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「明日も仕事だし、そろそろ帰るか」
ジュンのその一言が、チカを現実へと引き戻した。
さっきまであれほど長く感じていた時間が、この場所ではあっという間に過ぎ去っていた。
心のどこかで、タカユキのことを思いながらも、“もう少しだけ”と、そう願ってしまう自分がいる。
店を出ると、外は粉雪が静かに舞っていた。
吐いた息が白くかたまり、冷たい夜の空へと溶けていく。
「ごちそうさまでした」
チカの寂しげな声と、ミサキの明るい声が重なった。
ジュンはそんな二人に、穏やかな笑みで応える。
「また連絡する」
ケンはジュンにそう言い残し、チカとミサキに軽く会釈をして、駅とは反対の方向へ歩き出す。
「ケン君、どうして井の頭公園の方に行ったんですか?」
「いつも酔い醒ましで寄るんだ。七井橋にいると思うぞ」
ジュンがチカの背中を押すように告げる。
もう、迷っている時間はない。
悩んで立ち止まる余裕なんて、どこにもなかった。
「頑張ってね!」
ミサキも笑顔で、そっとチカの背中を押した。
「ミサキ、今日は本当にありがとう」
手を振るミサキとジュンに背を向け、チカは井の頭公園へと駆け出した。
駅前の喧騒が嘘のような、静寂に包まれた井の頭公園。
風に乗って舞う粉雪が、街路灯の明かりを受けて柔らかく光る。
その光が影となり、また光となって移ろう。
まるで夢の中にいるような幻想的な光景だった。
視線を落とすと、雪に霞むように浮かび上がる池と、その上に架かる七井橋。
その中央に、月明かりに照らされたケンの姿があった。
足音に気づいたのか、ケンがゆっくりと振り返る。
「君か……」
あの夜と同じ、悲しげな瞳だった。
冷たい風と張りつめた緊張のせいで、チカの声は微かに震える。
「あの日の質問の答え、たくさん考えました……。でも、結局わかりませんでした」
ケンは再び背を向け、手にしていたタバコの火を静かに消した。
「俺にもわからないんだ。今でも、自分が選んだこの道が正しかったのかどうか……」
粉雪はいつしか、大きな結晶へと変わり、二人の肩にそっと降り積もる。
「でも俺は、わからないまま“夢”を選んだ」
その言葉はまるで、選んだことを後悔しているように響いた。
「夢って……メイクのことですよね? どうしてその道に進もうと?」
チカがそっと問いかけると、ケンは舞い落ちる雪を仰ぎながら、静かに語りはじめた。
* * * * * *
今でも、まるで昨日のことのように鮮明に覚えている。
あの子に初めて出会ったのは、19歳の時。都内にある総合病院だった。
その頃、俺の祖母が体調を崩して、その病院に入院していたんだ。
ある日、祖母の見舞いを終えて帰ろうと、出口へ向かって病院内の廊下を歩いていた。
いつもなら何気なく通り過ぎる場所。けれど、その日に限って視界に飛び込んできたのは「小児科病棟」の看板だった。
なぜか足が止まった。
まるで誰かに導かれるように、自然とその病棟へと引き込まれていった。
小児科病棟に入ると、すぐに目に飛び込んできたのは、入院中の子どもたちが遊べるように設けられた室内公園だった。
小さなテーブル、ぬいぐるみ、カラフルな遊具。
そこで遊ぶ子どもたちは、誰もが笑顔だった。
その表情に、正直、驚かされた。
俺にとって病院という場所は、重く沈んだ空気と悲しみが充満していて、そこには静かで暗い時間しか流れていない――そんなイメージしかなかったから。
でも、違った。
病と闘う小さな体の子どもたちが、“笑顔”で遊んでいた。
それはあまりにも眩しく、あまりにも優しくて、胸の奥にあたたかな何かが灯った気がした。
その日から、病院に行くたび、俺は小児病棟へ足を運ぶようになった。
子どもたちと話したり、遊んだりすることが、次第に日課になっていった。
遊びながら、ふと思った。
目の前の子どもたちに比べて、自分はなんてちっぽけなんだろうと。
小さなことで悩んでいた自分が、恥ずかしくさえ思えた。
もしかすると、彼女もそうだったのかもしれない。
ある日、いつものように小児病棟で子どもたちと遊んでいると、少し離れた場所に、ひとりの少女が立っているのが見えた。
中学生くらいの年頃。
その子は何も言わず、ただじっと、こちらの様子を見つめていた。
寂しそうな、どこか影のある瞳だった。
「こっちで一緒に遊ぼう!」
俺がそう声をかけた瞬間、彼女は何も答えず、その場を離れていった。
いつもなら、そこで終わる。気にも留めない。
けれど、不思議と彼女のことが頭から離れなかった。
だから、なんとなく看護師さんに、彼女の名前を尋ねてみたんだ。
翌日も、彼女は遠くからこちらを見ていた。
そこで、俺は彼女の名前を呼んだ。
「アヤカちゃん! こっちで一緒に遊ぼう!」
すると、彼女は無表情のまま、ゆっくりと歩いて来て、小さく頷いた。
それが、アヤカとの出会いだった。
それからというもの、小児病棟で子どもたちと遊ぶアヤカの姿を、俺はよく見かけるようになった。
言葉も少なく、決して明るいとは言えない彼女だったが、次第に少しずつ、俺に心を開いてくれるようになっていった。
ある日、俺は彼女にそっと尋ねた。
「……何か悩みは、ない?」
アヤカは黙って視線を落とした。
その小さな背中が、何かを抱えていることを、俺は確かに感じていた。
「無理に言わなくてもいい。でも、もし話せるなら……力になれるかもしれない。話すだけでも、少しは楽になるかもしれないよ?」
しばらくの沈黙のあと、彼女は戸惑いながらも、ぽつぽつと言葉を紡ぎ始めた。
――幼い頃から、顔や体にひどいアトピーを抱えてきたこと。
――そのせいで学校ではずっといじめられていたこと。
――自分の見た目に強いコンプレックスを持っていること。
でも、不思議だった。
そんな辛い話をしているはずなのに、アヤカはかすかに微笑んでいた。
どこか吹っ切れたような、静かだけれど芯のある微笑みだった。
「でもね、ここに来て思ったの。私も強くなりたいなって。だって、この病院にいる子たちは、みんな笑顔で闘ってるんだもん。私も……笑顔で闘いたい。私にも、できるよね?」
「もちろん。絶対にできるよ」
その瞬間、心が震えた。
――この子の力になりたい。
――この子の、心からの“笑顔”が見たい。
そう思った俺は、必死に考えた。自分に何ができるのかを。
そして、ひとつの答えにたどり着いた。
“メイク”だ。
彼女に、メイクの力で自信を持ってもらえたら。
あのコンプレックスを少しでも忘れられるようになれば。
その“笑顔”を、引き出せるかもしれない。
そう思った俺は、病院にいる女性看護師さんたちに頼み込んで、メイクの基礎を一から教えてもらった。
同時に、ファッション誌を買い漁り、ネットや書籍で独学の日々を重ねた。
夜遅くまで、何度も何度も練習した。
だけど、苦しいなんて一度も思わなかった。
ただただ、アヤカの“笑顔”が見たかった。
その一心だった。
そして、1週間後――。
俺たちは病院の一角で待ち合わせをし、いよいよ初めてのメイクが始まった。
ファンデーションに触れる手。
ブラシを握る指。
手は氷のように冷たくなり、震えが止まらなかった。
それでもなんとか形にして、すべての工程を終えた。
俺は、彼女に手鏡を差し出した。
そして、鏡を覗き込んだアヤカの表情がふわりと変わっていく。
やがて、彼女の顔に浮かんだのは――今までで一番、キラキラと輝く“笑顔”だった。
それは、心からの笑顔だった。
今思えば、決して上手いメイクじゃなかった。
むしろ拙くて、ぎこちなかったかもしれない。
けれど、アヤカは心から喜んでくれた。
その瞬間、気づいたんだ。
メイクには、人を変える力がある。
たったひとつのメイクで、あんなにも眩しい笑顔が生まれるなんて。
もっとこの“笑顔”を見たい。
もっと、たくさんの人を笑顔にしたい。
そう思って、俺は本格的にメイクの道を歩き始めたんだ……。
* * * * * *
この時の私は、知る由もなかった。
声にならない心の叫びを。
今にもこぼれ落ちそうな心の涙を。
あなたが、どれほど必死にこらえていたのかということを――。
「素敵な話ですね。たくさんの“笑顔”が見たいっていうケン君の願いは、叶ったんだ」
「……“願い”、か」
「だって今も、ケン君のメイクで笑顔になった人、たくさんいるでしょう?」
私は知っている。
あなたが、ユウカちゃんを“笑顔”に変えたことを。
絶望の底にいた彼女を、もう一度生きる気持ちにさせたことを。
だから、だからこそ――
なのに、どうして?
どうして、そんなに悲しい目をするの?
すると、ケンはふと遠くを見つめたまま、不思議な問いを口にした。
「……君は、願いが“二つ”叶うとしたら、何を願う?」
一つじゃなくて、二つ――?
そんな問い、考えたこともなかった。
けれど、あなたは……何を願うの?
その問いの答えを聞く前に、ケンはそっと背を向けた。
深い闇の中へと、ゆっくりと歩き出す。
その背中を追いかけることもできず、私はただその場に立ち尽くすだけだった。
チカの胸の奥。
その真ん中に、温かくも冷たい“何か”が、そっと置き去りにされたまま――。