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92
七星そら
67
お久しぶりです。
設定から情景描写など推敲に推敲を重ねているので、更新遅いです。
本当に長いですが、かなり拘っているので読んでいただけると嬉しいです。
◆
宴の翌朝。
あれほど賑やかだった紅瀬組の屋敷は、何事もなかったかのように静けさを取り戻していた。
昨夜遅くまで響いていた笑い声も、盃のぶつかる音も、今はもうない。
広間では女中たちが手際よく膳を片付け、廊下には酒の残り香が漂っていた。
朝の光が、磨き上げられた廊下を白く照らしている。
屋敷は再び、いつもの顔へ戻っていた。
その縁側に、暇は一人腰を下ろしていた。
膝の上には開いたままの本。
けれど、頁はしばらく前から止まったままだった。
文字を追っているようで、何も頭に入ってこない。
昨日の宴も、祝いの言葉も、酒に酔った組員たちの笑い声も。
どこか自分とは違う世界の出来事だったように思えた。
風が頁をぱらりとめくる。
暇は押さえるように本へ手を添えた。
その時だった。
玄関の方から、小さく戸の開く音が聞こえた。
誰かが屋敷へ帰ってきた。
足音は静かだった。
暇は自然と顔を上げた。
廊下の向こうから姿を現した青年と目が合う。
「……おはようございます、若。」
穏やかな笑みを浮かべたすちは、小さく頭を下げた。
「おはよ。」
それだけ返すと、すちは安心したようにはにかんだ。
「昨日は、お疲れになりませんでしたか。」
「少しな。」
「皆さん、嬉しそうでした。」
「あぁ。」
不思議と気まずくはならない。
流れた沈黙も、幼い頃から積み重ねてきた時間が埋めてくれた。
風が吹き、二人の間を梅の香りが通り抜ける。
その穏やかな空気を破ったのは、屋敷の奥から聞こえた誰かの声だった。
「碧海!」
「今、行きます。」
すちがそう言って暇に軽く会釈をして、歩き出しかけた、その瞬間。
懐から、小さく折り畳まれた紙がはらりと地面に落ちた。
すちは素早く身を屈めてそれを拾い上げる。
その仕草が、どこか不自然だった。
周囲を気にするような、警戒するような目線。
その表情からは何も読み取れない。ただ、普段の穏やかな笑みは消えていた。
「すち。」
暇が名前を呼んだ。
拾い上げられた紙は、すぐさま懐の奥へ戻される。
振り返った時には、もういつもの笑顔だった。
「どうされましたか。」
「……いや。」
暇は首を横へ振る。
「呼んだだけ。」
「そうですか。」
柔らかく笑う。
何も変わらない笑顔。
けれど、ほんの一瞬だけ見えた横顔は、その笑顔とはまるで違っていた。
気のせいだったのかもしれない。
そう思うことにした。
気付かないままでいることも、この世界で生きる術なのだと、覚えてしまっていた。
「では、行ってきます。」
すちはもう一度頭を下げ、廊下の向こうへ消えていく。
姿が見えなくなるまで、暇はその背中を見送っていた。
◇
屋敷の裏手。
人気のない渡り廊下で、すちはようやく足を止めた。
静かに深呼吸をし、懐から先ほどの紙を取り出す。
丁寧に折り畳まれたそれを開き、書かれた文字へ目を落とす。
暫く黙って見つめたあと、小さく紙を畳み直すと、それ以上は何も考えないようにと首を振った。
再び紙を仕舞うと、すちは何事もなかったように歩き出した。
屋敷のどこかから、暇の声が微かに聞こえる。
すちは思わず足を止めた。
一瞬だけ目を閉じ、小さく息を吐く。
そして、微笑みを作り直し、屋敷の奥へと消えていった。
◇
枝先の若葉はすっかり色を濃くしていた。
春の名残を残していた庭も、初夏の景色へと変わり始めている。
季節が移ろう中でも、紅瀬の屋敷には変わらない日々が流れていた。
「若、すち。」
庭先から翠の声が掛かる。
縁側に腰を下ろしていた暇と、その隣で書類へ目を通していたすちは、同時に顔を上げた。
「少し庭をお願いできるかしら。雑草も生え始めているし、この前の雨のせいで枝が落ちてしまっているの。」
「はい。承知いたしました。」
すちはすぐに立ち上がった。
暇もその後に続き、縁側から庭へ降りる。
箒を手に、散った花びらを集めたり、伸びた雑草を抜いたり、見よう見まねで庭を整えていった。
「若、それは抜いてはいけませんよ」
「これは?」
「それも駄目です。」
「……あれは?」
「去年、翠さんが植えた苗ですよ。」
暇は手を止め、足元を見下ろした。
「……むずい。」
思わず漏れた一言に、すちはくすりと笑う。
「箒の扱いはお上手なのですが。」
「お前、それからかってんだろ。」
「いえ、褒めていますよ。」
「嘘つくな。」
他愛のないやり取りに、庭へ柔らかな笑い声が落ちる。
縁側では、みことが二人の姿を眺めていた。
その隣へ、盆に茶を乗せた翠が腰を下ろす。
「楽しそうね。」
「……そうですね。」
みことはそう答えながらも、視線をすちから外さなかった。
すちは暇の隣で手を動かしている。
その様子だけを見れば、幼い頃から変わらない、いつもの二人だった。
暇の前ではずっと同じ穏やかな顔をしている。
任務の時の、冷酷な態度からは到底想像ができないような、柔らかい表情。
その切り替えの早さが、みことに時折、引っ掛かっていた。
「……あの方は、掴めないですね。」
みことがぽつりと呟く。
翠が隣で静かに湯呑みを傾けた。
「すちのこと?」
「はい。」
少し間を置いて、みことは続けた。
「あの方が此処に来て10年経ちますが、今でも何を考えているのか、よく分かりません。」
翠はすぐには答えなかった。
「いるまさんは違います。」
みことは呟く。
いるまもすちと同じように、危険な仕事をする人間。
必要なら手を汚し、誰かを傷つけることも躊躇わない。
それでも、屋敷の人間は誰一人として、いるまを遠巻きにはしなかった。
誰もが知っているからだ。
いるまがどれだけ紅瀬のために動いてきたのかを。
何を守り、何の為に生きてきたのか。
けれど、すちは違う。
紅瀬へ来てからの年月は、いるまに比べれば短い。
そして、すちは自分を一切語らない。
紅瀬をどう思っているかも、みことには判断できなかった。
それが、護衛としての警戒心を高める。
「私は、若が生まれた時から傍におりました。」
みことがそう言うと、翠は静かに頷いた。
「ええ。だから気になるのでしょうね。」
責めるような声ではなかった。
みことだって、すちを疑いたいわけではない。
暇がすちといる時だけ、幼子のように笑うことを知っている。
暇のことを考えるほど、簡単には遠ざけられなかった。
庭では、二人がまだ何か言い合っている。
その声を聞きながら、みことは小さく溜息を吐いた。
今はまだ、見ているしかない。
◇
庭仕事が終わる頃には、昼の陽が高くなっていた。
「疲れた……」
「そうですね。」
すちは笑いながら、庭に残された道具を片付けていく。
暇は縁側に座り、その背中をぼんやりと眺めていた。
庭に残った若葉が風に揺れている。
縁側には暖かな日差しが落ち、身体を動かした後の疲れが、少しずつ瞼を重くしていった。
暇は何度か瞬きをした。
それでも眠気は消えない。
すちが隣へ腰を下ろした時には、もう身体から力が抜け始めていた。
「若?」
呼ばれても、返事はない。
暇の身体がゆっくりと傾き、そのまますちの肩へ寄りかかる。
すちは一瞬だけ目を見開いた。
起こそうとはしなかった。
肩へかかる重みをそのまま受け止め、暇が落ち着いて眠れるように、姿勢を整える。
やがて、穏やかな寝息が聞こえてきた。
すちは傍に置かれていた羽織を手に取り、暇の肩へそっと掛ける。
「……寝ちゃったのね。」
翠が近くまで来ていた。
「ええ。今日はよく動いていましたから。」
翠は眠る暇を見つめる。
その表情には、母親としての優しい笑みが浮かんでいた。
「起こさなくていいわ。」
「はい。」
それだけ言うと、翠は二人を残して静かに離れていった。
すちは暇の寝顔を見下ろした。
幼い頃から、暇はこうして自分の傍で眠ることがあった。
これほどまでに幸せで、満たされる瞬間はなかった。
この日常を知らないままでいられたなら、そのほうがよかったのかもしれない。
それでも、離れることはできなかった。
◇
夕暮れが屋敷を橙色に染め始めた頃、玄関の戸が開いた。
聞き慣れた足音に、屋敷の空気が少しだけ変わる。
「お疲れさまでした、いるまさん。」
「今日は早かったですね。」
「組長がお待ちです。」
いくつもの声が飛んでくる。
いるまはそれぞれに短く返しながら、廊下を歩いてきた。
暇の姿を見つけると、その前で足を止めた。
「……いるま。」
眠気の残る声で暇が名前を呼んだ。
いるまは昔から変わらない仕草で、暇の頭を軽く撫でる。
暇は、両親の記憶をほとんど持っていない。
顔も、声も、抱き上げられた感覚も。
それでも、いるまの掌に触れられると、なぜか安心感があった。
父親とは、もしかしたらこんなものだったのかもしれない。
そんな曖昧な感覚だけが残っている。
「眠そうだな。」
「寝てた。」
「そうか。」
いるまはそれ以上何も聞かなかった。
いるまは一度だけ、隣のすちへ視線を向けた。
すちも静かに頭を下げる。
いるまはすぐに視線を戻した。
その時、廊下の向こうから若衆が声を掛けてくる。
「いるまさん、例の件ってーー」
「あぁ、後で話す。」
誰もいるまの仕事を恐れない。
長い年月をかけて、得てきた信頼。
暇はその様子を眺めていた。
皆に頼られているいるまは、自分をよく気にかけてくれる。
翠も、みこともすぐ近くにいる。
ちゃんと知っていても、此処では息が詰まることが多い。
六歳の頃。
些細なことで拗ねて、庭の隅へ隠れた。
少し、一人になりたかっただけだった。
けれど、見つかった時には、大勢の大人が駆け寄ってきた。
名前を呼ばれ、無事を尋ねられ、怪我はないかと何度も確かめられた。
幼い暇には、その光景が何故か怖かった。
自分一人がいなくなっただけなのに、どうしてこんなに大勢が騒ぐのだろう。
どうして皆、そんな顔をするのだろう。
そしてその心配が、自分へ向けられたものではなく、「紅瀬の若頭」がいなくなったことへの動揺に見えてしまったのはどうしてだろう。
自分が愛されていないとは思わない。
けれど、幼い時に抱いてしまった違和感と不信感は、そう簡単に消えはしなかった。
自分が、本当に誰かの目に映っているのか、分からなくなってしまった。
あの日から、暇は誰かに甘えることをやめた。
寂しいと言わなくなった。
一緒にいてほしいとも言わなくなった。
眠れない夜に誰かを呼ぶことも、いつの間にかなくなった。
そうして、気付けば十年が過ぎていた。
「若?」
いるまの声で、暇は我に返った。
「……ん、何?」
いるまは少しだけ暇を見つめた。
「いや、なんでもねぇわ。」
無理に聞こうとはしなかった。
大切に思っている。
守りたいと思っている。
その気持ちが暇に伝わっていないことにも、いるまは気付いていた。
いるまが廊下の向こうへ去っていく。
暇はその背中を見送った。
溜息を漏らした。
翠がいて、いるまがいて、みことがいて、組の皆がいる。
何も心配する必要はない。
そう思っても、胸の奥にある孤独だけは、どうしても消えてくれない。
ただ、すちが隣にいる時だけ。
その孤独を忘れていられた。
暇は何も言わず、隣に立つすちを見上げる。
すちはいつもの穏やかな顔で、こちらを見返していた。
それだけで十分だった。
◇
梅の花は散り、枝先には若葉が芽生えていた。
春はまだそこにあったが、庭の景色は少しずつ色を変え始めている。
穏やかな日々は何ひとつ変わらないまま過ぎていった。
深い宵が街を包む頃、すちは静かに屋敷を後にした。
人通りの少ない裏道を抜け、街外れにある老舗の料亭へと向かう。
暖簾をくぐり、案内されたのは、一番奥の座敷。
襖を開けると、そこには二人の男がいた。
上座に静かに腰を下ろす男。
傍らには、一人の男が腕を組み、庭へ視線を向けていた。
すちが入室すると、その男がゆっくりと振り返る。
「来たか。」
すちは何も答えず、畳へ膝をつく。
深く頭を下げた。
「お久しぶりです。」
部屋を満たす空気は、紅瀬の屋敷とは全く違う。
上座にいるのは、浅葱組組長。
隣に立つ男は、桃李らん。
すちを拾い、育ててきた人間だった。
静けさの中、湯呑を置く小さな音だけが響く。
組長はすちに視線を向けることもなくゆっくりと口を開いた。
「報告を。」
すちは淡々と口を開く。
親戚団体の出入り。
屋敷の警備の配置。
若衆たちの動き。
事実だけを報告していく。
紅瀬で見聞きした出来事は、何一つ洩らすことなく浅葱へ渡されていく。
それが、自分に与えられた役目だった。
最後まで聞き終えた組長は、小さく頷く。
「よく見ているな。」
すちはさらに頭を下げる。
「忘れるな。」
部屋の空気が張り詰めた。
「お前は紅瀬の人間ではない。」
ほんの一瞬だけ生まれた沈黙を、組長は見逃さなかった。
鋭い視線がすちへ向けられる。
「碧海すち。」
「……はい。」
すちは視線を伏せたまま答えた。
「お前は浅葱の犬だ。」
何度も聞かされてきた言葉だった。
拾われたあの日から、ずっと教えられてきた生き方。
迷う理由など、あるはずがない。
あってはいけない。
「そのことだけは、決して忘れるな。」
「承知しております。」
短く答えると、組長はそれ以上何も言わなかった。
もう用はないと言わんばかりに手を払う。
すちは深く一礼し、座敷を後にした。
廊下へ出ると、後ろからゆっくりと足音が近付いてくる。
振り返れば、らんが煙草を指先で弄びながら歩いていた。
二人は並んで廊下を進む。
どちらも口を開かない。
庭では鹿威しが穏やかな音を立て、柔らかな光が廊下へ落ちていた。
やがて、らんが小さく息を吐く。
「最近、少し疲れてるな。」
独り言のような声だった。
すちは苦笑する。
「そう見えますか。」
「あぁ。」
しばらく沈黙が続く。
互いに話せないことばかりだということを、2人は知っている。
暫く歩いたところで、らんが足を止めた。
「紅瀬は居心地がいいか。」
不意に投げられた問いに、すちも歩みを止めた。
答えはすぐには出てこない。
返すべき言葉は分かっている。
それでも、一瞬だけ喉の奥で詰まった。
「……任務ですから。」
ようやく絞り出したその一言に、らんは小さく頷いた。
「そうだな。」
否定もしない。
肯定もしない。
それ以上は何も言わなかった。
すちは一礼すると、そのまま屋敷を後にする。
胸の奥には、いつからか鈍い重さが居座っていた。
紅瀬で過ごす時間が長くなるほど、その重さは自分の中へ積み重なっていく。
けれど、それを誰かに打ち明けることは許されない。
自分は浅葱に拾われた命であり、浅葱のためだけに生きるよう育てられた人間。
それが自分の存在価値であり、決して揺らいではならない。
だから何度でも、自分へ言い聞かせる。
紅瀬は任務だ。
自分は浅葱だ。
それでも、不意に脳裏へ浮かんだのは、縁側で穏やかに微笑む暇の姿だった。
何も知らずに笑いかけてくれたあの表情を思い出すたび、胸の奥が僅かに軋む。
すちは俯き、その面影を振り払うように歩き出した。
もうすぐ、任務の時間だった。
◇
夜の港町は、人の気配を失っていた。
昼間は大型トラックが行き交い、機械音が絶えない倉庫街も、日が暮れれば静まり返る。
遠くから聞こえる波の音だけが響く。
路地は薄暗い街灯が照らし、潮風に混じって金属と油の匂いが流れていた。
その奥に、一人の男が追い詰められていた。
錆びたコンテナへ張り付き、震える手で拳銃を構えている。
汗が頬を伝い、握り締めた指先は小刻みに震えていた。
その視線の先には、黒いスーツを纏った二人の男が静かに立っている。
杜若いるまと、碧海すち。
二人とも表情は変えない。
「終わりだ。」
いるまが告げる。
その一言を合図にしたように、男は悲鳴を上げながら引き金を引いた。
乾いた銃声が夜を引き裂く。
けれど、その弾丸が二人へ届くことはなかった。
発砲の瞬間には、すちはすでに男の目の前まで踏み込んでいたからだ。
手首を掴み、その勢いのまま腕を捻る。
絶叫と共に拳銃が地面へ転がり、腹部へとすちの膝がめり込む。
男は息を詰まらせ、その場へ崩れ落ちる。
だが、それで終わりではない。
コンテナの陰から二人の男が飛び出してくる。
すちは避けなかった。
振り下ろされた腕を正面から受け止めた。
掴んだ腕を引き込みながら滑り込むように背後に回る。
男が驚くより速くその腕を背中側に捻じ曲げた。
骨の軋む鈍い音が響く。
男が倒れるより先にすちは拳銃を引き抜き、後頭部を撃ち抜いた。
もう1人の男が状況を理解する頃には、すちが放った2発目の弾丸が彼の胸部を貫いていた。
静寂がその場へ戻る。
立っているのは、いるまとすちだけだった。
足元では、最初の男が荒い呼吸を繰り返している。
命乞いをするように後ずさりながら、男は唇を歪めて笑った。
「……紅瀬も終わりだな。」
「ガキを若頭に据えてよ、随分と落ちぶれたもんだ。」
その言葉に、すちの足が止まる。
目の前の青年の空気が、変わったことに、男は気付かない。
「どうせ潰れる組だ。そんなところで尻尾振ってるお前もーー」
言い終わる前に、男の胸倉が乱暴に掴み上げられ、勢いよくコンテナへ叩き付けられる。
「すち。」
いるまが静かに名を呼ぶ。
返事はなかった。
男は痛みに顔を歪めながら、それでも笑みを浮かべた。
その瞬間、銃声が響いた。
一発。
続けて、二発。
そして三発。
男はとっくに動かなくなっている。
それでも、すちはしばらく銃口を下ろさなかった。
「もういい。」
いるまの声で、ようやく我に返る。
血塗れの地面と、強い硝煙の香り。
すちはゆっくりと銃を下ろした。
倒れた男たちはもう動かない。
「……やり過ぎだ。」
煙草へ火を点けながら、いるまが静かに言う。
咎めるような口調ではなかった。
「一発で仕留められた。」
吐き出した紫煙が夜風へ溶ける。
すちはしばらく返事をしなかった。
握った拳銃は、まだ熱を帯びていた。
「……すみません。」
いるまは何も言わない。
煙草を咥えたまま、足元へ転がる男へ視線を落とす。
「任務中に感情的になるな。」
すちは目を伏せる。
感情を出すつもりなどなかった。
けれど、あの男の言葉を聞いた瞬間、何かが切れた。
他所の組に侮辱されることなど、今まで何度もあった。
その度に何も思わなかった。
自分には、関係のない話だったから。
それなのに今日は違った。
あの言葉を聞いた瞬間、胸の奥から込み上げてきたものは怒りだった。
あの屋敷を。
紅瀬を。
暇を。
誰かに踏み躙られることが、心の底から腹立たしかった。
その感情が理解できず、すちは無意識に拳を握り締める。
「……らしくねぇな。」
ぽつりと呟いたいるまの声に、すちは顔を上げた。
「何がですか。」
「お前のことだ。」
いるまは苦笑する。
「今まで、冷静さを欠いたことはなかった。」
返事はない。
夜風が二人の間を吹き抜ける。
「何が障った。」
その問いに、すちは答えられなかった。
答えを持っていなかった。
自分は浅葱の為に、情報を流し続けるためだけに生きている。
それなのに。
いつからだろう。
屋敷へ帰れば安心するようになったのは。
縁側から見える木々を美しいと思うようになったのは。
そして、あの少年が笑っているだけで、胸を撫で下ろすようになったのは。
「……帰るぞ。」
いるまはそれ以上何も聞かなかった。
吸い殻を踏み消し、背中を向けて歩き出す。
すちは夜風に吹かれながら、その背中を追った。
屋敷へ戻れば、きっとあの少年は今日も表情を緩めてくれる。
そんなことをまた考えてしまった自分に気付き、すちは唇を噛んだ。
◇
屋敷へ戻った頃には、日付が変わろうとしていた。
玄関をくぐると、屋敷はすっかり寝静まっている。
返り血の付いた手袋を外しながら歩いていると、廊下の先から柔らかな声が届く。
「おかえりなさい、すち。」
翠だった。
湯気の立つ湯呑みを手に、静かに微笑んでいる。
その少し後ろには、壁際に控えるみことの姿もあった。
「ただいま戻りました。」
すちが頭を下げると、みことも小さく会釈を返す。
「お疲れさまでした、碧海さん。」
「そちらもお疲れ様です。柚葉さん。」
穏やかなやり取り。
けれど、みことの視線は一瞬だけ、すちの手元へ落ちた。
指先には、手袋から染みた赤黒い跡が残っている。
すちはその視線に気付いていたが、何も言わなかった。
みことは知っている。
すちが、暇にとってどれほどの存在なのか。
だから、自分の中に生まれる僅かな警戒を、簡単には口にできなかった。
「遅かったわね。」
翠が声を掛ける。
「少し長引きまして。」
「そう。」
翠はそれ以上追及することなく頷いた。
そして思い出したように、再び口を開く。
「そうそう。若がお待ちよ。」
「……若が、ですか。」
「ええ。今日は早く寝なさいって何度も言ったのだけれど、『あいつが帰るまで起きてる』って。」
思わず苦笑が漏れる。
「困った方ですね。」
「貴方も甘いでしょう。」
翠はくすりと笑った。
みことも僅かに目元を緩める。
「最近は特に、貴方のことをお話になりますよ。」
その言葉に、すちの表情がほんの少しだけ柔らかくなった。
「……そうですか。」
「ええ。」
すちと関わるほど、みことは余計に複雑な気持ちになる。
けれど今は、暇が待っている。
それを尊重したかった。
翠が湯呑みを置き、すちへ視線を向ける。
「汚れを落としてから行ってあげなさい。血の匂いなんて、若は大嫌いだもの。」
「……はい。」
短く返事をすると、すちは一礼して廊下の奥へ向かう。
その背中を、みことは黙って見送った。
すちの姿が角の向こうへ消えてから、翠が小さく息を吐く。
「……みこと。」
「はい。」
「心配なのね。」
みことはすぐには答えなかった。
「若のことを考えれば、気にしないわけにはいきませんから。」
それだけ答えて、みことは廊下の先へ視線を戻した。
そこにはもう、すちの姿はない。
暇の部屋へ続く廊下が、淡い灯りに照らされていた。
◇
「若、碧海です。」
襖を軽くノックし、声を掛ける。
「入って。」
返事はすぐに返ってきた。
襖を開けると、文机に向かう暇の姿があった。
教科書やノートが何冊も広げられている。
眠そうに頬杖をついていた暇だったが、すちの姿を見るなり表情を明るくした。
「おかえり。」
「ただいま戻りました。」
「待ってた。」
その一言だけで、今日一日の疲れが少しだけ軽くなる気がした。
「こんな時間まで起きていてはいけません。」
「寝られなかった。」
「本当ですか。」
「いや、頑張って起きてた。」
悪びれもなく笑う暇に、すちは肩を竦める。
「それで、今日は何を。」
「数学。」
そう言って教科書を持ち上げる。
「全然分かんねぇ。」
すちは傍にあった椅子を引き寄せ、暇の隣へ腰を下ろした。
「これはですね。」
紙へ式を書きながら、一つずつ丁寧に説明していく。
「なるほど……。」
「では、この問題はご自分で。」
「えぇ……。」
不満そうな声を上げながらも、暇は鉛筆を動かし始める。
やがて答えを書き終えると、すちは一通り目を通し、小さく笑った。
「正解です。」
「ほんとか。」
「ええ。」
暇は少しだけ得意そうに笑った。
その笑顔を見ているだけで、すちの心は不思議と穏やかになった。
静かな夜だった。
部屋の外では風が庭木を揺らしている。
しばらく問題を解き進めたところで、暇がふと鉛筆を止めた。
「なぁ、すち。」
「はい。」
「お前、教えるの上手いよな。」
「そうでしょうか。」
「おう。」
暇は少し考えてから、何気ない調子で尋ねた。
「先生とか、いたのか。」
その問いに、すちの指先が止まった。
ほんの一瞬。
いくつもの記憶が脳裏をよぎった。
明瞭に浮かんだのは、桃李らんの横顔。
字の読み書きから勉強、礼儀や作法、この世界で生きるための知識まで叩き込まれた日々。
紅瀬に潜入してからも、会う度に自分を気にかけてくれる。
それらは、暇には決して話せない時間だった。
「……いましたよ。」
少しだけ間を置いて、すちは微笑んだ。
「お世話になった方が。」
「そっか。」
それ以上は聞かなかった。
聞けなかった。
暇には、先生と呼べる人はいない。
勉強を教えられたことはあったけれど、学校へ通ったことはなく、友達と机を並べたこともない。
優しく褒められ、厳しく叱られる、当たり前の子供の時間を知らない。
それでも、そんな日々の中で、すちだけは特別だった。
すちといる時だけは、若頭でなくてもよかった。
自分が独りであることを忘れられた。
しかし、今になって気付いた。
自分は、すちのことを何も知らない。
どんな風に生きてきて、誰と関わって、何を大切にしているのか。
隣にいたはずなのに、自分の知らない時間があまりにも多い。
「……いい先生だった?」
暇がそう尋ねると、すちは一瞬だけ目を伏せた。
それから、穏やかに笑う。
「ええ。とても。」
その笑顔の向こう側へ踏み込んではいけないような気がした。
部屋には再び、鉛筆の走る音だけが響き始める。
彼は隣にいる。
それ以上を望む必要も、考える必要もない。
そう思うことにした。
コメント
1件
みぅです🤍🥀 第2話、読み終えました。 すちの、あの“一瞬の間”がすごく気になりました。 暇を想う気持ちと、自分は浅葱の犬だという言葉の間で、彼の心が軋んでるのが伝わってきて…。 縁側で肩を寄せて寝る場面がすごく優しくて、だからこそ、そのあとの任務の冷たさが胸に刺さりました。 茜音さんの描く“静かな闇”と“ぬくもり”の対比、すごく好きです。 次も読ませてください🌙