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そして円香の方はというと、比較的穏やかな日常を過ごしていた。
縁談を受けた円香は婚約者である颯と会う回数を増やし、最近では休日になる度、二人で過ごすようになる。
ただ、二人きりの時間を過ごすと言ってもあくまでもどこかへ出掛ける程度で、親密度は比較的低めだった。
恋愛慣れしていない円香としてはそれでもだいぶ頑張っている方なのだが颯からすれば、どこかへ出掛けて話をして食事をする、まるで学生のデートのような事だけでは物足りないようで日々不満が募っていたらしく、ついに我慢の限界を迎えた彼はデートの途中で円香にこう言った。
「円香さん、俺たち、そろそろ次のステップに進んでも良い頃だと思わない?」
「……次の、ステップ……ですか?」
「俺たちはもう子供じゃないし、婚約者だよ? いつまでもこんな学生みたいなデートばかりじゃさ、物足りない気がするんだよね」
「……そう、でしょうか?」
颯の言いたい事を何となく理解していた円香だったけれど、それには素直に頷けない。
いくら婚約者と言えど、円香の中には未だ伊織が居る。例え結婚したとしても、伊織を完全に忘れる事など出来るはずはないのだ。
それでも、いつまでも過去に縋る事は出来ないと分かっているから、颯と向き合おうと努力はしているけれど、やはり心の底から好きでも無い男の人とキスをしたり、その先に進む事が、今の円香にはどうしても出来なかった。
「すみません……今はまだ……」
「今は、ね。分かったよ。今は円香さんの意見を尊重するよ」
「ありがとうございます」
「ただし、それはあくまでも結婚するまで。夫婦になれば、拒む事は許されないよ?」
「……分かっています」
「ならいいけどね。さてと、それじゃあ今日はこれから買い物でもしようか」
「はい」
初めは颯の事を気遣いをしてくれる優しい男の人だと思っていた円香だけど、縁談を受けて会う回数を重ねる度、本性が表れていると密かに思う。
颯は円香より一つ歳上なだけなのだが、妙に上から目線なところも気にかかるのだ。
(……何だか、一緒に居るの、疲れるな……)
そんな円香の胸の内など誰も知るよしは無く、江南家の融資のおかげで会社も再び軌道に乗り始めた事を雪城家の人間は皆喜んでいた。
それから更に半月程が経ったある日、江南家に招かれていた円香は予定より少し遅れて到着すると、颯も出掛けていて戻りが少し遅くなるという事で、客間に通されて颯の帰りを待っていた。
待っている間に御手洗へ向かった円香が再び客間へ戻る途中、ある一室からコソコソと話し声が聞こえてきたので耳を澄ませてみると、その声の中には出掛けているはずの颯のものも混ざっている事に気付く。
それを不思議に思った円香がこっそり声のする部屋を覗いて見ると、そこには颯の他に、颯の父親で江南家当主、江南 宰三と、颯の兄で江南家長男、江南 肇の三人の姿があり、彼らの良からぬ企みを聞いてしまう事になった。
「なあ親父、一体いつになったら式の日取りが決まるんだよ?」
「それがな、雪城の方はもう暫く待って欲しいの一点張りなんだよ」
「はあ?」
「何でもあの娘がイマイチ乗り気じゃないようでな、父親としても、無理矢理挙式を挙げさせるのは本意じゃないらしい」
「はぁ……本当、あの女面倒だよな」
「まあまあ、そんな事言うなよ。籍を入れればこっちのモンだろ? 焦って駄目になったらそれこそ問題だ。多少面倒でも我慢しろよ」
「あのな、兄貴は自分がやる訳じゃねぇからそんな事が言えるんだよ。婚約者だってのに未だにキスすらさせねぇんだぜ、あの女」
「それはなかなか。初心そうな子だし、初めてなんじゃないの?」
「どーだろうな。アイツ、結構良い身体してるし、早くヤリてぇんだよなぁ」
「颯、あまり下品な事ばかり言ってるなよ。とにかく、もう暫くは今のまま耐えてくれ。籍だけでも早めに入れるよう、雪城には頼んでみるさ」
「頼むぜ親父。さっさと籍入れて、雪城の財産を全て頂くために、雪城の人間は排除しねぇとな」
三人の話は円香にとって衝撃的だった。
聞いてはいけない話を聞いてしまった円香は物音を立てないようゆっくりその場を後にすると、具合が悪くなったと使用人に告げて逃げるように自宅へ帰って行った。