陽翔は髪と体を手早く洗い、浴槽を簡単に掃除し、パジャマも着ずに首にタオルを掛け、濡れた髪のまま台所へ行く。水分補給をするためなのだが、百子の作った味噌汁が気になったのだ。IHコンロに置いてある鍋の蓋を開けると味噌の香りがして陽翔の胃が小さく鳴った。
(少し食べるか)
陽翔はナスとミョウガの入った味噌汁をおたまで掬って、水の入ったマグカップとお箸を持ってテーブルにつく。程よい温度に冷めたそれが舌の上を踊り、嚥下すると彼の心に荒れ狂う悔恨と憤怒と空虚を徐々に和らげていく。
「美味しい……」
深山と飲んでいる時は味のしない重ためな食事しかできてなかったためか、尚の事彼女の作った味噌汁が、彼女の気遣いが胃に染み渡るように思える。ゆっくりと食べ進めていくうちに、段々と味噌汁もそれの入ったお椀もぼやけていったが、彼は希釈された視界の中でもう一度味噌汁をお椀に入れて再びゆっくりと咀嚼していた。
「百子……ううっ……」
時々しゃくり上げながらも陽翔は二杯目の味噌汁を食べ切ったが、今夜の飲み会での出来事が極彩色の闇となって駆け抜けてしまい、背中を丸めて震わせて、両手で顔を覆った。深山のあの開き直った、保身のことしか考えていない態度よりも、浮気をされた百子の気持ちを理解してくれなかった方が余程陽翔には堪えたのだ。証拠映像を見せ、彼女の気持ちを代弁したとて、それが伝わらない以上は陽翔の復讐は何の意味も持たない。言いたいことを言えたとて、陽翔の心には空虚がどこまでも広がっただけだった。残ったのは後味の悪さだけである。あの場で傷ついたのは陽翔自身であり、深山ではない。陽翔は全力で振りかざした刃をすんでのところで躱されたような心地がして、自身のやるせない感情の行き場をどうしたら良いのかと咽び泣いた。
(復讐は虚しいとはよく言ったものだ)
復讐を遂げたとしても、相手が苦しむ訳でもなく、会心する筈もない。むしろ仕掛けた方が空虚さに襲われる始末だ。陽翔はそれを承知していたが予想以上に心がズタズタに裂かれてしまい、次の計画への決心が揺らぎに揺らぐ。
(だめだ……まだ……)
顔から両手を離したその時だった。
「あれ? 陽翔……? ちょっと! 風邪ひくじゃないの!」
背後から聞こえる百子の訝しげな声が急に慌てた様子を見せた。程なくして首に掛けているタオルでガシガシと髪を拭かれ、ふわりとその肩に何かが掛けられる。
「はる、と……? どうしたの?」
百子はようやく彼から湿っぽい雰囲気が出ていたのを察知して、まずはパジャマを着るように彼に促した。彼が泣くところを見たことが無い百子は、頬に残った筋を見てひどく狼狽していたが慌てて首を振る。
(だめよ。私がしっかりしなきゃ。さっきはちょっとびっくりしただけだもん)
「少し……思い出しただけだ。それと百子、味噌汁ありがとう。美味かったよ」
陽翔は下を向きながらお椀とお箸をシンクに持っていく。百子も彼の後について行き、ハーブティーのお湯を沸かそうとやかんを取り出したが彼の手が百子の腕を掴んだ。
「百子、お茶はいい。それよりも……聞いてくれるか?」
昏い瞳が百子を見下ろし、彼女はIHコンロと彼を交互に見たが、諦めたようで頷いた。そのまま二人でソファーに座り、百子は彼に近づいて彼の肩にそっと手を置いた。
「陽翔……そんなに辛いことが飲み会であったの?」
「ああ……正確には嫌なことを思い出したとも言えるが」
陽翔の歯切れがいつになく悪く、百子は思わず身構える。だが彼が話す気になっている以上、百子が逃げ出す訳にはいかなかった。
「そう、なの……陽翔、貴方は勇敢ね。そうやって自分の嫌なことを誰かに話そうとしてるんだから。ゆっくりでもいいから聞かせて?」
陽翔は伏せていた顔を上げたが、再び下を向いてしまった。
「……ありがとうな」
そして彼は百子を抱きしめた。彼女の温もりが陽翔の冷えきった心を再びじんわりと温め、それにうっとりとして百子の背中を擦る。だが流石にその姿勢だと話しにくいので、名残惜しいが彼女から腕を離して彼女と向かい合う形になった。百子は自分の心臓が時間を追うごとに大きくなっていくのを感じて口元を強く引き結んで彼の言葉を待つ。陽翔の眼鏡の奥は未だに揺れていたが、覚悟を決めたようで瞳に強い力が徐々に現れていった。
「百子、俺……今日お前の元彼に会ってきた」
百子の表情がぴしりと音が聞こえるくらい強張った。陽翔はしまったと感じたが、彼女の震える声が続きを促すのでぽつぽつと話し始める。
今日は取引先の会社に行ったこと、そこでいつもの担当者が深山に変わっていたこと、彼に飲み会に誘われて行ってきたことを話すと、百子の顔は蒼白を通り越して土気色になっていた。
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