「私が神だろうと、モノノケだろうと関係ありません。私は、絶対に典晶を振り向かせます。だから、もう少し時間を下さい」
驚いたようにイナリを見る。イナリは真剣な表情で両親と向かい合っていた。典晶は、視線を逸らさなければ話ができなかったというのに。イナリを見ていると、自分がとても卑怯で矮小に思えてくる。実際にそうなのだろうが、こうしてイナリといるとそれを切実に感じる。
(俺がイナリと結婚したくないのには、俺がイナリより劣っているから。自分じゃ釣り合わないと思っているんだ……)
心の何処かで、典晶はイナリを信用できていない。今でこそイナリは典晶を好きだと言ってくれているが、時間が経てば、平凡過ぎる典晶を飽きるに違いない。全ての面において自分よりも劣る典晶に、愛想を尽かせるに決まっている。イナリの胸の内にある熱い恋心も冷める。そうなれば、典晶は捨てられるだけだ。それが怖いのだ。一人になってしまうのが怖いのだ。
「イナリちゃん。君は良い子だ」
典成が目を細める。
「私は良い娘を持ったわ。宇迦にも連絡を入れておかないとね」
「はい、ですから、部屋は典晶と同じ部屋で大丈夫。私のパーフェクトボディですぐに墜として見せますから!」
イナリは典晶の肩に頭を乗せてくる。
「おい! 結局そこに帰結するのかよ! 『おとす』って字もなんか怖そうに感じるし!」
強引にイナリを引きはがす。
「まあ、別の部屋はあるけど……まだ掃除していないから。今日は一緒に寝なさい」
「ちょっ、母さん……!」
話はここまでとばかりに、歌蝶は立ち上がると台所へと消えた。残った典成を典晶は恨めしそうに睨み付ける。
「典晶、スキンはいるか?」
「いらねーつってんだよ!」
「お父様、私は生で結構です」
「イナリ! お前もお前だ!」
小さな一軒家に典晶の絶叫が響き渡った。その声に驚いたのか、近くにいた蛍がパッと空に舞った。
翌朝、典晶は目を擦りながら高校へ向かった。
結局、典晶はイナリと共に一夜を過ごした。と、そんな艶っぽいことは言っても、典晶とイナリは二つの布団を並べて敷き、別々に寝た。
「うう~、眠い……」
典晶は明け方近くまで眠れなかった。
隣で眠るイナリの呼吸、寝返り、そう言ったものが典晶の妄想を激しく搔き立てた。イナリを見ると、彼女は起きている時からは想像もつかないほど、あどけない表情で眠っていた。
長襦袢姿で眠るイナリ。開け放たれた窓から吹き込む涼しい風、降り注ぐ清清とした月光。そこには芸術品のように完成された美があった。イナリにだけ焦点を当てれば、少し乱れた胸元に、僅かに開いた唇。しっとりと汗ばんでいる額と首筋、そこに張り付く数本の髪。それらは、これまで典晶が見た事が無いほど艶美だった。
「………拷問だ」
呟いて見たが、やはり視線はイナリに釘付けだった。頭に過ぎるのは卑猥な妄想だけ。手を伸ばせば、イナリのふくよかな胸にも唇にも手が届く。もし典晶が手を出したとしても、イナリは笑って受け入れてくれる。それが、余計典晶を苦しめた。
一人元気な下半身を何とか押さえようとしても、中々収まるものではない。結局、典晶は明け方まで悶々としており、白み始めた空を見ながら眠りについたのだ。
二時間ほどの短い睡眠から覚醒した典晶の隣に、イナリの姿は無かった。布団はキチンと畳まれており、身につけていた長襦袢も洗濯して物干し竿に干されていた。
両親に聞いても、イナリの行き先は分からないという。結局、今朝はイナリの姿を見ずにそのまま学校に来てしまった。心配じゃ無いと言えば嘘になるが、携帯を持っていないイナリと連絡を取る手段はない。人の姿が珍しく、その辺りを散策しているのかも知れない。心配しなくとも、そのうちひょっこり姿を現すだろう。
学校が近づくにつれ、一車線の細い道に天安川高校の生徒があふれ出す。典晶も人の流れに乗り、ダラダラと高校へ向かっていた。その時、勢いよく背中を叩かれた。
「オハヨ! 典晶!」
美穂子だった。
「おう、美穂子」
軽く咳き込みながら、典晶は美穂子に挨拶を返す。昨日は少し元気が無かったようだが、今は平気なようだ。
「いや~、昨日は大変だったよ。なんだか、凄く疲れちゃって、典晶の電話を切ってすぐに寝ちゃった。次に目が覚めたら、朝なんだもん」
「そりゃ、随分と寝たな。……大丈夫なのか? 調子が悪いところは無いか?」
「特にはないんだよね。ただ、昨日は少し気分が悪かったけど」
「そうか……」
「私よりも、理亜ちゃんの方が心配よ」
美穂子は小さな溜息をつきながら、眉間に皺を寄せた。
「そんなに危険な状況だったのか?」
「実際には、幽霊を見ただけなんだけど、まあ、幽霊を見ること自体、異常と言えば異常なんだけどさ……」
美穂子は言葉を濁す。
「誰も、私たちの事を信じてくれないのよね。特に先生達はさ。私たちに、この事を公にしないようにとか言うし」
「普通の人は、幽霊なんていないと思うし、学校としてもそういう騒ぎは困るんだろうな。実際、俺も数日前までは、幽霊や神様はテレビや小説の中だけだと思ってたし」
「文也から聞いたけど、本当に自分の出自を知らなかったのね。私も、典晶の事を知らなかったら、自分がおかしいんじゃないかって思うもの」
そのとき、道行く生徒の群れが二手に分かれた。見ると、歩道の真ん中に達立ち止まっている女子生徒がいた。
「理亜ちゃん?」
ぼんやりと佇むお下げの女子生徒の後ろ姿を見て、美穂子が駆け寄る。
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