テラーノベル
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Chanceは、テーブルに並んだチップを指先で軽く転がした。
硬質な音。規則正しい照明。計算され尽くした静寂。
――完璧だ。完璧すぎる。
ディーラーの手元に、迷いは一切ない。カードの配り方も、シャッフルの癖も、視線の動きも、どこを切り取っても教科書通りだった。
だが、問題はそこじゃない。
勝てない。
Chanceは自分の手札を伏せたまま、内心で舌打ちする。負けが続くこと自体は珍しくない。運は波だ。上がることも、下がることもある。だがこのカジノでは、負け方が異様だった。
――勝ち筋が、最初から用意されていないようだった。
確率は噛み合っているはずなのに、最後の一枚だけが必ず裏切る。読みは当たっている。流れも見えている。
それでも、結果だけが意志を持ったように反転する。
フェドラのつばを指で押さえ、Chanceはゆっくりとフロアを見渡した。
視線の先、少し高くなった場所に、黒いスーツの男が立っている。
目が合った。
男は、まるで最初からそこにいることを知っていたかのように、静かに微笑んだ。
その視線が、外れない。
見られている、ではない。
――捕まえられている。
「……コール」
指先がわずかに震えた。それは恐怖ではなく、極限の昂ぶりだ。
少し高い場所から自分を射抜く男の視線。その黒い瞳が、Chanceの血管を流れる「博打打ちの血」を沸騰させる。男の視線は、もはや観察ではない。獲物の喉元に牙を立てる前の、静かな悦びに満ちていた。その視線に触れられているだけで、思考が麻痺し、勝機のない札に全財産を注ぎ込みたくなる。
――負ける。それが分かっていてなお、この男の目の前で無様に散ってやりたいという、破滅的な誘惑がChanceを支配していた。
結果は、当然のように負けだった。
テーブルの周囲がざわめく。ディーラーが淡々とチップを回収する。
Chanceは立ち上がり、軽く肩をすくめた。
「全く、今日はツイてない」
独り言のつもりだった。
だが、返事は背後から来た。
「追いかけすぎると、運は逃げる」
低く、落ち着いた声。振り返れば、息が触れる距離だった。
あの黒いスーツの男が立っている。
フロアの喧騒から、わずかに切り離された場所。
「忠告のつもりか?」
Chanceがそう言うと、男は肩をすくめた。
「ただの観察だ。お前は、勝ちにいくときほど賭けを重ねる」
――見られている。
賭け方も、癖も、焦りの兆しも。
「二兎を追う者は一兎をも得ず、という言葉がある」
男は、まるで独り言のように続けた。
「欲張ると、どちらも逃げる。運も、勝ちもな」
その言葉に、Chanceは眉をひそめる。
「……説教なら、他を当たれ」
「違う」
男は静かに否定し、腕の中へと視線を落とした。
そこで初めて、Chanceは気づく。
白いウサギがいた。
黒一色の世界に、ありえないほどの白。
銃声や金の匂いが染みついた場所に、あまりにも無防備な生き物。
「……ペットか?」
「ああ」
男は短く答え、ウサギの背を撫でた。
指先の動きは慣れていて、支配的なのに、雑ではない。
ウサギは逃げない。ただ、身を委ねている。
「こいつは賢い」
男はそう言って、顔を上げた。
「二兎を追わない。逃げ場も知っている。だから――生き残る」
その視線が、ウサギからChanceへと移る。まるで、問いかけるように。
Chanceは、なぜか喉の奥が詰まるのを感じた。
「お前の賭け方は嫌いじゃない。だが、ここは相手が悪い」
男は穏やかに笑う。その笑みの奥に、冷たい確信があった。
「このカジノの責任者だ。――Mafiosoと呼ばれている」
その瞬間、フロアの音が一段階、遠のいた。
帰ろう。
今すぐ、この場所を出るべきだ。
そう思ったのに、足は動かなかった。
その夜、Chanceは負け続けた。理屈も、直感も、すべて無視するかのように。
チップが尽き、現金が尽き、最後に残ったのは――書類一枚と、サイン用のペン。
テーブルの上に置かれたそれは、血も汗も吸っていない顔をしている。だが、そこに書かれた数字だけが、現実だった。
Chanceは黙って目を走らせる。
桁を一つ、二つ、数えて――呼吸を止めた。
「……冗談だろ」
「いいや」
Mafiosoは即答した。声に一切の遊びがない。
「今日の負け分だ。利息はまだ乗せていない」
まだ、という言葉が、妙に重い。
「返せる額じゃねえ」
Chanceがそう言うと、Mafiosoは小さく笑った。
「最初から、そうだ」
机の端で、ウサギが身じろぎする。
檻の中。だが、怯えた様子はない。
「選択肢は三つだ」
Mafiosoは指を一本立てた。
「一つ。警察沙汰になる」
二本目。
「二つ。闇金に回る。――まあ、長くは保たないが」
そして、三本目。
「三つ。俺が管理する」
Chanceは鼻で笑った。
「……管理?」
「お前は、二兎を追いすぎた」
Mafiosoは静かに言う。
「勝ちも、運も、自由も。全部だ」
彼は立ち上がり、檻の前まで歩いた。
扉を開け、ウサギを抱き上げる。
「こいつは違う」
ウサギは大人しく腕の中に収まる。
「一つしか選ばない。だから生き残る」
ペンが差し出される。書類の最後、署名欄だけが、ぽっかりと空いている。
「逃げたら?」
Chanceは、試すように言った。
「逃げてもいい」
だが、その声は否定していた。
「だがその場合、命の保証はない」
ウサギが、小さく鼻を鳴らす。
Chanceは視線を落とした。
檻の中。守られているが、選択肢はない。
――どっちがマシだ?
ペンを取る。インクが紙に染み込む音が、やけに大きく響いた。
サインを書き終えた瞬間、Mafiosoは満足そうに頷いた。
「賢い選択だ」
そう言いながら、Mafiosoの口元は、わずかに緩んでいた。
「一兎を選んだつもりか?」
Mafiosoは微笑んだ。
「いいや」
その声は、やけに優しかった。
「お前は今、檻を選んだ」
車は、無言のまま都心を抜けた。Chanceは後部座席に座り、窓の外を眺めているふりをしていたが、景色はほとんど頭に入ってこなかった。
逃げようと思えば、チャンスはあった。
信号待ち、交差点、渋滞。
だが、思考がそこに辿り着く前に、いつも同じ結論に行き当たる。
――逃げて、どうする?
行き先も、金も、味方もない。
そして何より、この男は、すでにその先まで読んでいる。
「着いたぞ」
Mafiosoの声で、現実に引き戻される。
車が止まったのは、高層マンションの地下だった。セキュリティゲート、監視カメラ、無駄に広いエントランス。檻にしては、随分と金をかけている。
エレベーターで最上階まで上がり、指紋認証の扉が開く。中は静かで、生活感は皆無だった。
「今日からここがお前の部屋だ」
そう言って案内されたのは、寝室の一つだった。キングサイズのベッド、清潔なシーツ、窓からの夜景。
「……随分、待遇がいいな」
言葉を返さずに、Mafiosoは机の上にスマートフォンを一台置いた。
「外部とは繋がらない。だが、必要な連絡は取れる」
次に、カードキー。
「この階からは出られない」
最後に、鍵の音。
「徹底してるな」
「逃げるな、とは言っていない」
Mafiosoは淡々と返す。
「だが、お前が選んだのはここだ」
部屋の隅、ガラス張りのスペースに、檻があった。中には、あの白いウサギ。
Chanceの視線に気付いたのか、Mafiosoは檻を開け、ウサギを抱き上げた。
「こいつの世話も、任せる」
「……俺が?」
「嫌か?」
Chanceは少し考え、肩をすくめた。
「いや。ここでの賭けよりはマシだ」
ウサギがChanceの腕の中に渡される。一瞬身を強張らせたが、逃げようとはしなかった。
夜が深まり、灯りが落とされる。
Chanceはベッドに腰を下ろし、ウサギを膝に乗せた。
「なあ」
呼びかけると、ウサギは小さく鼻を鳴らす。
「お前はさ……ここにいて、幸せか?」
答えはない。
だが、ウサギは逃げなかった。
慣れないベッドに横になりながら、先程のMafiosoとの会話を思い出す。
『明日から、お前は働くことになる』
『借金返済か?』
『そうだ』
扉が閉まる直前、Mafiosoは振り返った。
『一つだけ、覚えておけ』
Chanceは顔を上げる。
『二兎を追うな』
その視線は、鋭く、確信に満ちていた。
『お前はもう、選んだ。だから次は――逃げるな』
鍵の音がして、完全な静寂が落ちる。
天井は高く、部屋は広い。
それでも、息が詰まる。
檻だ。
なのに、不思議と恐怖はなかった。
「……最悪だ」
そう呟き、Chanceは目を閉じた。
思考の隅で、コインが裏返る音がした。俺の人生は、常にコインの表だった。際どい橋を渡り、薄氷を踏み抜きそうになっても、最後には必ず「運」が味方した。それが俺の才能であり、生きる指針だった。
だが今夜、あの男――Mafiosoの前で、コインは裏しか出なかった。
まるで世界の理の改変だ。あの男の重力圏内では、俺の「運」は息絶える。
博打打ちとしての死刑宣告。なのに、どうしてだろうか。
胸元のウサギの体温が、ひどく心地いい。
『もう、賭けなくていい』
脳裏に浮かんだその言葉に、Chanceは戦慄した。選択の余地がないということは、選択に迷う必要もないということだ。張り詰めていた神経が、強制的に休止させられていく。
それは屈辱的なはずなのに、泥のように甘い、安息の誘惑だった。
意識が闇に落ちる直前、Chanceは無意識にウサギを強く抱きしめていた。
……ああ、そうか。お前も、この毒にやられたのか。
目が覚めたとき、最初に感じたのは、完璧に管理された静寂だった。
静かすぎる。目覚ましも、車の音も、人の気配もない。
胸元で何かが動いた。白い毛玉。ウサギだ。
「……お前、よく寝るな」
呟くと、鼻先がくすぐったそうに動く。逃げない。完全に油断している。
着替えを済ませ、部屋を出ると、キッチンにMafiosoがいた。黒いシャツの袖をまくり、コーヒーを淹れている。
生活感がある。それが、妙に腹立たしかった。
Chanceの視線に気付くと、Mafiosoは視線だけを向ける。
「眠れたか」
「皮肉か?」
「事実確認だ」
コーヒーが差し出される。砂糖もミルクも入っていない。
「……苦い」
「勝負に向いている味だ」
意味が分からないまま、Chanceはカップを置いた。
「で、仕事ってのは?」
Mafiosoは答えず、上着を手に取る。
「ついてこい」
向かった先は、昨夜と同じ――あのカジノだった。
昼間のそれは、別の顔をしている。客はいない。照明も落とされ、音楽もない。まるで化粧を落とした怪物のようだった。
だが、Mafiosoはメインフロアで足を止めなかった。さらに奥、関係者以外立ち入り禁止の重厚な扉を開け、コンクリートが剥き出しの通路へと進んでいく。
「……おい、どこへ行く気だ」
Chanceの問いには答えず、Mafiosoはある一室の前で足を止めた。中から、男の悲鳴が漏れていた。
「仕事の前に、見せておくものがある」
扉が開かれる。そこは、煌びやかなカジノの真下に広がる、ドブ川のような掃き溜めだった。
部屋の中央、椅子に縛り付けられた男が一人。顔は腫れ上がり、脂汗と涙でぐしゃぐしゃになっている。その周囲を、数人のスーツの男たちが囲んでいた。
「待ってください……。次は、次こそは、必ず……!」
「次、か」
Mafiosoは退屈そうに呟き、懐から一丁の銃を取り出した。銃口が、男の眉間に吸い寄せられる。
「博打に次はない。命は、一度きりのオールインだ。……そしてお前は、今それを使い果たした」
「や、やめ……!」
乾いた破裂音が室内に響いた。男の身体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。床に広がっていく鮮血は、Chanceの靴先にまで届きそうな勢いだった。Chanceの胃が、激しく跳ねた。Mafiosoは、返り血を一滴も浴びることなく、淡々と銃をしまった。
「……殺したのか」
自分の声が、自分のものではないほど震えている。Mafiosoは冷徹な瞳をChanceに向け、事も無げに言った。
「価値のない人間を置いておくほど、俺の檻は広くない」
Mafiosoは、動けないChanceの肩を強く掴み、そのまま出口へと促した。
「さあ、仕事だ。お前にはまだ、価値があることを証明するチャンスが残っている」
連れ戻されたのは、先ほどのメインフロアだった。奥のテーブル。ディーラーが一人。さっきまでの静寂が、今は処刑台の沈黙のように感じられる。
「座れ」
Mafiosoの声に従い、Chanceは椅子に腰を下ろした。指先が、わずかに震えている。目を閉じれば、瞼の裏にあの男の死に顔が焼き付いていた。
「何をすればいい」
「いつも通りだ」
テーブルに、チップが置かれる。
「勝て」
その一言だった。
Chanceは、浅く呼吸をした。カードが配られる。
いつもなら、ここで駆け引きを楽しむ。相手の表情を読み、自分の手を隠し、ギリギリのスリルを味わう。だが今は――
――負ければ、俺もああなる。
その恐怖が、Chanceの雑念をすべて焼き尽くしていた。自由になりたい、この男を出し抜きたい、そんなプライドはどこかへ消えた。ただ、このテーブルで「価値」を示し、あの冷たい地下室へ戻されないこと。それだけが、今の彼の世界のすべてだった。
一戦目、勝つ。二戦目も。三戦目、リスクを極限まで排除した、機械のように正確な手運びで掴み取る。
自分でも、ぞっとするほど滑らかだった。
背後からMafiosoの声がした。
「昨日と違う」
背後から、Mafiosoの低い声が鼓膜を震わせた。
「今日は、勝てる場所だ」
その言葉に、Chanceの手が微かに止まる。勝てる場所。そうだ。ここはMafiosoが管理する庭だ。彼に従順である限り、あの死体のような末路は訪れない。
昨日、俺は客だった。今日は――
「……ただの、愛玩動物か」
Chanceが吐き捨てるように言うと、Mafiosoは音もなく近づき、Chanceの首筋に指を這わせた。
「愛玩? 違うな」
脈打つ頸動脈の上で、冷たい指先が止まる。
「お前は、最も美しく勝つために調整された、俺の最高傑作だ」
その傲慢すぎる所有宣言に、Chanceの奥底で、萎えていたはずの博打打ちの血が、ドクリと跳ねた。
――ふざけるな。俺の人生は、テメェに決められるものじゃない。
テーブルが終わる。チップは、山になっていた。
部屋に戻っても、鼻腔の奥にこびりついた鉄錆の匂いが消えなかった。男の短い悲鳴。骨の砕ける鈍い音。床に広がった赤黒いシミ。それは、Mafiosoという男の「慈悲」の外側に転がっている、この世界のありのままの姿だった。
Chanceは震える指先を隠すように、檻の前にいたウサギを抱き上げた。白い毛並みは柔らかく、温かい。この生き物は、あんな血生臭い場所がすぐそこにあることさえ知らずに、ただ平穏に呼吸している。
「……お前は、幸せ者だな」
その言葉は、鏡に向かって吐いた独白のようだった。背後で、扉が音もなく閉まる。鍵が掛かる乾いた音が、静寂に波紋を広げた。
「あの男は、引き際を間違えた」
Mafiosoの声は、先程の処刑を命じた時と同じ、氷のような平熱を保っていた。彼はChanceの隣まで歩み寄り、抱えられたウサギの頭を細い指で撫でる。その指先に、微かに血の匂いが混じっている気がして、Chanceの背筋に冷たいものが走った。
「……あいつと俺は、何が違ったんだ。同じ借金まみれの博打打ちだろ」
「だが、お前には『価値』がある。そして――」
Mafiosoが、Chanceの顔を覗き込む。その黒い瞳が、Chanceの動揺を一つ残らず暴いていく。
「お前は、昨日なぜ勝てなかったと思う。お前の『運』が、俺という絶対的な不運に屈したとでも思っているのか?」
「……そうじゃないのか」
「違う」
Mafiosoの手が、ウサギからChanceの頬へと移った。冷たい肌の感触に、心臓が跳ねる。
「……昨日の夜、お前は『二兎』を追った」
MafiosoはChanceの頬に触れたまま、冷ややかに告げた。
「お前は勝利と、その先にある『自由』を同時に手に入れようとした。俺の目の前で、俺の所有物であることを否定しながら勝とうとした。……それが、お前の最大の失策だ」
Mafiosoの指先が、Chanceの唇を強く押さえる。
「このカジノは俺の体の一部だ。お前が俺に牙を剥こうとした瞬間、すべてのカードがお前の敵に回る。昨日、お前が最後の一枚に裏切られたのは、お前が『逃げ出そう』と欲張ったからだ。俺の支配を認めない者に、俺は勝利という餌を与えたりしない」
Mafiosoは満足そうに目を細めた。
「だが今日は、一兎しか追わなかった。……生き残る、という一兎だ。自由を捨て、ただ俺の檻に守られて勝つことだけを考えた。だから、カードはお前に微笑んだ。――そうだろう?」
「……っ」
言葉が出なかった。
「お前が勝てるのは、俺が檻を用意している間だけだ。自由な野原で独り立ち尽くすお前は、ただの弱い獲物に過ぎない」
Mafiosoの指が、Chanceの唇をなぞる。屈辱だった。惨めだった。けれど同時に、この男の手のひらの中にいる限り、自分はあんな無惨な死を遂げることはないという安堵が、麻薬のように全身を回る。
「覚えておけ。一兎で十分だ」
Mafiosoが手を離し、部屋を出ていく。再び訪れた静寂の中で、Chanceは膝をつくようにベッドへ崩れ落ちた。
その日、Mafiosoは何も命じなかった。
それが、何より異常だった。
カジノのフロアを歩きながら、Chanceは自分の指先を見つめた。震えはない。だが、皮膚のすぐ下で、煮えたぎるような熱が脈打っている。
(……ああ、そうか。ようやく分かったぞ)
Mafiosoが自分をこの豪華なマンションに閉じ込め、処刑を見せつけ、そして「勝てる場所」を用意した理由。それは、自分を怯えさせるためでも、ただの奴隷にするためでもない。
(コイツは、俺を『完成』させたがってるんだ)
Chanceというギャンブラーの羽をもぎ取り、檻の中で自分だけのために美しく鳴く、世界で唯一の標本。それがMafiosoの欲望の正体だ。
(面白いじゃねえか。……そこまで俺が欲しいなら、くれてやるよ)
自分のすべてをチップとしてテーブルに叩きつける。それは、自分を安売りすることではない。「俺という人生」を買い取らせる代わりに、対価として「Mafiosoという男のすべて」を奪い取るための、人生最大の一世一代のハメ技だ。
(俺を飼い慣らしたつもりで、首輪を握らされているのはテメェの方だってことを教えてやる。――死ぬまで終わらないギャンブルの始まりだ、オーナー)
その瞬間、Chanceの瞳に「獲物」の光は消え、絶対的な「捕食者」の火が灯った。
「……なあ」
Chanceは、立ち止まった。
周囲に人はいない。それでも、声は届くと確信していた。
「俺と賭けをしろ」
数秒後、背後から気配が現れる。
「内容次第だ」
Mafiosoは、最初からそこにいたかのように言った。Chanceは振り返り、真っ直ぐに睨む。
「俺が勝ったら、借金は帳消しだ」
空気が、僅かに変わる。
「負けたら?」
「……完全にお前のものになる」
Mafiosoの瞳が、細くなる。
「体も、名前も、自由も。全部だ」
沈黙。
やがて、Mafiosoは笑った。
「良いだろう」
あまりにも、あっさりと。
「だが条件がある」
「何だ」
「イカサマはしない」
Chanceは、思わず吹き出しそうになった。
「それはこっちの台詞だ」
テーブルが用意される。ディーラーは一人。観客はいない。
賭けは、単純だった。
一発勝負。
Chanceが最も得意とするゲーム。
カードが配られる。
流れは――
完璧だった。
違和感が、ない。
Mafiosoの檻を感じない。
……罠か?
だが、結果は――
Chanceの勝ち。
疑いようがない。
運も、読みも、すべてが噛み合った。
チップが中央に集められる。
勝利。
自由。
――の、はずだった。
Chanceは、息を吐いた。
そして、動かなかった。
「……行かないのか」
Mafiosoの声が、わずかに硬い。
「逃げるチャンスだ。お前は『勝った』だろう」
Chanceはゆっくりと顔を上げ、目の前の男を睨みつけた。
「勝った? これがか?」
Chanceは手元のチップを鷲掴みにし、テーブルに叩きつけた。硬質な音が、静寂を引き裂く。
「お前、最後の手……わざと隙を作ったな」
Mafiosoの眉が、微かに動く。図星だ。
「俺が気づかないとでも思ったか? あの瞬間、お前は完璧な手を捨てて、俺に勝ちを譲った」
Chanceは一歩、男に近づく。
「何故だ。無敗の帝王が、たかが一匹のウサギを檻に留めるために、自らの矜持すらドブに捨てたのか」
沈黙が落ちる。Mafiosoの黒い瞳が、初めて揺らいで見えた。
「……俺が勝てば、お前は壊れる」
Mafiosoが、絞り出すように言った。
「お前には、勝利が似合う。……俺の檻の中で、な」
その歪みきった論理を聞いた瞬間、Chanceの中で何かが弾けた。怒りではない。呆れでもない。
それは、どうしようもないほどの、歓喜だった。
――ああ、コイツは。
俺を支配するために、自分自身すら賭け金にしたのだ。その狂気じみた執着が、どんなギャンブルよりもスリルに満ちていると、本能が理解してしまった。
「……馬鹿な男だ」
Chanceは笑った。憑き物が落ちたような、けれど今までで一番、狂気を孕んだ笑みだった。
「良いだろう。その歪んだ愛し方、乗ってやる」
Chanceはチップを一枚拾い上げ、Mafiosoの胸ポケットにねじ込んだ。
「賭け直しだ、オーナー」
Mafiosoの喉が、小さく鳴る。
「今度は――俺がテメェの人生を賭けてやる。精々、飼い殺してみろよ」
Mafiosoの喉が、微かに、けれど確かに震えた。無敗を誇り、冷徹に盤面を支配してきた男が、初めて「計算外の事態」に直面した男の顔をする。
静寂が満ちるカジノの奥底。Mafiosoはゆっくりと手を伸ばし、Chanceのうなじを、壊れ物を扱うような手つきで引き寄せた。
「……高くつくぞ。俺の人生を賭け金にするなら」
「望むところだ。破産するまで付き合えよ」
至近距離で視線が火花を散らす。それは、恋人同士の睦み合いよりもずっと切実な、博打打ち同士の契約だった。
マンションに戻ると、部屋は昨日と同じ静寂に包まれていた。だが、窓の外に広がる東京の夜景は、昨日までのような「外界への未練」をChanceに抱かせなかった。
Chanceは上着を脱ぎ捨て、迷いのない足取りでガラス張りのスペースへと向かう。そこには、あの白いウサギがいた。
Chanceは檻に手をかけ――その鍵が、最初からかかっていないことに気づいた。
「……最初から、開いてたのか」
背後に、Mafiosoの気配が立つ。
「逃げるか、残るか。それだけはお前に委ねていた」
嘘だ、とChanceは思う。逃げ道をすべて塞ぎ、運を殺し、ここ以外に生きる場所がないように仕向けたのは、この男だ。それなのに、最後の最後で「お前の意志だ」と嘯く。その傲慢で献身的な矛盾が、今のChanceには酷く愛おしかった。
Chanceは檻の扉を大きく開け放った。中のウサギは、開かれた自由を前にしても、鼻先を動かすだけでそこから動こうとはしない。
「こいつも、俺と同じか」
Chanceはウサギを抱き上げ、Mafiosoの方を振り返った。Mafiosoは、部屋の隅でワイングラスを揺らしている。その視線は、もはや獲物を監視する目ではない。自らの心臓を預けた相手を、畏怖と共に眺める者の目だ。
「檻は、もういらないな」
「……いや」
Chanceは一拍置いた。
「形ある檻は、だ」
Chanceが言うと、Mafiosoは微かに口角を上げた。
「……必要なら、また用意する」
「良いよ。今度は、お前の腕の中だけで十分だ」
その言葉に、Mafiosoが手にしていたワイングラスが、わずかに揺れた。無敗の支配者として、すべてを完璧にコントロールしてきた男の指先が、目に見えないほど微かに震えている。
Mafiosoは動けなかった。Chanceの瞳には、もはや恐怖も絶望もない。自分を破滅させた男を「一生の賭けの対象」として見据える、狂気を含んだ光だけが宿っている。
手に入れた。完全に、自分のものにしたはずだった。だというのに、自ら腕の中へ飛び込もうとするChanceの圧倒的な存在感に、Mafiosoは今さらになって「とんでもないものを招き入れてしまった」という畏怖に襲われたのだ。
一歩、足がすくむ。この男に触れれば、もう二度と「支配者」には戻れない。
そんなMafiosoの躊躇を、Chanceは見逃さなかった。獲物を追い詰めるのは、今やChanceの側だった。
「どうした。……俺を飼い殺す勇気が、今さら足りなくなったか?」
不敵な笑みを残し、Chanceは誘うように自らベッドに身を投げた。白いウサギがその横で、何も知らずに丸くなる。
Mafiosoがようやく灯りを落とした。暗闇の中、迷いを振り払うような足音が近づいてくる。
隣に沈み込む、重い体温。首筋に触れる、熱を帯びた指先。
自由はない。運も、かつての誇りも、ここにはない。
だが、闇の中で重なり合う鼓動だけが、どの勝利よりも深く、Chanceの胸を震わせていた。
「二兎を追うのはやめたって言っただろ」
眠りに落ちる寸前、ChanceはMafiosoの耳元で低く囁いた。
「俺が選んだのは、『この檻』だ。……負けさせるなよ、Mafioso」
返事はなかった。代わりに、髪を撫でる指先に、痛いほどの力がこもる。それは、どんな言葉よりも重い、終身刑の宣告だった。
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