中村という苗字にも馴染んでいただけに、旧姓の蜂谷に戻ることに、愛理は若干の違和感を覚えてしまう。
旧姓に戻るとなると、会社を始め、免許証、銀行やクレジットカード、保険など変更の届け出をしなければならない書類が山ほどあるのだ。
問題も片付いたことだし、翔の部屋をいつまでも占拠しているのも気が引ける。そろそろ本格的に一人暮らしの部屋を探して住民票を移した方がいいだろう。
──部屋を借りて、住民票を移してから、各種手続きをした方が、手間が減りそう。ああ、でも会社には早く言わないと……。
愛理は、これからの手順を無駄なぐらいにグルグルと考えてしまう。
翔のマンションの近くにある。松乃葉寿司のカウンター席に並んで座った翔と愛理は、大将オススメの握り寿司を堪能していた。
お腹がだいぶきつくなった頃、考えごとのせいで百面相をしている愛理の様子に、クスリと翔が笑う。
「愛理さん、まだ何か悩みがあるの?」
無事、淳との離婚が成立し、美穂へ慰謝料請求の内容証明も送ってある。淳も深く反省の色を見せていたから、この先の心配はなくなったはずだ。
何に憂いを覚えているのか気になった翔は、つい、訊ねてしまった。でも、愛理から出た言葉は他愛のないものだ。
「名字の変更手続きで届けを出さないと……はぁ~、めんどくさい。会社に離婚の報告するのも、ちょっと気が重いな」
愛理は、不満気に口をとがらせた。
そんな表情さえも、翔の瞳には可愛らしく映る。
以前落ち込んでいた頃より、愛理の瞳の輝きは増し、顔色もいい。誰が見ても綺麗になっている。
苗字が旧姓に戻り、愛理がひとり身になったのが周知されれば、ここぞとばかりに付き合いたいと立候補する男性が現れそうだ。いっそのこと、旧姓に戻さないで、そのまま中村姓を名乗ってくれれば良かったのにと、不安に駆られた翔はそんなことまで考えてしまった。
離婚したばかりの愛理を急かすつもりはない、ゆっくりと、待つつもりでいる。それなのに、時折、独占欲が頭をもたげる。
「翔くん、お部屋も借りたままでごめんね。早めに探すからね」
明るく弾んだ愛理の声に、翔はふわりと微笑んだ。
「前にも言ったけれど、急ぐ必要はないから」
「ありがとう。でも、住民票を移さないとイロイロな手続きが二重手間になりそうだから」
「それじゃあ、この後、不動産屋さんを覗きに行こうか」
ふたりで外食をするのは、福岡から帰って来た日に、淳の不倫で落ち込む愛理と昼食を取った以来だ。それからは愛理が淳と離婚するのに不利にならないように、控えていた。
これからは、まわりの目を気にしないで食事に行ったり、買い物に行ったりできると思うと翔の顔は自然にほころんでしまう。
食事の後、近所の商店街をふたりで、ぶらぶら歩き、不動産屋さんのウインドウにびっしりと貼られた賃貸物件情報を覗いてみる。
ひとり暮らしなのだから、そんなに広くなくてもいいけれど、安全面を考えると譲れない条件も出てしまう。
「部屋は4階以上、オートロックがついていて、セキュリティーがしっかりとしているところだよ」
確かに翔の言う条件はもっともなのだが、予算というものがある。大手建設会社に勤める翔と、中小企業に属する愛理とでは、手取り額が違うのだ。
「うーん、築年数はこだわらないでもいいかなぁ」
「急いで決めなくても、タイミングで条件に合う物件が出るかもよ。ネットだけじゃなく、不動産屋さんに声をかけて置くと、退出物件を教えてもらえたりするから話しだけでもした方がいいよ」
「そうだね。条件だけでも伝えて探してもらうね」
と不動産屋のドアに手を掛けたところで、翔のスマホが着信を告げた。休日だというのに会社からの電話で、翔は渋い表情を浮かべながらスマホをタップした。愛理は翔に不動産屋に入っているね。とジェスチャーで伝えて、お店のドアを開ける。
愛理は、窓口で受付票を記入しながら、翔のことを考えていた。福岡から帰ってきた日から、忙しい中、無理をして自分のために時間を作ってくれていた。
何かあれば、気が付いて駆け付けて来てくれて、困ったときには、付き添いもいとわず、メッセージもまめにくれて、落ち込みがちな気持ちを支えてくれた。
もしも、空港で翔に会わなかったら、今でも、どうしていいのかと思案に暮れて、泣いていただろう。
人と人の出会うタイミングは、神様のいたずらというか、運命というか不思議なものを感じてしまう。
不動産屋さんの前で、待っていた翔は、珍しく落ち込んだ様子で、仕事の電話が良くない内容なのかと愛理は心配になった。
「翔くん、お待たせ」
「あっ、愛理さん、不動産屋さんに付き添えなくてごめんね」
と、普段と変わらない笑顔を見せられて、愛理は翔のために何ができるのか考えてしまう。
──会社のトラブルだと、なにも手伝えることはない。だからといって、知らんぷりもしたくない。いままで、たくさん助けてくれた翔に何か返せるものがあればいいのに……。
「電話、お仕事のことだったんでしょう? もし、会社に行かないといけないなら遠慮しないでね」
気の利いたことも言えずに自己嫌悪に陥りながら、愛理は翔の様子を窺った。それに気づいた翔は愛理に気を使わせてしまったと、バツが悪そうに髪をかき上げる。
「あー、今日は、のんびりできるんだけど……。福岡の現場でトラブルがあって、明日、午前の便に乗らないといけないんだ」
愛理とせっかく、楽しく過ごしていたのに水を差すような仕事の電話。それも福岡の現場のトラブルで数日、向こうに居なければならない。
「えっ⁉ 明日、福岡へ行くの? 羽田から?」
明日、羽田に行くという話しに、愛理は、食い気味みに反応してしまう。
そんな愛理に翔は、目をパチクリしている。
「そうだよ」
「私もちょうど、明日、お客様のお出迎えで羽田に行くの。翔くんのこと、空港でお見送りしてもいい?」
ささやかなお返しだけれど、少しでも翔の力になれたらと、愛理は考えたのだ。
「見送りしてくれるなんてうれしいよ」
出張で暫く愛理と離れなければならないと、落ち込んでいた翔だったが、愛理が見送りをしたいと言ってくれて、気分が浮上する。
──我ながら、だいぶ重症だな。
***
翌朝、愛理は翔の運転する車の助手席に座り、高速道路から見える景色を堪能していた。
以前、翔と羽田から自宅へ向かうときは、重い雨雲が立ち込め、憂鬱な気持ちだった。でも、今日は高く晴れ渡った空の下、東京湾がきれいに見えて、気持ちがいい。
朝のラッシュも手伝って、所々で若干のろのろと進むが、ほぼ予定通りに羽田空港に到着した。立体駐車場をクルクルあがり、前もって予約しておいたスペースに車を停めた。
「ここに来ると、翔くんに福岡空港で会ったときのこと思いだしちゃう。あのとき、翔くんに偶然会っていなかったら、いまこうして笑えていなかったと思う。翔くん、ありがとう」
もしも、福岡空港で愛理に偶然、出会わなければ……。
それを考えると翔の気持ちは闇に沈む。
あのとき、アッシュグレーの髪色の男は、愛理を探していた。
もしも、カウンターで愛理に声をかけられなかったら……。
アッシュグレーの髪色の男は愛理を見つけていただろう。
長年想いを募らせていた愛理のすべてを知る男。
それを考えただけで、胸が苦しくなる。
「オレも愛理さんに出会えて良かった。出会えなかったら、一生後悔していた」
憂いを含んだ瞳でそんなことを言われると、愛理の胸の奥は切なく痛む。
「福岡での仕事、どのくらいの日程なの?」
「トラブルの処理だから、日にちが読めないんだ」
と、翔はうつむいた。
「そうか……。早くトラブルが片付くといいね。帰ってくるの待ってる」
帰りを待つと言って、肩を落とす愛理の様子に、否が応でも翔の気持ちは膨らんでしまう。
「愛理さん……」
車から降りた愛理の上に、コンクリートの柱の間から朝日が差し込んだ。眩しさで目を細めた愛理の上に、スッと影が降りて来る。
それは、翔が日差しを遮るように、愛理の目の前に体を寄せたから。
グリーンノートがふわりと香り、距離の近さを感じさせられる。切なげに揺れる瞳に囚われ、愛理の心臓の鼓動はせわしなく動き出した。
「愛理さん、キス……いい?」
その声が聞こえた瞬間には、翔の唇が額に触れていた。チュッと音を立てて唇が離れる。
──甘やかに囁かれて、まさか、おでこにキスをされるなんて。
愛理は恥ずかしさが先に立ち、耳まで真っ赤になってしまう。
そんな愛理が可愛く思えて仕方のない翔は優しく微笑む。
「もっと……いい?」
翔は艶のある声でねだるように囁き、愛理のこめかみに唇を寄せた。そして、唇を少しずらし瞼にもキスをする。愛理の輪郭を確かめるように大きな手のひらで頬を包み、唇を重ねた。やわらかな愛理の唇。吐息さえも甘く感じる。
恋焦がれた愛理との口づけに、頭の芯から蕩けるような高揚感を味わい。
やがて、唇を離すと朝のひんやりとした空気が熱く火照った頬を撫でていく。
「好きだ……」
愛理の耳元で囁き、冷たい外気から隠すように抱きしめた。
「翔くん……」
淳と離婚したばかりで、義理の弟だった翔。誰よりも信頼しているし、頼りにもしている。でも、今はまだ、自分自身の生活を立て直さなければならない時期。翔の想いを受け入れたい気持ちはあるけれど、すぐには受け入れられない。愛理は、返す言葉を見つけられず、胸が詰まったように苦しく感じた。
愛理の気持ちが落ち着くまで、ゆっくりと待つつもりだったのに、心の不安が翔を急かした。
頬を赤らめながらも眉尻を下げている愛理を見て、翔は困らせているのを自覚する。
「ごめん、出張に行くだけなのに感傷的になり過ぎた。そろそろ、搭乗口に向かおうか」
「うん……」
愛理は、この場を引いてくれた翔の優しさを受け取りながらも、返事を引き延ばしてしまった自分をズルいと思った。
でも、ゆっくりと自分のペースでいいと言ってくれる翔の言葉に、もう少し甘えさせてもらって、心の準備を整えたい。
「翔くん、ありがとう」
「ん、何が?」
「いつも元気をくれるから」
「オレも愛理さんから元気もらっているよ。でも、今日はこれから大変なお仕事が待っているから、もっとパワーが欲しいな」
そんなことを言って、スーツ姿の翔が手を差し出す。
愛理は、大きな手に自分の手を重ねると、温かさが沁みてくる。
手を繋いだまま、ターミナルへ続く連絡歩道橋を歩き出した。
2階出発ロビーに着いても手を繋いだまま、空いている椅子に腰を下ろした。
手を繋いでほわほわした気持ちで居るなんて、まるで、学生の頃に体験したような甘酸っぱさを思い出してしまう。
繋いだ手の指先が、少しずつ動いて、いつの間にか絡み合い恋人繋ぎになっている。
愛理は、横に居る翔をチラリと見上げた。目が合うと翔は、いたずらっ子のような笑顔を浮かべ、手をキュッと握られる。
「お客様のお迎えって?」
「福岡空港で翔くんに会ったときの仕事のお客様なの。ご実家がこっちでね。今回、帰省されるついでに注文してくれた家具の現物確認をしてもらうの」
「そうなんだ」
「やたら気が合ってね。お客様なのにふたりで屋台ハシゴしちゃった」
愛理はそのときのことを思い出し、楽しそうにふふっと笑う。
その愛理の様子に翔は、心中穏やかでいられない。信じられないとばかりに聞いてしまう。
「お客様と飲み歩いた?」
「そうなの。偶然同い年でね。すっごく気が合ったの」
「へ、へぇ~」
「女ふたりだったせいか、屋台のおじさんがオマケしてくれて、みんなでワイワイ盛り上がって、楽しかった」
女ふたりと聞いて、今日出迎える相手が女性なんだと、翔はホッと胸をなでおろした。
──仕事相手にまで嫉妬するなんて、自分の思考が、独占欲のかたまりになってしまってヤバいな。
と、翔はキュッと瞼を閉じた。
そんな翔の様子に気付かない愛理は、まだ、ふふっと笑っている。
すると、搭乗の最終案内のアナウンスが聞こえて来て、翔は細く息を吐き出した。
保安検査場の前まで来ると翔は恋人繋ぎをしたままの手を自分の口元へ引き寄せ、愛理の手の甲に唇を付ける。
突然のことに顔を赤くして、はわわっとしている愛理を、翔は悩まし気な瞳で見つめた。
「しょ、翔くんっ……」
──愛理さんの心の中が、オレでいっぱいになればいいのに……。
翔は少し寂しそうな笑顔を浮かべ、口元から愛理の手を離す。
「行ってくるね」
最終案内の放送が搭乗を急き立てる。
それに従うように、自分の指に絡んでいた翔の指が離れていくことに、愛理は寂しさを感じる。
「翔くん、早く帰って来てね」
「ん、がんばるよ」
愛理は翔が口づけた手の甲をもう片方の手で握りこみ、保安検査場のゲートをくぐる翔の姿を目で追いかける。
「いってらっしゃい、気を付けてね」
愛理の声に気付いた翔が、嬉しそうに笑い、小さく手を振った。
やがて、翔の姿がゲートの先に消えていく。見えなくなると愛理は急に不安感に包まれた。
優しい翔の存在は、愛理にとって温かい毛布にくるまれているように居心地のよいもの。ライナスの毛布のようにそばにいるだけで安心感を与えられていたのだった。
はぁ、と大きく息を吐き出し、気持ちを仕事モードに切り替える。
愛理は、背筋を伸ばして、1階到着ロビーへ足を向けた。
南ウイング出会いの広場。
福岡便が到着したようで、自動ドアが開き、手荷物の受け取りが無いビジネスマン風の人が出て来た。
実家に帰るなら、お土産とかで、荷物が多いからもっと、時間が掛かるかな?と、愛理は顧客と会える時間を予想した。
自動ドアが開く、ターンテーブルのところに人が集まっているのが見える。
待ち合わせをした顧客の姿を探すも、無機質なドアがスッと閉まってしまう。
不意に愛理のスマホが着信の合図にバイブが震えた。
スマホの画面を見ると、知らない電話番号だ。
でも、スマホの履歴に過去の着信が残っている。
それは、ケガをした日。淳が会社で待ち伏せをしていた時にかかっていた番号だ。
淳が以前使っていたスマホの着信を拒否していたから、新規で契約した番号で掛けてきたのかと、そのときは出なかったことを思い出した。
離婚手続きのことで何かあったのかもしれない、と、今度は電話に出ることにした。
「もしもし……」
視線の先、到着ロビーの自動ドアが開いた。
その自動ドアの向こうに背の高いアッシュグレーの髪色の男性の姿を見つける。
愛理は、信じられない思いで、ひゅっと息を飲み込んだ。
背の高いアッシュグレーの髪色の男性は、スマホを耳にあて足元を見ながら、だんだんと近づいてくる。
『……あいさん?』
スマホから北川の声がした。
アッシュグレーの髪色の男性が顔をあげる。愛理を見つけると驚きで目を見開いている。
愛理は、ただ彼から目が離せず、身動きひとつできなかった。
そして、彼へ残したメモを思い出す。
” もしも、3度目の偶然があったら、運命だと思う ”
神様はいたずら好きで、運命の歯車を気まぐれにまわす。
私たちは、神様のゲームの中で踊らされているのかもしれない。
【おわり】
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