左肩の傷の痛みで目が覚めると、谷の中腹の立木に引っ掛かっていた。身体を起こし無事を確認する。擦り傷と打撲程度、また怪我が増えてしまった。しかし俺はどれ程の間、気を失っていたのか……
猫を熊にして甚振《いたぶ》り玩弄《がんろう》した結果、猫で殺され掛け、熊にも殺され掛けた。
(全く笑えん、忸怩《じくじ》たる思いだ…… )
森の中の気配は随分《ずいぶん》静寂《せいじゃく》さを取り戻し喧《かまびす》しさも消え去り、先程の戦慄《せんりつ》を帯びた森が嘘のようだ。俺は身体を労《いたわ》りながら小さな谷を下って行くと、幸運なことに河川敷《かせんじき》に出た。
安心感からか一息をつくと、一掬《いっきく》の水で嗽《うがい》をし喉を潤《うるお》した。澄んだ川の水で傷口を洗うと、腰に下げた葡萄酒《ワイン》が入った水革《水筒》で肩口の傷を消毒する。
「くはっ」
すると多年草《たねんそう》であるアキレア草が目に映る。寂然《ひっそり》と、淡いピンク色の小さな花を咲かせ、鋸《のこぎり》の様な形状の葉を精一杯広げ、陽の光を浴びていた。
⦅これはな、兵士の傷薬って言われてるんだぜ⦆
誰かの言葉が頭を過《よぎ》る……。
「すまんな世話になる」
俺は葉を分けて貰い、手で軽く揉むと傷口に刷《す》り込んだ。アキレア草(別名ヤロウ草)キク科に属するこの可愛い草花は、薬草と分類されており、古昔《いにしえ》からその薬効は止血や防炎症作用があるとされていた。葉を充《あ》てがい手拭きで肩口を縛る……
「よし、これで何とか凌《しの》げる」
(其《そ》の内《うち》に出血も止まるだろう)
斜陽《しゃよう》は時間の経過を示し、長い間気を失っていた事を教えてくれた。前日から気の休まる時が無かった所為《せい》で、ここにきて疲れがどっと出てしまったようだ。腹を蹴り上げられた鳩尾《みぞおち》にはまだ痕《あと》が残っている。
空を見上げ昨夜の襲撃の事を考える。
(彼奴等《あいつら》は何の迷いも無く確実に俺を狙って現れた。何故?もしかしたら記憶を失う前の俺と何か関係が? )
―――老師は何者かに精神を触《ふ》れられたと言っていたが……
(何者とは何なのか…… )
アリアを襲った記憶は間違い無く彼奴等だった。しかし思い出せたのはそこ迄の事実のみ。その後に何かあったのであれば、恐らくそれが禍根《かこん》なのだろう…… 凡《あら》ゆる可能性を考える。
(神か…… )
―――俺が激しく拒絶反応を示した言葉、それを意味するのは……
すると小川の少し上流の方で話し声が聞こえる。エマか?いや、エマは声を出せない、別人だ。
(こんな危険な森の中で人が? )
鬼丸がカタカタ騒ぐ―――――
何だ―――――⁉
俺はゆっくりと上流に歩を進め、頭の中でもう一度、老人の言葉を反芻《はんすう》する。
⦅鬼丸鳴くは、その者この世成らざる者の証⦆
(どうやら人ではないらしい…… 魔狼以外って事か? )
―――この森は一体……
茂みの中から声のする方へ鳴《な》りを潜《ひそ》め瞠目《どうもく》する。それは矢張《やは》りと言うべきか、人、其《そ》の物《もの》の姿では無かった。短い毛足は艶やかな鉄黒《てつぐろ》のベールを纏い深淵《しんえん》の様に深い毛並をした黒豹《くろひょう》だった。体躯《たいく》は通常の熊より幾何《いくばく》か小さく顕著《けんちょ》に見て取れる。しかし其《そ》れだけであれば、希少な野生動物と出会《でくわ》したと云うだけで事は済む。
そう―――――
そいつが呟々《ぶつぶつ》とまるで人間の様に独り言を呟《つぶや》いていなければ…… それは俺に取ってまさに驚きに満ちた邂逅《かいこう》だった。
『ちくしょーまったくヒドイめにあったもんだぜ、なんだったんだあれ? いきなりバクハツしやがって、毛がコゲちまったじゃねーか』
ぺろぺろとピンク色の舌を出し、身体を綺麗に舐めている。大股を開き今にも引っ繰り返りそうな体制で下腹部を舐める姿に恐怖は無く、寧《むし》ろ愛らしさを感じる。
(まるででかい猫だな…… )
―――今、猫は鬼門《きもん》なんだが……
『しかしみーんなニゲちまったな、またヒトゾクたちがセンソウでもはじめやがったのかもなー、でもさっきのアレはきっとヒトゾクじゃねーな、キのウエをあんなにはやくイドウなんてできねーもんな、やばいヤツにはみつからないようにしなきゃな』
でかい猫は股座《またぐら》に顔を突っ込んで一生懸命に何処《どこ》ぞをぺろぺろしながら呟く。見た目は威風堂々《いふうどうどう》たるや流石に黒豹である。しかしながら股座に顔を突っ込む姿には高潔無比《こうけつむひ》とは御世辞《おせじ》にも言い難い。
(そんな所ぺろぺろしたら駄目だぞ…… )
独り言を盗み聞きする内に、不思議とその亀毛兎角《きもうとかく》な存在の、天真爛漫《てんしんらんまん》な穉気《ちき》っぽさと愛敬者《あいきょうもの》の滑稽《こっけい》な姿に俺は興味を抑えきれなくなっていた。
『はぁ、ニゲまわってたらハラがへったなー、くわなきゃならないなんてフベンなカラダだぜまったく、でもウマイモノってこっちのセカイにはタクサンあるんだな、すこしメンドウだけどたべるってすごいな』
「鹿の干し肉なら沢山あるぞ」
俺は咄嗟に声に出してしまっていた……
(あっ! しまった…… )
ヒッ―――――!!
黒豹は吃驚《きっきょう》し大股を開いたまま胡乱《うろん》な者を見る眼差しで俺を凝視《みつ》める。
そりゃあそうなる…… 強《あながち》ち間違いじゃ無い、正しい反応だ。俺は敵意の無い事を示す為、神色自若《しんしょくじじゃく》に相好《そうごう》を崩し声色《こわいろ》を柔《にこ》やかに話しかける。
「あぁ俺は怪しい者じゃないんだ、腹が減ってるんだろ、ほらこれ旨いぞ」
腰袋から鹿の干し肉を取り出しゆっくりと微笑みながら近づく……
『ままま――――― マジン―――――!! 』
ギャアと黒豹が騒ぎ飛び跳ね後ずさる。
「ん? 魔人? 何を言ってるんだ俺は人間だぞ? 其れよりもほら、これ食えよ」
『ななな、ナンでこんなトコロにマジンなんかが、オレみたいなガキをくらってもウマクくないぞ、まだうまれてニヒャクネンだし』
腰が抜けたのか、ぺたんと尻を着き、坐《いなが》らガクガクと震えだす……
「ほぉ、まだ二百年か凄いな、じゃあ俺はもっとガキだな、まだ二十年しか経ってないからな」
『に、ニジュウネンでマジンかよ、ありえねえ…… そうか⁉ あんたキゾクだったのか、ドウリでコシにそんなバケモノをシタガエテるわけだ』
俺はカタカタと騒ぐ鬼丸に目を落とし手を添える。
ヒッ―――――!!
『まて、たっ、たのむミノガシテしてくれよ、ワルいコトなんてナニもしちゃいないんだ、タダぽかぽかしてたからケズクロイしてただけで』
黒豹の過剰な反応に楽しくなり、俺は此処で不図《ふと》考えを改め方針《ほうしん》を変えてみた。まぁ一種の悪戯心《いたずらごころ》、俺の悪い癖だ。戯《たわむ》れに少し凄《すご》んでみる。
「この俺様が食い物を恵んでやると言ってるのにその態度は何だ!! お前俺が誰だか分かってるんだろうな!! 」
刀を抜く素振りを見せる……
『ギャアだめだ!! そんなヤツおこしちゃダメだーヤメテくれーくわれちゃうよー』
(ん? 起こす⁉ そうか、若《も》しかしたら解ったかもしれん)
スゥっと刀を半刀抜き止める。しかし魔狼との闘いの時の様な禍々《まがまが》しい妖気は纏っていない。成程と頷き、今度は……
「起きろ―――――鬼丸!! 」
次の瞬間!! 妖刀は往《い》にし方《へ》の血の誓約《せいやく》に呼応《こおう》し脈動する。刀の鞘《さや》から猛烈な啻《ただ》ならぬ妖気が飛び出し一瞬にして森を揺らし始めた。(思った通りだ)
『あひゃぁあばばばば』
でかい猫が天を仰ぎバタンと倒れると股間を濡らす……
すると老人の言葉が脳裏に浮かんだ。
⦅刀を抜いたら最後、慈悲《じひ》を懸《か》けるな。慈悲を垂《た》たれば仇《あだ》する事もある。刀を抜くとはそう言う事じゃ⦆
「むっ⁉ ちょっと悪戯が過ぎたな…… 」
俺は慌てて刀を鞘に納め黒豹に問い掛けた。
「おい、そんなに怖がるな、危害は加えない。その代わりお前の知っている事を教えてくれないか? 」
『へっ? オ、オレなんかがマジンサマにおしえるコトなんて…… 』
「さっきも言ったが俺も生まれたばかりなんだ、だから少しばかりご教授願おうと思ってな、嫌か? 」
語尾を強めて鬼面人《きめんひと》を嚇《おど》す。
『はっ!! はいぃオレでよければよろこんで』
「ははは、そう緊張しないでくれ、先ずは小川で股間を綺麗に洗ったらどうだ? 」
『うううごめんなさい』
余程怖かったのか、うっかり漏らした自分が情けなくなったのか、大粒の涙をぽろぽろと零《こぼ》し、めそめそと縮《ちぢ》こまる。
(ぷッこいつ可愛いな。きっとエマのお気に入りになるんじゃないか? しかしコイツは何なんだろうな、獣だから魔獣っていうヤツなのか? )
『うう、ちべたいよぉ』
俺は幼子《おさなご》をあやす様に、少し喟《ためいき》を付いて鹿の干し肉を与える。
「ほら、洗い終わったらこれでも食べて少し落ち着け。」
『はひぃ』
異形《いぎょう》の者との邂逅《かいこう》は、運命の悪戯か馴《な》れ初《そ》めか、行《ゆ》き摩《ず》りに反目《はんもく》すれど蛇に噛まれて朽《く》ち縄《なわ》に怖《お》じる。敵か味方か惑わされ、彼を知り己を知れば百戦殆《あやう》からず。小川はそよそよと戻らぬ時を刻み、四季を越え、また後《のち》の時代を育《はぐく》んでいった。
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