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「ちょっと待っ――」
「少しだけだ……」
言葉が遮られる。唇が触れ合う感覚。
先程と違って触れ合うだけじゃない。
しっとりとそれは俺の唇を包み込み、柔らかいものが俺の咥内に忍び込んできた。
「んっ……」
あ、これ舌だ……!ひ、え……ディープキスというやつで、は。
そう考えている間に、それは俺の口の中を舐めてから俺の舌に絡みつく。
くち、くち、と水音を立てながら捏ねられると息が詰まって仕方なかった。
ぞわぞわと背中から何かがせりあがってくる。
軽く俺の舌を吸うようにしてから、レイの唇は離れた。
その時間はほんの数秒だったが、俺には永遠のように感じられた。
「……すまない。お前が休めるように、俺も努力する。だから、お前も無理をするな……早く元気になったお前に触れたい」
そう言って俺の頭を撫でてからレイは立ち上がり扉に向かう。
扉を潜る前、レイが一度振り返った。
金の瞳がじっとこちらを見つめ、視線を外す気配がない。
「……お前を前にすると、なかなか我慢がきかないんだ……」
そう呟いた後、息を一つ吐き、視線を外して「いや、なんでもない」と静かに去っていく。
扉が閉まる音が響き、俺はその場で崩れるようにベッドに沈み込んだ。
「……ひ、ひぇ……」
……唇の感触がまだ残っている気がして、指先で触れる。
あかん、推しと本格的なキスをしてしまった……。
それどころか、推し様、それ以上を求めるようなセリフを……。嘘やろ。
ゲームで言えば攻略フラグ……いや、もう妻だから攻略されてんのか⁈
顔が熱い。心臓はさっきからずっと爆走している。
「……無理。推しに求められるの、想定外すぎる……」
頭を抱えたままベッドの上を転がると、先ほどの光景が頭にまた蘇った。
それに俺はバタバタと足を動かして悶絶する。
脇汗が凄いったら。あともうね、男なので反応するんですよ、あらぬところがさぁ!
「無理無理無理、絶対無理!!一体どうしろってんだ!!!」
リリウムが心配そうにこちらを見つめている。
「お前は余裕そうだなぁ!!代わってくれ!!……無理ぃ……」
ひとりベッドの上で呟く。
俺は、自分がこの異世界でどうなるのか、まったく見当がつかない。
頭の中は完全にカオスである。
「……推しとキス、しかもディープキスって……これ普通の人生なら一生ないイベントだろ」
息を一つ吐いて天井を見つめる。だけど――。
「俺、カイルじゃないんだよな……」
嬉しいやら申し訳ないやら……感情が右往左往だ。
『誓い』とか、『事故』とか。謎だらけだし、そもそも、カイルって本当に何者なんだよ……。
この異世界では、どうやらカイルはレイにとって特別な存在らしい。だけど、その「特別」がどこから来ているのか、俺にはまだ何も分からない。
──一体合切、なにがどうなっているんだろうか……。
俺は小さく溜息を吐いた。
※
いつのまにか空は茜色から深い藍色に変わっていく。
部屋のランプが柔らかい光を灯し、静けさが部屋を包む。
夜の食事は部屋でとなり、それも終わらせて、さくっと就寝準備も整えられた。
ベッドに横たわりながら目を閉じていると、扉が控えめにノックされた。
「奥様、失礼いたします」
声の主はエミリーだ。今度は銀のトレイに白いボトルとグラスを乗せている。
「夜のお薬をお持ちしました。旦那様から、ご就寝前にお飲みいただくようにとのご指示でございます」
「レイが?」
「はい、奥様の体調を非常に心配なさっておりますので」
これほど徹底的に気遣われるのは、正直慣れない。
そしてなんとなく、これを享受することに俺は罪悪感を覚え始めていた。
……俺は何せ、『カイル』じゃないからなぁ……。
そういえば、カイルはどんな人間だったんだろう?
エミリーが差し出すボトルを受け取りながら、ふと口を開く。
「ねえ、エミリー」
「はい、奥様」
「このカイルって……俺って、どんな人だったの?」
エミリーは少しだけ驚いたように目を丸くしたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「奥様は、とても優しく、誇り高い方でいらっしゃいます。いつも旦那様を気遣われ、領民の皆様からも愛されております」
「え……俺、そんなにすごい人だったの……?」
「ええ、もちろんですとも。それに、旦那様とのご関係も非常に特別なものでした。事故が起きた時、旦那様がどれほどお辛そうだったか……」
エミリーは言葉を一瞬詰まらせる。
その表情には、ほんの少しの憂いが漂っていた。
「事故が……起きた時?」
「はい。お話をしたと思いますが、あの時、旦那様がすぐに駆けつけられなければ、奥様の命はなかったかもしれません。ですが、馬車の破損が事故なのか、意図的なものだったのか……調査が続いております」
「意図的……?」
エミリーは小さく頷いたが、その瞳の奥には微かに不安が浮かんでいるように見えた。
けれど、それを悟らせまいとするように、すぐに柔らかな笑みが戻る。
「旦那様が気づかれたように、あの馬車には不自然な損傷がありました。外部から何かで削られた跡が発見されております。事故ではなく、誰かが奥様を狙った可能性があります」
血の気が引く。
誰が、なんのために……。
「旦那様が調べておられます。必ず旦那様が解決してくださいますから、どうか奥様は深くお気になさらず、まずはご体調を回復されることをお考えくださいませ」
そう言ってエミリーは再び微笑む。
けれど、俺の目には彼女の表情がどこか張り付いたものに見えた。
俺は彼女に礼を言って薬を飲み、ベッドに戻った。
エミリーが部屋を出た後、再び静寂が訪れる。
推し――レイが俺を『カイル』を大切に思ってくれているのは分かる。
でも、それは『俺』ではなくて、『カイル』だからだ。
「事故が意図的かもしれないってことは……生きている以上、俺も、狙われるのか?」
今は俺が『カイル』だ。
意図的となれば誰かが裏にいる。
なんで……ゲームにこんなルートなかったよな)
このカイルはあまり俺の記憶にないくらい薄い存在だ。サポート役ではあるもののサブというよりはどちらかと言えばモブ。
それが今や『妻』になり、そしてもしかすると命を狙われている、か……。
──だいぶんキャパオーバーだなぁ……)
そもそも自分がここに来たのも、信じられない話でしかもゲームの中とか非現実的すぎる。でも、俺は今ここに存在していて、生きている。
考えすぎても仕方ないか……。
何も分からないまま、考えはまとまらないまま、ゆっくりと瞼が重くなっていく。
……それでも、エミリーの言葉が頭を回っていた。
レイが調べてるって言ってたけど……もしかしてレイも危ないんじゃ?
そんなことを思いながら、意識は次第に闇へと沈んでいった。
※
翌朝、カーテンの隙間から差し込む日差しで目が覚めた。
うん、昨日と同じ場所で、俺の部屋であって部屋でないな……。
まだ少しぼんやりしているが、昨日の出来事が脳裏をよぎる。
「……夢じゃなかったんだよな……」
そんな時、扉がノックされ静かに開く音がした。
現れたのは、やはり推し――いや、レイ=エヴァンスだった。
「起きたか」
レイが、ゆっくりと部屋に足を踏み入れる。
その姿を見た瞬間、俺は思わずベッドの上で姿勢を正す。
「体調はどうだ?」
うん、夢じゃないねぇ……相変わらず低くて心地いい声。
朝から顔の偏差値がバカ高過ぎる。
いや、不思議だな……ゲームだとグラフィックと声優さんだったはずなのに、目の前にいるレイは『生きて』いるんだよなぁ……。
「え、と……だいぶ良くなりましたよ。昨日はよく眠れたし……」
努めて自然に答える。が、レイの視線はじっと俺を見つめたままだ。
俺が「カイル」ではないことに気づかれるのではと、少し不安になる。
「……本当か?」
「えっ?」
「お前はよく無理をして隠そうとする。それで自分を追い込むことが多い。俺はそれを知っている」
知っている――そう言われると、やはり居心地が悪い。
俺が『カイル』じゃないことを知られたら、彼のこの目はどう変わるのだろう。
知られたら、俺はこの世界から消される、とか……?
そう考えると、一抹の不安がよぎる。
「……本当に大丈夫だよ」
「そうか」
ようやく納得したのか、レイは俺の目から視線を外し、窓の外に目を向けた。
朝の光が彼の横顔を照らし、息を呑むほどの美しさが際立つ。
「気分転換に庭でも散歩するといい。歩く程度ならいいだろうしな」
「あ、はい」
それだけ言うと、レイは俺のベッドの傍らに腰を下ろした。
少し表情が緩み、いつもの冷徹さが薄れる。
「お前の無事を確認できて良かった。……昨夜は、悪い夢を見た」
「悪い夢……?」
「お前を失う夢だ。……あの事故の時のように」
レイの声が低く響く。息を呑んだ。
目の前の彼の表情には、僅かに陰が落ちている。
「お前がいなくなることだけは、俺には耐えられない。それが、俺が誓った理由だ」
再び出た「誓い」という言葉。
その響きには、俺が思っていた以上に強い重みがある。
……やっぱり、重い。これは恋愛とかそういうレベルじゃない気がする。
「レイ、その……誓いって、一体どういう意味なの?」
勇気を振り絞って聞くと、レイは一瞬だけ目を細めた。
「お前は……覚えていないのか?」
しまった。内心で焦る。
だが、レイは深くため息をつき、静かに言葉を紡ぎ始めた。
「……いや、そうか……誓いとは、命を懸けて守るということだ。誓いを交わした者同士は、どんな危険でも互いを守り抜く運命にある」
「運命……」
その言葉がやけに胸に重く響く。
俺はカイルではない――。
けれど、レイが「俺」をカイルとして見ている以上、彼は命を懸けて俺を守るつもりなのだろう。
「俺にとって、お前は唯一の存在だ。だからこそ、これからも無理をしないでほしい。俺がいる限り、お前には何もさせない」
その言葉に、胸がぎゅっと締め付けられる。
俺は何者でもない、ただの社畜だったのに、こんなふうに想われていいのだろうか――。
いや、想われているのは「カイル」であって、俺じゃないんだよなぁ……。
「ありがとう、レイ……俺も……何かできることがあればやりたい。出来ることは少ないかもしれないけれど」
俺の言葉に、レイはほんの少しだけ目を見開く。
そして、静かに頷いた。
「分かった。だが無理はするな。それだけは、約束しろ」
そう言いながら、レイの手がふわりと俺の髪を撫でる。
その指先がやけに優しくて、心臓がバクバクする。
待て待て、撫でられるとどうしてこんなに落ち着かないんだ俺!?
まあ、相手は推しだしな……‼
「……ありがとう、レイ」
精一杯の平静を装ってそう答えるが、思わず顔が熱くなるのを感じた。
心臓がもたんて……。