた。
「おい! しっかりしろ! クソッ……‼ ジョディ‼ ―――、―――!」
何も、聞こえなくなってくる。さっきまであんなにも痛かったのに、何も感じない。
焦った様子のFBIの男の顔を最後に私は意識を手放した。
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HappyENDも書いて欲しいです🥺
続きってありますか…?