応接室の様な部屋のドアがノックされ、看護師が顔を覗かせる。
赤井看護師
先生、加賀見さんがいらっしゃいました。

ロングヘアーの若い女性が不安な面持ちで看護師に続いて入ってくる。
看護師は、女性を部屋に案内すると、そのまま部屋を後にした。
部屋の中央にあるソファーの傍に立つカジュアルな出で立ちの男は女性をソファーに案内した。
白野医師
加賀見亜莉子さんですね。初めまして神経内科の白野です。よろしくお願いします。

女性は不安そうに周りを見回した。応接家具を中心とした左右対称のレイアウトに時計やカレンダーなどが掛かっていない壁、生活感のない雰囲気であるのに、女性には不思議に落ち着く空間であった。
白野医師
ここは診察室らしくないでしょう。皆さんにリラックスしていただけるようにしています。

亜莉子
はあ

白野医師
ああ、私は医師に見えないかもしれませんね。看護師からも言われます。以前、ハーフパンツを履いてきて、酷く叱られました。

悪戯っ子のように頭を掻く白野医師と愛想笑いをする亜莉子。
白野医師
お茶は如何ですか?ハープティーもありますよ。

亜莉子
ハーブティーを

白野医師は奥の茶棚からティーポットを取り出して、いくつかの瓶に入ったお茶を選びながら話しかける。
白野医師
カモミールなど如何でしょう、リラックスできますよ。

亜莉子
はい、いただきます。

白野がティーポットに淹れたカモミールティーを模様の無い無機質なマグカップに注ぐ。二つのカップを持ってきて一つを亜莉子に手渡し、自分のカップはテーブルに置いた。
出された爽やかな香りのするカモミールティーを一口飲んでほっとした表情を浮かべる亜莉子。
白野医師
では、お話を伺いましょう。紹介状を拝見しましたが、何かお悩みをお抱えのようですね。

亜莉子
はい、よく眠れないのです。頭痛もします。

白野医師
何か生活でストレスを感じていることはありませんか?

亜莉子
見えるものが不自然なのです。

白野医師
具体的に言うと?

亜莉子
時計が逆回りしているように見えるんです。

白野医師
時計の針が?

亜莉子
はい、それから鏡を見ると、自分の顔が少し歪んで見えます。

白野医師
成程、ふわふわした感覚や自分の姿を見下ろしているような感じはしますか?

亜莉子
いいえ、でも自分の体が自分のものでない気がする時があります。

白野医師
他に自覚症状はありますか?

亜莉子
文字が読みにくいのです。

白野医師
見え辛いのですか?

亜莉子
いいえ、はっきりと見えているのですが、よく知っているはずの文字なのに、違和感があって読みにくいのです。

白野医師
例えばどんな文字ですか?

亜莉子
私の名前の「亜」という文字は、読みやすいのですが、「莉」が駄目なのです。

白野医師
眼科には受診されましたか?

亜莉子
はい、両眼とも近視や乱視はないと言われました。

白野医師
そうですか・・・・・いつからそういう症状が?

亜莉子
3カ月前に、交通事故で頭を打ってからです。

白野医師
それで前に通っていた病院に運び込まれたのですね。怪我の具合は?

亜莉子
額をボンネットにぶつけて気を失いましたが、他は掠り傷でした。

白野医師
精密検査の結果はお聞きになられました?

亜莉子
はい、CTもMRIも脳波測定も異常がないそうです。

白野医師
他に気になることは?

亜莉子
文字を書くのが下手になりました。

白野医師
手が震えるとか?

亜莉子
いえ、小さい時に書道や硬筆習字をやっていたのですが、文字のバランスがおかしいのです。

白野医師
この紙にお名前を書いていただけますか?ゆっくりでいいです。

亜莉子
書きました。

白野医師
利き手は左なのですね。

亜莉子
いいえ、右利きですが。

白野医師
そうでした、失礼しました。多少文字の大きさに違いがありますが、私の字よりは、よほど奇麗ですよ。書き順が違うのかな?

亜莉子
あ、そうです。昔習った書き順では、もっと下手になるのです。

白野医師
仕事では、よく文字を書くのですか?

亜莉子
いいえ、書くのは名前と住所くらいです。

白野医師
ではパソコンを使ってらっしゃるのですね。

亜莉子
はい。でも前はブラインドタッチが出来たのですが、今は無理です。手元を見ながらキーを探して入力しています。

白野医師
私も、キーボードは手元を見ないといけません。でもちゃんと仕事はできていますよ。(笑)・・・他に生活でお困りのことは?

亜莉子
以前、車を運転した時、うっかり交差点で逆行してしまいました。

白野医師
一方通行を?

亜莉子
いえ、普通の道路です。

白野医師
いやあ、私も運転は苦手なので、やってしまったことがあります。焦りますよね。

亜莉子
はい、それ以来、運転はしていません。

白野医師
悩みを抱えながらの運転は危ないですから、止めたのはよかったですね。

亜莉子
先生、原因は何でしょうか。

白野医師
ええと・・鏡の国のアリスをご存じでしょうか?

亜莉子
あのトランプの国に行くお話ですか?

白野医師
そうです、鏡の国のアリス症候群と云われている症状がありまして、脳の表面に位置する大脳皮質と呼ばれる部分に炎症が生じ、知覚異常が引き起こされます。片頭痛も伴います。これとは限りませんが、よく似ていますね。

亜莉子
治るのでしょうか?

白野医師
頭痛はストレスからくるものでしょう。時間はかかりますが、徐々に問題は解決していくと思います。頭痛薬と弱い抗不安薬を使ってみましょう。

亜莉子
よろしくお願いします。

白野医師
いや、お恥ずかしい話、私も子供の頃、木登りで足を踏み外し、気を失って病院に運ばれました。幸い大した怪我もありませんでしたが、精神的なショックで暫く混乱していました。

亜莉子
先生も同じ経験をしていたのですね。

白野医師
私の場合は自業自得ですが。(笑)

亜莉子
(愛想笑い)

白野医師
時々気分転換に海や山など自然の景色を眺めるのが良いかもしれません。それから利き手と逆の手を使って生活してみてください。何か解決策が見つかるかもしれません。時間はかかりますが、一緒に直してゆきましょう。

亜莉子
はい、ありがとうございました。

丁寧に礼を述べて、診察室を後にする亜莉子。入れ替わりに赤井看護師が診察室に入ってくる。
赤井看護師
珍しい症状のゲストですね。

白野医師
うん、僕が知っている限り二人目だね。

赤井看護師
病名を患者さんに知らせなくてよいのですか?

白野医師
治療法がないからね。彼女も僕も一生鏡の中で生きていくしかないんだ。

白野医師は残りのハーブティーを一口に飲み干すとカルテに鏡文字で診断結果を記入した。
るれらみが識認転逆の右左 い疑の害障別識右左 群候症ンマトスゲ