テラーノベル
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6月28日に書いた日記をもとに小説を書きました!
さようなら
何度目かの入院生活にも、少しだけ慣れてしまった自分がいる。
毎朝、白く乾いた天井を見上げる。
無表情な天井は、昨日と同じ今日を私に差し出す。
もう日付を数えるのはやめた。
私は、病気を患っている。
それが何かは、ここには書かない。
聞かれても答えたくない。
それは私のなかで、私だけの戦いだから。
ただ、毎日が少しずつ剥がれ落ちていくような、そんな感覚だけは、きっと誰にでもわかると思う。
痛みや苦しみよりも厄介なのは、時間の重さだ。
「今日も生きている」ことが、必ずしも希望につながるわけではないことを、私はこの場所で知った。
◇
窓の外では季節が変わっていた。
ついこのあいだまで、梅雨の雨音を子守唄にしていたのに、今は蝉の声がうるさいほど響く。
夏は苦手だ。
元気な人たちの姿を眺めるには、あまりにも眩しすぎるから。
面会に来た母が、私の髪に手を伸ばして、「また少し、抜けたね」と、笑って言った。
その声は優しかった。
けれど、私の胸には棘のように刺さる。
「……ごめんね」
そう答えた私の声は、かすれていて、母は何も言わずに手を握ってくれた。
手のひらの温度が、ただ、泣きたいほどにあたたかかった。
◇
毎日、私は「さようなら」の練習をしていた。
家族に。
友達に。
そして、まだ伝えていない誰かに。
本当に言えるだろうか?
本当に、終わりのその瞬間に、私は「ありがとう」と笑えるのだろうか?
それとも、声にならない後悔だけが残るのだろうか?
わからないまま、日々が過ぎた。
◇
ある夜、夢を見た。
海辺をひとりで歩いていた。
風が吹いて、髪が揺れて、波の音だけが耳に届いた。
誰もいない砂浜で、私は空に向かって叫んだ。
「私はここにいたんだよ!」
風がさらっていっただけで、何も返ってこなかった。
その静けさに、私は泣いた。
誰も私を知らない場所で、私の存在が風に消えていくような感覚に、胸が締めつけられた。
◇
退院は難しいと、主治医が言った。
「外にはもう、出られません。残りの時間は、ここで穏やかに――」
その言葉に、私はうなずいた。
泣きも、怒りも、笑いもしなかった。
そうか、としか思えなかった。
身体の奥深くが、すでに諦め方を覚えてしまっていた。
◇
私は誰にも、本当のことを言っていない。
「元気だよ」「大丈夫」「そんなに悪くないから」
そうやって、笑顔を貼りつけるのが癖になった。
それは、周りの人の涙を防ぐためだった。
私が弱ると、みんなが泣くから。
私が笑えば、みんなも笑ってくれるから。
だから、私は「さようなら」も、明るく言いたかった。
そう、いつか来るそのときも――
◇
ある日、私が一番大切に思っていた人が、ふらりと病室に現れた。
誰よりも会いたくて、でも会えないでいた人だった。
「やっと来たんだね」
そう言った私の声は、驚くほど落ち着いていた。
彼は、黙って私の顔を見つめたあと、「来るのが怖かった」と、かすれた声で言った。
「もし、もう君がいなかったらって思うと、どうしても怖くて……」
私は首を横に振った。
「私は、ちゃんと生きてるよ。ほら、こうして話せてるじゃない」
彼は泣いた。私の目の前で、何も隠さずに。
私はその涙を、静かに受け止めた。
◇
夜。
ナースコールも鳴らさずに、私はひとりで空を見上げた。
星は見えなかった。
病室の窓からじゃ、灯りばかりが反射して、空が遠すぎる。
だけど、それでも私は言いたかった。
「さようなら」
声にならないその言葉を、私は胸の奥で繰り返した。
これまでの私に。
優しかった人たちに。
そして、自分自身に。
心のなかで、きれいに、静かに、それを言おうとして――
「……なんて言うと思った?」
私は笑った。
言葉はかすれていたけれど、確かに口にした。
その瞬間、胸の奥で何かがはじけて、こみ上げるように涙が出てきた。
でも、いい涙だった。
まだ終わらない、まだここにいる、まだ呼吸がある。
それだけで、今の私には十分すぎる希望だった。
◇
私はきっと、もう長くは生きられない。
でも、今日この瞬間を、まだ私は手放していない。
明日もまた、朝が来る。
眩しいほどに、しつこいくらいに。
私はそれを、受け入れてみようと思う。
「さようなら」の代わりに、「おはよう」と言える日まで。
だから、まだ。
私は笑って、こう言う。
「さようなら……なんて、言うと思った?」
――私の戦いは、まだ終わらない。
コメント
7件
さよならなんて言わせませんよーー!!! 凛音ちゃんの文章ってすごいのめり込んで感情移入しちゃうんだよね、…🥹🥹 絶対に言わせないんだから…!
まだ逝っちゃ嫌だなぁ...