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自信なんてない。
勇気もない。
真実すら、私には分からない。
どうしたものか、この世は理不尽で出来ている。その理不尽な世界で生き抜く皆を輝かしく見える。
何故か知らないが、今を必死に生き、希望を持っている方が案外輝けるのかもしれない。
では、生きるのに精一杯な私は輝けないのだろうか。
目に光はなく義務的に学校へ通い、家のお手伝いをする。親の怒る声に耐え、愛しているが故に体に接触してくる気持ち悪い日々。
否定され、感謝され、やりたいことも出来ない日々を耐えるのに必死な私には、スポットライトを浴びることを許されない。
そこに楽しみも、希望もないからだ。
希望を持たなければ、やりたいことも何も出来ないと言うが…
実際はそうだろう。
やればいつか叶うかもしれない。やれば絶対に報われる。そう信じてやっている人達は少なからず成果を上げている。
それはそこに希望を持ち、なおかつ相手や自分を信じているから。やろうという気持ちが、何より強いから。
そんな人たちを前に羨んで嫉妬して怯んでいる私では、こんな日々を抜け出せないのも当たり前という話だ。
私もかつてとある教師を信じて社会の勉強を頑張った。社会という教科、そして何よりその教師を信じ、希望を持ったからだ。
「私なら絶対できる。」と言って自信を持って取り組んでいたら、実際にテストの点数も成績も上がったほど。
そんな希望に満ち溢れた日々があったにも関わらず、今の私は絶望しか持ち合わせていないのはなんとも笑える変貌っぷり。
そう、入学当初までは希望を持って、自信を持って新しい学校へ入った。「今は成績悪いけど、絶対に教師になるんだ」と、夢と勇気を持って。だがそんなものを打ち砕く言葉を私は聞いてしまった。
とある日、自分の将来の話になった。数ヵ月後に面談があるため、少しでも話しておこうと思ったのがきっかけ。だがそれをしたのが間違いだったのだ。
「私って大学行くの?それとも就職?」
まずはこの二択だろうと思って母に問い質してみた。そしたら大学、就職ではなく
「あんたは公務員になりなさい。市役所の人。」と言われた。
まずここで私は「うっ」ときた。だがひるまず大学の話に持っていった。
「でも公務員になるにしても大学は行くでしょ?」
「いや、行かなくてもなれるものはあるよ。」
「でも行っといた方がいいじゃん」
「じゃぁ××大学とか?」
「え、他の大学はダメなの?」
「わからん。でも高かったり、遠かったりするとこはダメやで。」「公務員になるためなら別に××大学でも十分やし。」と、結局公務員の話に戻ってしまった。そして私は察する。この人は絶対に応援してくれない。私の夢を言ったら、否定される。
そこで希望が絶望へと変わってしまった。
勉強しようにも、ダメにされると思うとやる気が出なくなったり。夢や目標の話になると頭痛がするほどになっていた。
勝手な思い込みだが、母の今までの態度や言動が現実味をましてくる。
だから結局気付かされたのはそれと、その先生がいなければ私には何も出来ないということ。
勇気も自信も希望も、先生がいなければ持てないようになってしまったのだ。
すなわち依存。
さて、最後に私の目標を話して終わろう。
なに、将来こうなりたいとか、そのためにこうする、といった目標ではない。
何歳まで生きたいそういう目標だ。
では言わせてもらおう。
今は、20歳から25歳のどこかで死ねればいいなと思っている。
老死は確実に無理だろう。
ならばどのようにして死ぬか、まぁその話はまたいつか。
くだらない話に付き合ってくれて感謝する。
ではまた次の機会にでも…