テラーノベル
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雨は、
帰る時間を狙ったみたいに降り出した。
ビルの入口で足を止めた若井の横に、
藤澤が並ぶ。
「……本降りだね」
そう言いながら、
藤澤は鞄から折りたたみ傘を取り出した。
一本だけ。
「若井、傘は?」
「持ってないです」
少し迷ってから、藤澤は言う。
「……じゃあ、入る?」
その言葉は、上司としては普通なのに、
なぜか胸が跳ねる。
「……お願いします」
傘の内側は、思ったより狭かった。
肩と肩が、自然に触れる。
避けようとすれば避けられる。
でも、雨がそれを許さない。
歩き出すと、
靴音と雨音だけが続く。
「近い?」
藤澤が小さく聞く。
「……大丈夫です」
嘘ではない。
ただ、余裕がないだけ。
風が吹いて、
雨粒が傘の端から跳ねた。
藤澤が、反射的に傘を若井側に傾ける。
「濡れるよ」
「藤澤さんが……」
「いい」
即答だった。
若井は、その横顔を見て、
視線を前に戻す。
これ以上見たら、
何か言ってしまいそうだった。
信号待ちで、立ち止まる。
距離が、さらに縮む。
藤澤の腕が、
若井の背中に、触れないぎりぎりまで近づく。
守る位置。
でも、
触れない。
「……若井」
雨音に紛れる声。
「この距離、
あんまり良くないね」
「……仕事的に、ですか」
「それもある」
「個人的にも」
信号が変わる。
歩き出すタイミングを、
二人は少しだけ間違える。
そのせいで、
腕が、ほんの一瞬、触れた。
すぐ離れる。
でも、
触れた事実だけが残る。
「家、もうすぐ?」
「はい」
若井がそう答えると、
藤澤は、少しだけ歩く速度を落とした。
終わりが近づくのが、
分かってしまうから。
建物の前で、立ち止まる。
雨は、まだ降っている。
「……送れてよかった」
藤澤が言う。
「上司として、正しい判断」
そう言い聞かせるみたいに。
若井は、少しだけ笑った。
「じゃあ」
「うん」
傘が、閉じられる。
距離が、元に戻る。
でも、
さっきまで共有していた空気が、
簡単には消えない。
「若井」
藤澤が、低く呼ぶ。
「風邪、ひかないでね」
それだけ。
でも、
それ以上、言えないのが、
はっきり分かる声だった。
若井は、軽く頭を下げる。
「……お疲れさまでした」
背を向けてから、
胸の奥が、じんわり熱くなる。
相合傘の内側に残った温度が、
なかなか消えなかった。
next …
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