私は走り続けていた
できるだけ遠くへ 行かなければ
私のせいで、宮原をこれ以上巻き添えにはしたくない
行くあても、どこを目指せばいいかもわからないけれど
それでも息を切らして走り続ける
私は走って走って―
転んだ
浅野
刺すような痛みに手を当てる
転けた拍子に肘を大きく擦りむいていた
よく前を見ていなかったせいだろう
何かに足をとられたらしい
そしてふと足元を見ると
老人が倒れていた
急いで駆け寄るも、どこか怪我をしているわけではないようだった
老人
額に汗を浮かべ、胸を押さえている
しかし、老人はバックらしきものを何も持っていない
浅野
骨ばった指がよろよろと持ち上がり、少し先のアパートを指差す
背負って連れていけない距離ではない
しかし、私はここで選択を迫られる
ひとつは、救急車を呼んだ上で老人を置いて、あのゴーストから逃げる
もうひとつは、老人を家まで連れてから逃げる
普通なら迷わず後者を選ぶところだが
その場合、私の近くにいることでこの老人をゴーストの危険にさらすことにもなる
かと言って、私には老人を見捨てるようなこともできない
迷っている余裕はなかった
浅野
焦って混乱しきっている私は、自分でもよくわからない言葉が口をついて出た
もう やけくそだ
すぐに薬をみつけてアパートから離れればいい
良心を捨てきれなかった私は、老人を背負って走り始めた
2020ヒルズ
結構古いアパートのようだ
浅野
鍵は老人が首から下げているのを使わせてもらった
建てつけの悪くなった扉がギギッと音をたてて開かれる
浅野
扉の先には異様な部屋が佇んでいた
家具らしきものは見当たらず、天井の灯りさえ剥き出しのまま
6畳くらいの空間には物が何も置かれていない
暗がりの真ん中にある椅子を除いては―
とりあえず、老人をその椅子へ慎重に腰下ろさせる
浅野
………
言葉をかけるも返事がない
と、微動だにしなかった老人の肩が小刻みに揺れた
不思議に思って 顔をのぞき込む
苦しそうな表情が崩れ落ち、老人は突然笑い始めた
椅子をがたがたと揺すり、よじれるように歯をみせる
老人の奇行に言葉を失っていると、ようやく笑い終えた老人が口を開いた
老人
カーテンから漏れる光のみの暗がりから老人のしわがれた声が響く
演技…?
先ほどの苦しげな様子は微塵もなく、その声はしっかりとしている
何がなんだかわからない
と、不意に体に大きな力が被さり、床にねじ伏せられた
浅野
なんとか首をもたげると、いつの間にか数人の男たちに囲まれていた
老人
秘密ってなに?
この人は一体……
老人
勉強不足といったところか…と訳のわからないことを呟く
老人
そう言って老人が杖をつくと、数名の男たちが動き出す
後ろで何やら がちゃがちゃと物を引きずっているような音が聴こえた
しばらくすると前触れなく、ぱっと壁に映像が浮かび上がった
浅野
あの病院で私が無理を言って見せてもらったものだ
老人
老人
浅野
老人
老人はゆっくりと首を振った
老人
語気を強め、杖で映像を指す
老人
老人
やはりこの老人は、あのゴーストのことをよく知っている
浅野
ゆっくりと言葉を選んで問い返す
老人
ぎろりと窪まった眼がこちらをとらえる
老人
浅野
老人
そのとき、暗がりで老人に握られたスマホが光った
老人
見た目とは裏腹にすばやい動作で電話にでる
老人
老人
こちらを見下ろしながら、影のかかった不気味な笑みを浮かべる
老人
老人
相手との話が終わったのか、スマホを隣の男に手渡す
浅野
老人
老いた眼のぎらつきが増していく
老人
浅野
老人
浅野
言い返せなかった
老人
うつむく私を笑い飛ばすように問い詰める
老人
それは…
違う そんなはずない……
違うちがう 私は―
早く、はやく
ここから逃げ出さなければ
浅野
浅野
老人
老人は眉間にしわを寄せる
浅野
できるだけ丁寧に、相手に悟られないように…
時間を稼いで、逃げる隙を―
老人
心の中を見透かすような老人の言葉にはっとする
首すじに冷や汗が伝った
老人
そう言って老人は深々と椅子に掛け直し、ぽつぽつと話し始めた
老人
こつと杖が床をつく
老人
二体……?
老人
老人
大袈裟に手を広げてみせる
老人
老人
宮原の、こと…?
老人はこちらの反応を楽しんでにやにやとしている
老人
老人
老人の声が低くなる
老人
話は少し長くなるが、君にはとっては好都合だろう?
ある日、長崎の山間部にある洞窟から古いゴーストが発見された
その念の規模は巨大、そして実体化していた
送った精鋭たちは成果もあげずに逃げ出そうとする始末だった
その上 妙な音楽が聴こえるなどと言い出す
当然駆除は上手くいかず、死者も大勢出た
かなり手こずらされたが、解念剤の開発によってようやく捕獲まで持ち込んだ
だが…完全に解念するには、我々にはまだ技術が足りなかった
それ故、THE LIGHTは解念剤の研究に使われることになった
そう、当初の目的はそれだった
しかし長年の研究の末に、我が社の研究チームが興味深いことを発見した
それは“妙な音楽”について
改めて報告書を見返すと、その記述が多く残されていた
あの言葉は ただの精神異常ではなかったのだ
当時の人間からの聴取やTHE LIGHTの反応から研究を進めていくと、
クラシック音楽、特に『交響曲第9番 歓喜の歌』に対して、THE LIGHT に反応がみられた
このことを利用できると踏み、とある実験が開始された
まず手始めに、我々は THE LIGHT の性質の変容を試みた
見事に実験は成功
新たな念を混ぜ込むことで、容易に凶暴性が上がった
そこからは面白いように研究は進んだ
長崎、広島の二体を融合させ、さらに強大な力をやつの念の望むままに与えた
そして、最終段階―人体実験に踏み込んだ
老人
老人
くっくっと老人の嫌な笑い声が小さな部屋を満たす
老人
老人は壁に映った病院の映像を見やった
老人
浅野
浅野
老人
老人
情のかけらさえみえない顔で、かわいそうに、と呟く老人に吐きそうなほど怒りがこみ上げる
老人
やはりこの価値は計り知れない、と手を大きくひろげ笑う
老人
老人
老人
老人
老人は刈り取るような動きをしてみせた
老人
老人
この老人は、ゴーストを―
浅野
老人
杖を持った怪物が暗闇から眼をぎらつかせていた
老人
老人
答え……
指揮棒を振る あの人の姿が脳裏に浮かび上がる
奏でられているのは、歓喜の歌だった―
老人
急かすような杖の音が迫る
殺される……
本能が警鐘を鳴らしたとき、
幸か不幸か、もうひとつの脅威が私の前に現れた
歓喜の歌だ
老人
老人の杖が音を立てて床に落ちる
そして闇の落とされた部屋が光に包まれた
と、そのとき―
『浅野! 今のうちだ、逃げろ!!』
宮原……っ?
見渡すも、当然彼の姿はない
『いつもの場所で待ってる』
何度も何度も そう繰り返す声
光の塊はすぐそこまで迫っていた
ぐっと拳を握りしめ、光にひるんでいる男の腕から体を引き剥がす
そして視界を奪われた真っ白な世界で必死にドアを探す
老人
老人
部屋には断末魔のような悲鳴があちこちで飛び交う
歌と悲鳴で頭がおかしくなりそうだった
濡れた自分の手
友人の温かな血が腕を伝う
こんなところで…死んでたまるか
何度も自分に言い聞かせ、どうにか正気を保つ
もう、恐怖には屈しない
あんなことは絶対に―
冷たい何かが手に当たった
私はそれを力一杯に回して、日の下へと駆け出した
五章 滅びの歌 了
コメント
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数あるテラーの中から、私のを読んで下さっている皆様 更新遅くなってすみません…