壱都さんは私が白河会長と会ったことで緊張していると思ったらしい。
でも、本当は違う。
ショックだった。
私達の結婚は純粋なものじゃないとわかっていたのに。
何度も自分に言い聞かせたのに駄目だった。
利害なしの関係でいたいなんて虫が良すぎる。
だって、私が井垣の娘じゃなかったら、壱都さんは見向きもしなかっただろうから。
言葉少なに私と壱都さんは二人で暮らすというマンションへやってきた。
「ケンカしないで、仲良くしてくださいね」
秘書の|樫村《かしむら》さんが部屋に荷物を運んでくれた。
会話の少ない私と壱都さんを心配したのだろう。
二人は私から離れたところで話していて、なにを話しているのかわからないけど、樫村さんがもう少しいてくれればいいのにと思った。
「では、自分はこれで」
樫村さんはお辞儀をし、部屋から出て行った。
二人になると、なんだか気まずい。
「このマンションに部外者はなかなか入れないから、安心していいよ」
「はい」
壱都さんが住んでいるというマンションはセキュリティが厳重で警備員はもちろん、監視カメラまで設置され、さらに白河のボディガードが待機している。
ここまで、守られるような偉い人間じゃないのに。
申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「疲れただろうし、休むといい」
ちゃんと部屋はわけてあり、部屋のクローゼットを開けると中にはぎっしり服が並んでいた。
まさか、私の?
ブランドのバック、靴、アクセサリー、まさかねと思いながら、鏡台の引き出しをあけると有名ブランドの化粧品がそろっていた。
私が来ることがもう決まっていたかのように―――下着まで。
がっくりと床に膝をついた。
「どうしてサイズを知ってるの……?」
恐ろしい人だとは思っていたけど、ここまでとは思っていなかった。
ふらふらとドアを開けて部屋の外に出ると、驚いた顔で壱都さんが振り返った。
「あの……部屋にあるものは……まさか……」
「ああ。あれか。荷物を持ち出せないかと思っていたから、揃えておいた」
つまり、遺言書が開封されたら、あの状況になるということはすでに把握済みだったってこと?
どこまで先を読んでいるのだろう。
「使えばいい。俺には女装趣味はないし。あと夕飯だけど、ここから好きなものを選んで」
私より似合いそうだけどって、違う!
差し出されたメニューは和食から洋食、中華までそろっていた。
あまり食欲がなく、食べたいものが思い付かない。
差し出されたメニューをぼんやりと眺めていると、壱都さんが私に声をかけた。
「温かい蕎麦は?それなら、入らない?」
「お蕎麦でお願いします」
「わかった。だし巻き卵といなり寿司と蕎麦を注文しておくよ」
「食べきれません」
「わかってる。食べられる分だけ食べればいい」
その言葉に壱都さんは私に食欲がなく、なにも食べてないことを知っているのだと気づいた。
「あの、ありがとうございます。こんな急だったのに何もかも揃えてあって、驚きましたけど、助かりました……」
危うく蕎麦の話に紛れ、お礼を忘れてしまうところだった。
私のことを気にかけてくれていた―――って、ほだされかけてハッと我に返った。
気づいたら壱都さんのペースになってしまっている。
「俺にすれば、急なことじゃなかった。全部、井垣会長の計画通りだった。ここまではね。ここから先は俺が任されている」
意味深な言葉だった。
私にはこうなることもこの先すらわからないのに壱都さんにはわかるようだった。
「君に贅沢をさせようと思えば、会長にはそれができた。でも、しなかった。すべて今日のために。自分の息子を|欺《あざむ》き、油断させ、君に目がいかないようにした」
「そうだったんですか。私は十分、贅沢をさせてもらいました。だから―――」
「だから、財産も俺もいらない?」
いらないなんて、言えるような空気ではなかった。
壱都さんの目が怖い。
「い、いいえ」
「そうか。それなら、よかった」
にこりと壱都さんは微笑んだ。
いらないと言わせる気はない。
そんな空気を感じた。
「私と本当に結婚するつもりですか?」
「もちろん。ずっとそのつもりだった」
壱都さんは私を真っ直ぐ見ていた。
「財産目当てで結婚すると思っているなら、大間違いだ」
私の心の中を読んだかのように壱都さんは言った。
「俺はお金に不自由はしていない。白河家にいれば一生食うには困らない」
「それじゃあ、どうして」
「井垣会長の提案に乗ったのは面白いと思ったから。引き受けたのは君を好きになったからだ」
壱都さんはバスタオルを私に投げた。
「バスルーム、先に使っていいよ」
「ま、待ってください!」
慌てた私を見て、壱都さんが笑った。
「すぐに手をだすほど、飢えてないよ。色気たっぷりに誘ってくれるなら別だけどね」
「バスルーム、使わせてもらいます!」
「いいよ。一緒に入る?」
「入るわけないでしょっ!」
「そっか。残念だなー」
壱都さんは私をからかって、楽しんでいるとしか思えない。
「もうっ!」
バンッとバスルームのドアを閉めた。
はあ、と息を吐き、顔を上げると目の前にはモデルルームのようなバスルームがあった。
井垣の家よりも立派なバスルームに呆然とした。
お金に不自由していないというのは本当かもしれない。
白とグレーの明るいバスルームには観葉植物が置かれ、バスタブはジェットバスとブロアバスがついている。
アクアシアターまであり、私が思っている以上に機能が多すぎた。
使い方がわからなくて、思わず泣きそうになった。
井垣の家は部屋に備えつきの小さなお風呂だったし、お母さんと暮らしていた頃はアパート暮らし。
立派すぎて、落ち着かない。
半ば、混乱気味にシャワーを使い、なんとかバスルームから出ると、壱都さんが届いた蕎麦を並べてくれていた。
「疲れた顔しているけど、どうかした?」
「ちょっと使い方がよくわからなくて」
「だから、一緒に入るか聞いたのに」
「入りません!」
追い討ちをかけるように言われたあげく、笑われて、なおさら疲労感が増したのだった。
こんなことで壱都さんとうまく暮らしていけるのだろうか―――いつも一緒にいる樫村さんを心から尊敬したのだった。
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