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リビングのテーブルの上に置かれたスマートフォンが、微かに震えた。
画面の光が暗い部屋に青白く浮かび上がるが、ソファに深く体を預けた佐野勇斗は、それに手を伸ばそうともしなかった。
ただぼんやりと、テレビの画面で流れているバラエティ番組のテロップを目で追っている。
「 ……ねえ、お風呂、先に入ってきてもいい? 」
ダイニングの隅、パソコンの画面と向き合っていた仁人が、遠慮がちな声を落とした。
その問いかけに、勇斗は数テンポ遅れて「 ん、いいよ 」と生返事を返す。
それ以上の会話は生まれない。
仁人は静かに椅子を引いて立ち上がり、足音を忍ばせるようにして浴室へと消えていった。
ガチャン、とドアが閉まる音がして、すぐにシャワーの給湯音が低く響き始める。
その音を聞きながら、勇斗は大きく息を吐き出した。
吐き出した息は、なぜだかひどく冷たく感じられた。
ふたりの付き合いが始まってから、もう数年の月日が流れている。
お互いの仕事が忙しくなり、自然とこの部屋で同棲を始めてからも、気づけばそれなりの時間が経っていた。
相手の脱ぎ散らかした服の癖も、コーヒーの好みのミルクの量も、眠るときにどちら側を向くかも、すべて知り尽くしているはずだった。
それなのに、最近のふたりの間には、目に見えない分厚いガラスの壁があるような気がしてならない。
触れ合おうと思えば、いつでも手を伸ばせる距離にいる。
同じ屋根の下で暮らし、同じ布団で眠り、同じ食卓を囲んでいる。
なのに、心の距離だけが音もなく離れていくのを、勇斗は最近ずっと感じていた。
原因が何なのかは、頭では分かっているつもりだった。
外ではいつも明るく、ムードメーカーとして振る舞い、周囲の期待に応えようと必死でアクセルを踏み続けている。
その反動なのか、家に戻ってきた瞬間に、勇斗の心はバッテリーが切れた玩具のように動かなくなってしまうのだ。
仁人が差し伸べてくれる優しさや、何気ない気遣いさえも、今の余裕のない勇斗にとっては、どこか重荷のように感じられてしまうことがあった。
『 疲れてるんだから、ほっといてくれよ 』
そんな冷たい言葉を飲み込んでは、代わりに無愛想な態度で仁人を遠ざける。
頭の片隅では「 そんな言い方はないだろう 」「 また傷つけたかもしれない 」と激しい後悔が渦巻くのに、一度こじれてしまったプライドと気恥ずかしさが邪魔をして、素直に謝ることもできない。
( 俺、最近どうしちまったんだろうな…… )
ソファの背もたれに頭を預け、勇斗は天井の染められた壁を見つめた。
仁人は何も言わない。
文句も言わず、ただ静かに勇斗の不機嫌を受け止め、少し離れた場所から見守っている。
その優しさに甘えきっている自分への嫌悪感と、どうしていいか分からない焦燥感が、胸の奥でドロドロとした澱のように溜まっていた。
しばらくして、浴室のシャワーの音がピタリと止まった。
ほどなくしてドアが開き、濡れた髪をタオルで軽く押さえた仁人がリビングに戻ってくる。
白っぽいゆったりとした部屋着に身を包んだ仁人は、濡れた前髪の隙間から、ちらりとソファの上の勇斗を見た。
「 ……お風呂、空いたよ。入ってきたら? 」
「 ……うん。後でする 」
「 そっか。冷えちゃうから、あんまり遅くならないうちにね 」
それ以上は何も言わず、仁人は自分のマグカップを手に取ると、そのまま寝室の方へ歩いていってしまった。
背中を追いかけることもせず、勇斗はただ、テーブルの上で冷めていく白湯の入ったコップを見つめる。
優しさが、痛かった。
怒鳴られた方がまだマシだと思えるほどに、仁人のその穏やかで、どこか諦めを含んだような気遣いが、今の勇斗の胸を抉った。
部屋の隅に置かれた置時計の秒針が、カチ、カチ、と乾いた音を立てて時を刻んでいく。
外ではいつの間にか冷たい雨が降り始めたのか、窓ガラスを叩くパラパラという音が微かに聞こえていた。
翌日も、そのまた次の日も、ふたりの間の空気が温まることはなかった。
むしろ、お互いに「 これ以上踏み込んだら壊れてしまう 」という予感のようなものが共有されていて、会話の数は日を追うごとに減っていった。
朝、キッチンですれ違うときは、お互いに「 おはよう 」の後に続く言葉を探すように沈黙が落ちる。
どちらかが話し始めれば、どこかで感情が爆発して、修復不可能な亀裂が入ってしまうのではないかという怯えが、ふたりの足元を縛り付けていた。
仕事の現場でも、それは影を落とした。
「 佐野くん、最近ちょっと疲れてる? 」
マネージャーからそう声をかけられたとき、勇斗は「 いや、全然元気っすよ! 」といつもの調子で笑ってみせたが、その笑顔がひきつっている自覚はあった。
バラエティの収録中、共演者のボケに大笑いしながらも、頭の片隅にはずっと、昨夜の冷え切ったリビングの光景がこびりついて離れない。
帰りの車の中でも、マネージャーからの世間話に適当な相槌を打ちながら、勇斗は窓の外の夜景を眺めていた。
( 俺たちは、どうしてこうなっちゃったんだろう )
出会った頃の鮮やかな記憶や、一緒に笑い合っていた日々が、まるで遠い昔の出来事のように色褪せて見える。
好きだという気持ちが消えたわけではない。
むしろ、誰よりも大切な存在であることは間違いなかった。
なのに、大切にすればするほど、不器用さが邪魔をして相手を傷つけてしまう。
このままでは、いつか本当に取り返しのつかないことになってしまうのではないかという、漠然とした恐怖が勇斗の喉元を締め付けた。
車がマンションの駐車場に滑り込み、エンジンが切られる。
「 お疲れ、佐野くん。明日も早いからゆっくり休んでね 」
「 はい、お疲れ様です。ありがとうございます 」
車を降りて、冷たい夜風の中を歩き、自分の部屋の扉を開ける。
鍵を開けて中に入ると、そこにはいつもの静寂が広がっていた。
リビングの明かりは小さく落とされていて、テーブルの上には、仁人が残していったのか、ノートパソコンが閉じられたままポツンと置かれている。
「 ……ただいま 」
誰もいない空間に向けて小さく呟いた声は、誰にも届くことなく、ただ部屋の空気に溶けて消えていった。
寝室を覗くと、仁人はすでにベッドに入っているようで、背中を向けたまま規則正しい寝息を立てているように見えた。
( 寝てる、よな…… )
起こしてはいけないと思い、勇斗は足音を立てないようにリビングのソファへ戻り、コートを脱いで放り投げた。
胸の奥に澱のように溜まったモヤモヤは、何日経っても晴れることはなく、むしろ日増しに重さを増していく。
___このとき、勇斗はまだ知らなかった。
ベッドの中で眠っているふりをしていた仁人が、布団の中でどれほど激しく唇を噛み締め、一人で音のない涙を流しているということを。
そして、その痛みに気づかないまま、ふたりの時間はゆっくりと、しかし確実に崩壊の夜へと向かっているということを。