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「もう無理なんだ僕…」
「元気出してるぅとくん!」
「世界史四点だった…」
「……わぁ」
「なんであの時は大丈夫だって思ってたんだろう」
「テストの魔力だねぇ」
その日の気温は珍しく35°を切っていた。僅かながら昔の隆盛を取り戻した蝉の声が、それでも熱い空気を震わす。二人は談笑しながら、二十年前より随分と増えた車の間を縫うようにして歩いていた。話題は、どこにでもあるテストの話。この教科ができなかった、だとかこの教科は意外といけた、とか。
「はぁーっ、でももうすぐ僕達も受験ですよ」
「早いねぇ」
「ついこの前入学したばっかりなのに!」
「わかる!高校って時が経つの早い!」
「莉犬は何かまずい教科ある?」
「んー、俺はねぇ、政治」
「今何やってましたっけ」
「ほら、アレ…えっと…アレ」
「どれ⁈」
「んーーー」
どこにでもある、普通の会話だった。
「あ!そうだ、にんげんと」
「りいぬ!」
「え?」
首を九十度向ける遑もなく、不意に体が熱いアスファルトに叩きつけられる。ブレる視界に映ったのは、自らを突き飛ばした友人と、その前に迫るトラックの姿。
「るぅちゃ」
一瞬、時が止まる。決して届かないと分かっている伸ばした手の先で、彼はニコ、と笑った。
そして時が動き出し、その体は嫌な音を立てて、人ではなくなった。
躊躇する様子もなく過ぎ去っていくトラックに目もくれず、莉犬は友人だったものに駆け寄る。
「るぅとくん!!」
鼻の奥に広がる血の味と、足が地面を蹴る度に響くぐちゃという音。混乱のせいなのか、耳鳴りも酷い。全てが、彼はもう人間と呼べる代物では無いことを告げていた。人間ならば厭で我慢できないくらいの感覚が全身に広がるのに、五感は益々研ぎ澄まされていく。ずっとしていた、耳鳴りのような音は、自分自身の喉から出ていたのだと気付き、莉犬は、意思と関係なく震える喉に抗う事なく、吼えた。
嫌だ、嫌だ、死ぬんじゃない。そんな子供の様な感情を抱いて。
ーーそう、子供の様な。
決して理論では片付けられない事がある。また、感情だけでは片付けられない、本能というものもまた、幼児期に最も良く見られる、制御できないものだ。ついに体だったものの大部分が集まっている箇所まで来て、立ち尽くす莉犬の口からは、つつと透明な糸を引く涎が垂れていた。
「……ぁ、涎」
やたら、変な事が気に掛かる。
ーー瞬間、目を疑った。潰れた赤黒い肉や内臓、既にアスファルトに染み込み始めている血が、白く染まる。皮膚と呼ばれたものが、縫い合わせられる様にして、一個の人の形を成していく。そして、白く染まった中身は、その中に詰められた。その姿はまるで。
「にんぎょう」
外見だけ見れば、人間と何も変わらない程の精度を持つ人形。それを、莉犬は知識として知っている。
「…り、いぬ?」
自らも信じられないといった様子で瞳孔を目一杯開くるぅとに、莉犬は思い切り駆け寄っていた。
「る、ぅと、くん」
「うん、何だか分かんないけど、僕…生きてるみたい」
「るぅとくん」
「莉犬が何かやってくれたの?ありがとう!」
「る…ぅと、くん」
「どうしたの莉犬?」
流石に三回も自分の名前を呼ばれるのには慣れていない。不思議そうに莉犬の方を見ると、その口が微かに動く。
「…げて」
「え」
「逃げ、て」
「どういうこ…と…」
語尾が尻すぼみになっていくのと同時に、るぅとの視線は、莉犬の口元から、足元へと動いていた。先程、口の端から垂れていた涎がだらだらと半開きになった口から流れ、地面へぼた、ぼたと落ちる。その明らかに尋常ではない量に、何かあったかと勘付く。
「何があったの、莉犬」
「うぅ…」
下を向いたままの莉犬は、弱々しい声と共にその場に蹲る。慌てて近づいたるぅとが、声の正体を唸り声だと知るのに、時間はそう掛からなかった。
「これってどういう」
こと、と、言い終わる事はできなかった。目の前の襲撃を避けるので精一杯だった。
「莉犬!」
呼びかけに、応える素振りはない。その随分と伸びた爪で皮膚を抉り取ろうとしてくるのを必死に避け、あるいは受け、防戦するも、所詮一般人、どんどん形勢は悪くなっていく。莉犬は自分より体力もなく、力もなく、こんなに素早く鋭い攻撃ができる筈がない。困惑するるぅとの耳に、声が聞こえた。
「るぅ゛、と…」
「りいぬ」
手が、止まり、その隙を莉犬は見逃さなかった。
「あ゛、ぐっ…!」
鋭い牙が、るぅとの腕に食い込む。身体中に痺れる様な激痛が走り、思わず身を捩らせると、噛まれたままの腕があらぬ方向へ曲がり、綿のような白い物が露わになる。普通ならば血が流れ、骨が折れてもいい所で、出てくるのは綿だけ、などという状況に、常人が耐えられるはずもなく、どうにかして食い込んだ牙を引き剥がそうとして、更に体を捻る。
と、腕が、千切れた。
「…うで、が…」
出血はない。骨が見えるなんて事もない。その跡は、綺麗すぎるほどに綺麗だった。まるで、その状態が通常だとでも言う様な。
しかし、痛いことには変わりない。意識がある時に自らの腕を引きちぎられるという経験は中々ない。意識を暗転させたるぅとが最後に見た物は、莉犬が自分の腕を咀嚼している所だった。