その場にいる全員が驚きに硬直する中、カズちゃんだけが滑らかに動いているのが、舞台劇の演出のようだった。カズちゃんは床に転がる尖ノ森の胸倉を片手で掴み、鼻先がぶつかるほどに顔を近づける。
「僕らの運命を決めつけるな」
声には怒りが籠っていた。表情は見えないが、尖ノ森の見開いた瞳が全てを物語っていた。鬼神の如き、なんて言い過ぎかもしれないが、その怒りは確かに人智の域を超えているのだろう。カズちゃんの手が、普段ならあり得ない乱暴さで尖ノ森から手を放す。床にへたり込んだままの彼に、カズちゃんは視線もくべずに吐き出した。
「僕は君みたいな人が嫌いだ。人を一纏めに決めつける言葉も、僕の大事なもの全部を否定する考え方も。僕は今、君の全てが嫌いだ」
今日はもう君とは話したくない。カズちゃんはそう言うと、俺の手を掴んでその場を離れた。後に残された尖ノ森のどこか哀れな姿に、どうしてか俺は心が晴れなかった。
俺はあいつからカズちゃんの愛を勝ち取ったというのに――――否、その考え方が間違いなのかもしれない――――愛を勝ち取るという発想を持つこと自体が間違いならば、俺も結局は尖ノ森が言うとおり、カズちゃんをいずれ不幸にするのだろう。
尖ノ森の前から立ち去ったその足で、カズちゃんは俺を連れたまま休憩ルームのコーヒーメーカーの元へ向かった。部署で型落ちを安く手に入れたコーヒーメーカーは、二つ前のデザインとはいえココアや抹茶も飲めるので皆に重宝されている。
カズちゃんはコーヒーメーカー前で大きく深呼吸をして、それから俺を振り返ってぎこちなく笑った。カズちゃんは作り笑いが壊滅的に下手なので、小学生くらいの子がこの顔を見たら確実に泣き出すと思う。
「騒ぎに巻き込んじゃってごめんね、マコ。お詫びに一杯おごりたいんだけど、何飲む?」
コーヒーメーカーの横には、一杯五十円の料金を入れる貯金箱が置いてある。コーヒー豆を買う為の募金箱みたいなものだが、意外と皆ちゃんと代金を置いていく。少し考えてから「抹茶ラテ」と言えばカズちゃんは「OK」と笑って、百円を入れてから抹茶ラテとブラックコーヒーを淹れる。温かな液体で満たされたカップを手渡してくれるカズちゃんに「ありがとう」を言って、俺は彼の隣に並び合う。今は、カズちゃんの表情を真っ直ぐに見られなかった。だというのに俺のお喋りな唇は、自分の思いとは真逆にべらべらと喋り出してしまう。
「……尖ノ森、泣きそうな顔してたね」
「ぅ……」
小さく呻き声をあげるのは、良心が痛んでいる証拠だろう。カズちゃんは自分のことで、そう長く怒っていられない性質だから。ミルクをたっぷりと含んだ抹茶ラテを啜りながら、俺はカズちゃんを盗み見る。
精悍な形をした体は、けれども殆どが傷だらけだ。再生能力を駆使して一番傷が少なくしているだろう顔面だって、右耳の裏から両の鎖骨の真ん中にかけて、大きな傷が残っている。
(あれは中学校の時につけられた傷だ。他校のヤンキーが小遣い稼ぎに、プランツェイリアン狩りをしてて)
この頃からカズちゃんは体が大きくなって、世間の不勉強な一般が考える華奢で儚げなプランツェイリアンと一線を画していた。一目見れば鋼の強さを持つと理解出来るカズちゃんを、数で物を言わせるヤンキー共は気付かないふりをした。そうしていかにも「お花ちゃん」と呼べるような貧弱な俺をひっ捕まえて、奴らは危ない組織共にも幅を利かせようとしていた。
(俺は捕まって、カッターで腿肉を削がれそうになったんだった。あいつら、プランツェイリアンには血が通ってないと思ってて)
俺の太腿から血が出た瞬間の狼狽えようは面白かった。その後、激昂してリーダー格をぶん殴ったカズちゃんが切りつけられたのは悪夢だったけれど。耳裏から鎖骨の間。首が斜めに傷ついた瞬間、スプラッター映画みたいに散った真赤な飛沫を、思い出す度に寒気が走る。
(カズちゃんが血液を樹液に変換する方法を知らなかったら、あの一瞬で血液を樹液に変える機転を働かせることが出来なかったら……俺は彼を、喪っていたかもしれないのだ)
何を言っているんだ。胸の底で、酷く冷えた自分の声が響く。喪っていた、ではなく、殺していた、だろうと。
(お前がいることでカズちゃんは危険な目に遭ってきた……お前を愛したが為に、和樹は傷つき続けなければならない。お前が死ぬまで、永遠にだ)
お前さえいなければ、和樹がこれほどまで傷にまみれることはなかっただろう。胸の奥の自分が言う。お前はプランツェイリアンのふりをするばかりで――――結局、和樹にとって何の役にも立っていない――――和樹を傍に置く為に、わざと危険に身を投じているだけなのだ。
「そうか、俺は」
いない方が良いんだ、と、唇が零した、数秒後。びりびりと痺れるような痛みを帯びて鼻が血を噴き出したのは、カズちゃんの渾身の力で殴られたからだ。持っていた抹茶ラテがいつのまにかテーブルに置かれているのを見ると、カズちゃんは俺が火傷をしないように配慮をしてくれたらしい。それでも、彼が起こっているのは目に見えて明らかだったが。
「あ……かず、ちゃ」
「……マコの分からず屋!もう知らない!今日はもうマコとも喋らない!」
俺を真っ直ぐに見つめたまま、カズちゃんは怒りに頬を赤くして、ずかずかと休憩室を飛び出していった。俺に怒りを向けた瞳は、琥珀色がきらきらと光って、まるで黄金色の炎みたいだった。それは炎などではなく、上下の瞼の間で眼球を潤す涙なのだが。暫く冷たい床の上に転がっていた俺は、数分後。慌ててカズちゃんの後を追うのだった。