十二月。
あっという間に今年最後の月になってしまった。
京之介くんとは変わらず交際を続けている。
鞍馬とは連絡を取っていないし会ってもいない。
最初は多少気になったが、これが正しい在り方なのだと割とすぐに自分を納得させることができた。
そもそも浮気をしてはいけないことを忘れてはならない。
これが普通で正しいのだ。京之介くんで足りない分を鞍馬で埋めるなんてやり方はどのみちいつまでも続けるべきことじゃない。
ただ――私の望むセックスの頻度と京之介くんがしてくれる頻度に差異がある分、欲求不満が溜まっていく。
京之介くんが家に居ない時こっそり鞍馬との動画を見返しては一人でする始末だ。
日頃運動していないから疲れが溜まらず性欲が強まるんだろうと思って、最近は自転車でなく徒歩で通学している。
決めた通り歩いて帰る途中、ふと思いついて大学最寄りのコンビニに寄ると、レジに並ぼうとして見知った顔に出くわしてしまった。
休憩室で鞍馬とよく一緒に居る鞍馬と同じ学年のチャラ男。
仲良くはないがなまじ喋ったことも関わったこともあるだけに、無視するのもちょっとという関係性がこういう時一番困る。
どうしようと思いながら見えていると、こちらに気付いたチャラ男が「瑚都じゃないっすか!」と手を振ってきた。
仕方なくその後ろに並び、「……呼び捨て?」という顔をする。
「あっスンマセン!鞍馬がいつも瑚都って呼んでるんで感染っちゃいました」
「あー……まあ、別にいいけどね」
「何買うんスか?なんも持ってないじゃないっすか」
「肉まん買いにきただけだから」
今日は早めに帰ることになったけど、お昼ごはんをまだ食べていないのだ。
というかそう言うチャラ男も何も持ってないなと思っていたら、クリスピーチキンゆず胡椒味とカフェラテのM、セブンスター?とかいう煙草を買い始めた。
カフェラテを買っているのを見ると私も飲みたいなと思い、買う予定になかったけれど注文してしまった。
お馴染みのカップが渡されたので、それと肉まんを持ってチャラ男のいるコーヒーマシンのところへ行く。
「おっ、瑚都もカフェラテすか?」
「あんたが買ってるの見たら飲みたくなっちゃった」
「なんかアレっすね。スタバとかに慣れてると、ファミマのカフェラテ相当安く感じるっすね。今日寒いし温まる飲み物飲みたくて~」
コーヒーマシンにカップを置いてホットカフェラテがカップに注がれるまでの時間、チャラ男は一人でべらべらと喋り続けた。
このコミュ力は見習いたい。
テーブル席のないコンビニなので仕方なくカップを持って一緒に外へ出た。
カップの温もりが冷える指先を温めてくれる。
「そういや、最近鞍馬新しいところでバーテン再開したらしいですよ」
予想外にも鞍馬の名前を出されて一瞬動揺を表に出してしまいそうになったが、「ふーん」という薄い反応に留めることができた。
「あいつも苦労してるんスよ~。実家の親が弟にばっか金出して鞍馬に学費も生活費も一銭も出してなくて、今ばあちゃん家に住んで何とか生活してるらしいっす」
「仲悪いの?あの人。実家と」
「いやあそれが、昔水難事故に遭ったかなんかで……あ、すんません、吸っていいですか?」
何か言いかけて、その前にと先程買った煙草を袋から取り出そうとするチャラ男。
「あー……煙草苦手なんだよね。私が去った後でお好きに」
「えっ!?マジすか、じゃあやめときます」
「いや、いいよ。吸いたきゃ吸って。また学校で会おう」
早めに帰りたかったというのもあり、いいタイミングだと思って話を切り上げた。
ホテルの帰りの朝、学校まで乗せていってもらうために一度だけ寄った鞍馬の家を思い出す。
木造の、いかにも古い家だった。実家だと思っていたけれどあれは祖父母の家だったのか。
あんな風にいつもヘラヘラしているけど、金銭面では苦労してるんだな。
私は親のお金で大学院まで行かせてもらっている。でも誰もがそうというわけじゃない。
改めて自分の恵まれた環境に感謝しながら、マスクを外して白い息を吐いた。
空は曇っている。
クリスマスシーズンに染まったスーパーで買い物をしてから、久しぶりにおじいちゃんたちの家へ行った。
退院したおばあちゃんはすっかり元気な様子で、「ほな買い物行ってくるわ!」と言って自転車をこいでどこかへ出かけてしまった。
年齢の割に元気すぎるだろう、と少し笑ってしまう。いつまでもあの調子でいてほしいものだ。
チャラ男と話したことで思い出したが、あのチャラ男、春に祖父を亡くして関東に戻り、関東圏へ移動した分の二週間の自宅待機も含めてしばらく研究室に来ていなかったことがある。
たしか戻ってきた時、「葬式で悔しくてクソ泣いたわ~!」なんて休憩室で笑いながら話していた。
何で悲しいじゃなくて悔しいなんだと聞けば、祖父が入院をしたことは聞いていたが、コロナがまた流行り出したこともあり帰省を自粛したと。最後まで会いに行っていなかったらしい。
「今やれることは今やっといた方がいいですよ!後悔しないように」――チャラ男がそう言っていたのを思い出して、たまにはおじいちゃんたちに会いに行こうと思った。
それを言い出すと、人間なんて誰がいつ死ぬか分からないものだけど。
「おじいちゃん、珈琲入れようか」
椅子に座って虫眼鏡を使って新聞を読んでいるおじいちゃんの顔にできるだけ近付いて聞く。
おじいちゃんは耳が遠いのでこれくらいの距離でないとはっきりとは聞き取れないだろう。
おじいちゃんの顔がこちらを向いて、「珈琲?うん、入れてくれたら嬉しいわ」と笑顔になってくれた。
おじいちゃんは昔から苦い珈琲が好きだった。私はいくつになってもブラックが飲めないので、私からしたら不思議な味覚だ。
「最近ね、珈琲入れること多いんだ」
珈琲の粉を棚から取り出しながら、普段より少し声を張っておじいちゃんに話しかける。
すると、おじいちゃんが言った。
「京之介とか」
「えっ?」
びっくりして珈琲の粉が入った袋を床に落としてしまった。
クリップで入り口を留めているからよかったものの、開いていたら床が大惨事だっただろう。
京之介くんと頻繁に会っているなんて話はしていない。
おじいちゃんを凝視するが、おじいちゃんは一拍置いて、「京之介も心配やでのう」と言った。
「暗なった。くらぁい、くらぁい顔じゃ」
いつも会っている京之介くんの顔を思い浮かべるが、無愛想とはいえ別に暗い顔ではない。
そうかな?なんて疑問を抱いた直後、おじいちゃんが「おまえさんがこっち来はるいう話になってから、明るなった」と言った。
「ありゃ相当好きやな。瑚都ちゃんのこと」
「……いや、」
――それは違うよ。
と否定したかったが、おじいちゃんに詳しく言える話ではないと思ってやめた。
「……おじいちゃん、どこまで分かってるの?京之介くんと会った?」
お湯を沸かしながらおそるおそる聞く。
「最初っから分かっとったよ。瑚都ちゃんたちは、男女の仲になるなて」
「最初からって……」
「瑚都ちゃんがこっちに来るちょっと前から見えだした。縁のある男女は、糸で繋がっとるもんじゃ」
おじいちゃんは昔からこうして不思議なことを言うし、異常に勘が鋭い。
糸とやらが本当に見えているのかは分からないが、こちらが言っていないことをいつの間にか把握している時はこれまでも稀にあったので、私はおじいちゃんのことを微妙に超能力者なんだと思ってる。
「言わないでね、おばあちゃんには」
「言わんよ。あまり賛成しはると思えんしな」
そう、京之介くんと私は近すぎる。
昔から家族ぐるみで会っているし、私の親族から見れば兄妹のようなものだろう。
だから家族の誰にも言うつもりはなかった。
おじいちゃんの前に珈琲を置いて、私も新しいカップを出して半分ほど注ぎ、牛乳を混ぜてからおじいちゃんの隣に座る。
すると、おじいちゃんがこちらを見ずにぽつりとそう呟いた。
「わしはまた、川に持ってかれてしまうんか」
「……うん?」
「宝のように大事なもんは、みぃんな、川の中へ行ってしまう。呪いやねえ」
おじいちゃんは、私が大学に上がった頃くらいから、たまにこうして脈絡のない話をするようにもなっている。
もう歳なのでそんなものだろう。私は首を傾げつつ、自分の入れた珈琲を飲み込んだ。
自分の部屋にある珈琲豆を使った味からはかなり離れていたが、これはこれで美味しいと思った。
夜になり、自分の借りているマンションの部屋に戻ると、中には既に京之介くんが居た。
京之介くんには合鍵を渡しているので、いつでも入ってこれるようになっている。
「どこ行ってたん?」
「おじいちゃんの家。バレてたよ、私たちのこと」
「はあ?……怖」
京之介くんには予め、今日は外で食べるので晩ご飯を作れないと伝えてある。
そのため食事を外で済ませてきたらしい京之介くんは、有り難いことに洗濯物をしてくれていた。
「あの爺さんやっぱ能力者ちゃうか」
「だよねえ」
京之介くんが私と同じことを考えているので、可笑しくて思わずぷっと吹き出してしまった。
「あと、なんか、変なこと言ってた」
「変なこと?」
「また川に持っていかれてしまうのか、みたいな。たまに言うよね、ああいうこと。お姉ちゃんのことかなって思うんだけど……」
隣に立って一緒に洗濯物を干しながら、京之介くんの前では避けていたお姉ちゃんの話題をぽろっと出してしまい、ハッとして頭の中で必死に別の話題を探した。
「そういえば、京之介くんは今日の晩何食べ――」
「瑚都ちゃん」
京之介くんの声がいつもとは違っていたため顔を上げる。
その表情を見る前に、大きな体躯で全身を包み込まれた。京之介くんの、私と同じ柔軟剤の香りがする。
「瑚都ちゃんは、俺のこと置いていかんでな」
「……え、」
「川に連れてかれんといて」
「……」
「ひとりは、嫌や」
それが泣きそうな声であることに気付き黙ってしまった。あの夏の、あの畳の間と同じ、京之介くんの泣きそうな声。
「終わる時は一緒になろ。いつか一緒に溺れて死のうな?瑚都ちゃん」
何とかもぞもぞ動いて、京之介くんの腕の中から顔を出してその表情を見上げる、――その表情は本当に可愛いものを見る時のそれで、私を通して見ている女性が余程愛おしいのだと伝わってくる。
私がしばらく黙っていると、京之介くんは情けなさそうに自分の頭を押さえた。
「ごめんな、俺、ほんまにあかんわ。瑚都ちゃん見てると、……」
「いいよ。怒ったりしないよ。京之介くんが好きなのはお姉ちゃんでしょ?私見てるとお姉ちゃんのこと思い出して不安になるんだよね。お姉ちゃんが好きなところも含めて京之介くんだし、私はそんな京之介くんが好きだからいいんだよ。私は京之介くんを置いていったりしないし、死ぬ時は傍に居る。だから、そんな泣きそうな顔しないで」
今度は私が京之介くんを抱き締めて、その頭を撫でて言う。
やっぱり京之介くんは川の話やお姉ちゃんの話をすると不安定になる。できるだけ安心させられるように、優しい声で落ち着かせた。
京之介くんがまた私の背中に手を回し、縋るように呟く。
「俺、たまに夢に見るんよ。瑚都ちゃんが川に溺れていく夢。瑚都ちゃんがあん時の男の子のこと追っかけて、俺がいくら止めても川ん中入ってって戻らんくなる」
京之介くんの口からあの時の男の子の話が出されると思っていなくて、びっくりして何も言えなくなった。
今あの時の男の子と大学で再会して、少し前まで抱かれていたなんて言ったら、京之介くんは驚くなんてものじゃないだろう。
「……もう川遊びなんてする年齢じゃないし、溺れる機会もないよ」
「瑚都ちゃん一回溺れかけとるし、信用できひん。どんくさいし」
「ひ、ひどい」
私がわざとらしく落ち込んだことで、ようやく京之介くんが笑った。
「まぁ、そん時は俺が助けたらええか」
私はその笑顔が昔から大好きだった。
ほっとすると同時に、じゅくりと嫌な気持ちが心臓の奥を侵食する。
好きなのはお姉ちゃんでしょ?という問いに、京之介くんは形だけでも否定することをしなかった。
別に否定されたかったわけではないけれど、私の頭で考えていただけのことが事実として突き付けられて、酷く重い気持ちになる。
ああ――抱かれたい。
全部忘れられるくらいめちゃくちゃにされたい。
そして私は私をうまくぐちゃぐちゃにできる人間はこの京都の地に一人しか居ないことを知っている。
鞍馬からの返信は、来ないままだ。
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