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檜谷水槽
いがらし
煙草の火が、 暗い夜の中で小さく光った。 僕は肉まんを持ったまま黙った。 男も急かさなかった。 コンビニの横を、 車の音がゆっくり通り過ぎる。 夜は冷えていた。 指先が痛い。
いがらし
男はそう言って、 煙を吐いた。 まるで、 どうでもいい話をしているみたいな口調だった。 知らない人についていくな。 そんな言葉は知っていた。 でも、 帰りたくない。 あの家は寒い。 暗い。 時々、 自分が本当にいるのか分からなくなる。
いがらし
男が言った。 僕は顔を上げた。
いがらし
いがらし
いぶきは答えられない。 怖いはずだった。 知らない大人。 知らない部屋。 でも、 この人は怒鳴らない。 それだけで、 少し安心してしまっていた。
いぶき
いがらし
男は煙草を灰皿に押し付けた。 その言い方が、 妙に自然だった。 まるで、 最初からそこに居てもいいみたいに。
いがらし
僕は長い間黙っていた。 断る理由を考えていたのに、 頭に浮かぶのは、 温かい部屋のことばかりだった。 結局、 小さく頷く。
男は『わかった』とだけ言って歩き出す。 僕は少し遅れてついていった。 夜道は静かだった。 男はほとんど喋らない。 コンビニ袋が揺れる音だけがする。
古いアパートだった。 階段は錆びていて、 廊下の電気は少し暗い。 いがらしはポケットを探りながら、
いがらし
と呟く。
鍵の音。 ドアが開く。 煙草の匂いがした。
途中、 赤信号で止まった時。
いがらし
突然言われて、 僕は肩を震わせた。
いぶき
いがらし
男は前を向いたまま頷く。
いがらし
苗字だけだった。 それ以上は言わない。 僕も聞かなかった。
コンビニ前で嗅いだ匂いと同じだった。 嫌じゃない。 部屋は静かだった。 狭い。 でも暖かい。 テーブルには飲みかけの缶コーヒー。 灰皿には吸い殻。 生活の匂いがした。
いがらし
いがらしはコンビニ袋を机に置く。 僕は部屋の隅で固まったまま動けなかった。
いがらし
僕は首を振った。 服を脱ぐのが怖かった。 痣を見られるのも嫌だった。 いがらしは無理に聞かなかった。
いがらし
それだけ。 怒らない。 機嫌も悪くならない。 それが逆に変だった。 いがらしはキッチンでお湯を沸かし始める。 しばらくして、 カップスープの匂いが部屋に広がった。
いがらし
机の上に置かれる。 湯気が立っていた。 僕はそれを見つめていた。
いがらし
いがらしは煙草を咥えながら言った。 その声は、 静かで眠そうだった。 こんな部屋、 知らなかった。 こんな夜、 知らなかった。 いがらしがベランダを開ける。 冷たい風が少し入ってきた。 煙草の匂い。 夜の音。 その背中を見ながら、 僕はぼんやり思った。 帰りたくない。 その気持ちだけが、 胸の奥で静かに大きくなっていた。