雨に濡れた草の匂いが僕は好きだった。むせ返るほどの、生命の匂い。
日課にしている朝のランニングのために外に出ると、気がつかなかったが昨夜雨が降ったらしく道が少し濡れていて、埃っぽいような匂いがした。街の匂いだ、と僕は思う。故郷にはなかった匂い。鼻の奥がツンとして、ただ何となく「帰りたい」と思う。
故郷に似た景色や小さい頃よく食べた物、嗅ぎなれた匂い……そういったものよりも、かえって全く正反対のものを経験した時の方がよっぽど僕は、郷愁に駆られるのだった。
世間はゴールデンウィークなので、ゆっくりとした気分で走れるのは早朝のわずかな時間帯だけだろう。それにどうせ今日も仕事だ。感傷に浸っている場合では無い、と僕は思いっきり地面を蹴った。住宅街を抜け、土手から河原へと下りることの出来る階段を跳ねるように駆け下りる。時刻は5時。もううっすらと明るい空のもとで、ランニングコースとしても人気の高いその河原には幾人かが走っている。気づく人もいないだろうけど、と一応キャップを深く被り直し、息を深く吸う。懐かしい匂いがした。雨に濡れた時特有のはじけるように青々として、こちらを絡め取るような甘さも備えた草木の匂い。
あぁ、いいな。夏が来るのだ。植物がみな生き生きとその体積を広げ、空はどこまでも青く、雲とのコントラストを演出し、太陽の光はめいっぱいに僕らを照らし出す。世界全てがはっきりと色彩を放つ季節。僕は夏が好きだ。
河原を上流の方へ走っていくと、閑静な一戸建ての住宅街が土手沿いにやがて現れてくる。なんとなく空の方を見上げていると、あるものが視界に入ってくることに気づく。それはカラフルな鯉のぼり。七色にはためく帯を筆頭に、黒を基調に金色の線がきらめく真鯉が最も大きく、赤にオレンジの線がなめらかに描かれる緋鯉がそれに続く。それから少し小さめの青の鯉と、薄桃の鯉。あぁ、そうか、今日はこどもの日。端午の節句なのだ。
実家の鯉のぼりはどうしているかな。最も大きい黒のそれがお父さんで、赤いのはお母さん。その下が僕で、僕はひとりっ子だったのに何故かさらに小さな鯉もひとつ泳いでいて、それには実家の犬の名前をつけていた。5月の明るい陽射しに照らされて、新緑の風に泳ぐ鯉のぼりたちをいつも目を輝かせながらみていた。
都会では背の高い建物も多く、そもそも戸建ての家が限られるのであまり鯉のぼりを見る機会がない。なんだかいいもの見ちゃった気分だな、と僕は足を止め、鯉のぼりの写真を撮る。送り先は恐らくまだ部屋で寝ているであろう元貴。帰る頃には起きているかな。いや、昨日も夜遅かったしまだかも。もし起きていたら元貴にも鯉のぼりにまつわる思い出話がないか聞いてみよう。ついでにコンビニで柏餅とか買っちゃおうかな。みそ餡のやつって普通にどこでも売ってるのかな。スマホをポケットに戻して再び走り出す。少し高くなった太陽の光と緑の匂いが柔らかに僕を撫でていく。
あぁ、帰りたいな。でもそれは寂しさからくる差し迫ったものではなくて、そう、いつか君に鯉のぼりを見せながら思い出話ができるような、そんな「帰りたい」が僕の心をいっぱいにしていた。
コメント
10件
あぁ、、もう本当に「好き」が詰まってるお話、、😭✨ 表現がリアルで、読んでて映像が浮かぶんだよね、天才すぎる しかも涼ちゃん本当に鯉のぼりの余ったのにワンちゃんの名前つけてそうだな、とかそういうところでもリアルを演出してて、もうめちゃくちゃに好き、、!!
もぉぉ天才ですやん。🫶🫶🫶
更新ありがとうございます。 いろはさんの表現がますます素敵になって、情景がスッと見えてくるみたいです。 最近のお話すごーく大人っぽくて、魅力的です✨